三冊目+第十章:不安
甘い、匂いがする。
強烈ではなく、ほのかな砂糖の香り。
少女はその匂いに手を引かれるように、意識を取り戻した。
辺りは真っ暗で、ふわふわと体が浮いているような感じがする。
そして、甘い匂い。
死んでしまったのだろうか。
まだはっきりしない頭で、つい先程のことを思い出した。
確かに、落ちた。地面から崩れ落ちるような感覚をはっきりと覚えている。
電車の警告音だけが、うるさいくらい聞こえた。
だが、体はどこも痛くない。
「私……死んだのかな…」
「おや、目が覚めましたか」
いきなり飛び込んできた他人の声に、少女の意識は一気に叩き起こされた。
がばっと起き上がり、辺りを見回す。
薄暗いが見覚えのある、部屋だ。
「……自殺屋…さん?」
「はい、いらっしゃいませ」
目が合うと、男はいつもと変わらない微笑みで応えてくれた。
体を見て、どこも痛くないのを確認する。
死ぬどころか、かすり傷ひとつない。
それならば先程までの記憶は、夢だったのだろうか。
「大丈夫ですか?いや、驚きました。掃除でもしようと扉を開けたら、貴女が仰向けに倒れていたものですから。ああ、そうそう」
倒れていた?店の前に?
確かに駅にいたはずなのに、と少女が考えこんでいると、男は小さな白い箱を取り出した。
それを見て少女はあっと声をあげる。
「これ、一緒に落ちていました。貴女のでしょう」
シュークリームだ。箱の角は少しへこみ、細かい汚れがついている。
少女は確信した。
夢でもなんでもない。確かに駅で羽嶋と争いになった。突き飛ばされ、線路に落ちた。
確かに、羽嶋を、殺そうと思った。
「…は……はは、あはは…あはははは!」
恐怖と混乱で、少女は笑っていた。
人を殺そうとした。思うだけではなく、明確に殺そうとした。
もしかしたら、線路に落ちたのは自分ではなく、羽嶋かもしれない。
被害妄想で、記憶が逆転しているのかもしれない。
そう思うと、体が震えた。
「あははははは!あははっ…は…ぁ……う、うぅ…うっ……」
生きていて良かったという安堵と、なんということをしてしまったのだろうという後悔で、今度は涙が溢れてきた。
ソファにうずくまり、声を殺して泣く。
そんな少女を黙って見ていた男は、目の前にしゃがみ込み、少女の肩に優しく触れた。
瞬間弾かれるように少女は男にしがみつき、大声を上げて泣いた。
我慢せず、押し殺さず、泣いた。
少女は落ち着いてから、何があったのかを男に話した。
男は黙って全てを聞き、羽嶋の心配をする少女に優しく声をかける。
「貴女は優しい方ですね。そんなことをされても、相手のことを心配するとは」
「だって…死んでしまったら何も残らないじゃないですか…。その人の存在が、急に消えてしまう…それがどんなに自分にとって憎い人でも、自分の周りの人が急にいなくなってしまうのは、怖い…です」
少女が辛そうな表情で話すのを、男はただ頷きながら聞いた。
また心配そうに大きくため息をついた少女に、男は優しく笑いかけ、髪を撫でた。
「そうですね。自分の近くにいた人が、次の日から突然いなくなってしまう。とても怖いことです。貴女も、同じように思われていますよ。無事でよかった」
男の言葉に、少女は少し驚き、少し複雑そうな顔をしてから、笑った。
「あ、あの、シュークリーム…」
しばらくソファで横になり、テーブルの上の蝋燭を見つめていた少女は、思い出したように声を発した。
カウンターで本を読んでいた男は読み途中の其れに栞を挟み、立ち上がる。
「溶けてしまわないようしまってありますよ。どなたかへのお土産なのでしょう?」
「え、あ、その…」
貴方へのお土産なんです。そう言うのを少女が少し躊躇った間に、男はカウンターを離れて店の奥へと消えてしまった。
仕方なくソファに座り直し、少し乱れた髪を手櫛で整える。
外はもう真っ暗だった。
しばらくして、男は白い箱を手に持ち、戻ってきた。少女の目の前にくると、その手を取ってそこに持たせる。
黙ったままカウンターに戻ろうと少女に背を向けた。
「…あの、これ…自殺屋さんに…」
少女の言葉に、男は少し動きを止め、不思議そうな顔で振り返った。
何かを考えるように目を伏せて、首を傾げる。
「私に、ですか」
「あ、はい…あの、お礼です」
お礼、という言葉に、更に不思議そうな顔をする。
「お礼されるようなことを、私が致しましたか」
その言葉を聞いて、少女はばっと立ち上がった。その勢いに、男は少し驚く。
「あの日、私を助けてくれたのは自殺屋さんです。追いかけられて怖くて、死んでしまいたいと思った私を助けてくれました。確かにあの時の傷では死ねなかったかもしれないけど、きっと自殺屋さんに会ってなかったら、私あの後死んでしまっていたから…。だから、その…」
一気に話したあと、最後に小さく、お礼なんです、と付け加える。
無表情に少女の言葉を聞く男を見て、少女は自分がしていることが迷惑なのかと不安になった。
男にとっては助けたなどという気はなかったのかもしれないと、思った。
下を向いて黙ってしまった少女を見て、男は微笑んでその頭を軽く撫でた。
「ありがとうございます。そんな風に言われたことがなかったものですから。少し鈍かったですね」
顔を上げた少女の表情は、少し驚き、しかし安心したように見えた。
ソファを指し、座るよう促す。
少女が座ったあと、男もその隣に腰をおろした。
「カスタードですか?」
男の問いに、少女は笑顔になって答える。
「色々です。何が好きですか?カスタードと、チョコと抹茶と…あ」
言いながら箱を開けると、シュークリームは気持ち片方に寄り、一部クリームが出てしまっている。
黙って落ち込んだ様子の少女を見て、男は笑って箱に手を出した。
「勢いよく落としたのでしょう。気にすることはありません」
そう言うと抹茶クリームが少し見えるシュークリームを手に取り、一口食べた。
「おいしいですね」
少女は嬉しそうに笑った。
同時に、この男が初めて見せる、人間らしい行動だな、と思う。
少女もチョコレートのシュークリームを手に取り、食べ始めた。
シュークリームを食べ終わり、店を出て家に着いたのは10時過ぎだった。
もう仕事から帰っているはずの父親はおらず、母親に玄関でかなり怒られた。
泣きながら怒ってくる母親に、ごめんなさいと何度も謝りながら、嬉しく思った。
母親からの連絡で家に戻ってきた父親にも、少し怒られた。
「無事でよかった」
父の言葉が、店主のものと重なった。