三冊目+第九章:落
非常に長く更新を停滞させてしまい、待っていて下さった方には申し訳ありませんでした。
私自身余裕がなかったことと、執筆意欲が湧かなかったことが原因です。
これからはまた少しずつ執筆していきますので、お付き合い頂ければ幸いです。
少女が自殺屋に通い始めて半年が経とうとしている。新学期になり、少女も三年になっていた。
桜はもう散ってしまったが、ここ数日は天候が悪く、暖かい日は少なかった。
学校に通う少女の心もまた、暖かくなることはなく、相変わらず寂しく冷たい風が吹くばかりであった。二年間で築き上げられた自分の立場というものは、学年が変わりクラスが新しくなった程度ではそう簡単に変化しないらしい。
少女をいじめていた主な生徒は別のクラスになったが、休み時間や放課後になれば、少女の前に現れ何かといやがらせをしていく。貴重な休み時間にわざわざ離れたクラスへ来たり、帰りを見計らって邪魔をしに来たりと、そんなに暇なんだろうかと呆れてしまう。
そこまでしつこくいやがらせを受けていた少女だったが、学校へ行くことは辞めず、最近ではいじめに対してもそこまで悩まなくなっていた。自殺屋に行くという日課ができてからのことだった。
初めのうちは本を読み進めるのもそこまで早くなかったため、数日に一回店に足を運ぶ程度だったのだが、どんどん自殺屋の本にのめり込み、今では一日に少なくとも二冊は読み切って夕方には店に向かうようになっている。
今日も早く自殺屋に行こうと、帰路を急いだ。小走りに家に帰り、玄関を開けて部屋に駆け込む。机の上に用意しておいた三冊の本を鞄に詰め、手早く私服に着替えて部屋を出た。玄関で靴を履いていると、後ろから声をかけられた。思わぬ事にびくりと体が跳ねる。
「何も言わずに帰ってきたと思ったらまたすぐに靴を履いて。どこに行くの?」
振り返ったそこにいたのは母親であった。そういえば今日は母親の仕事が休みだったんだと、そこで思い出した。
「あ……えっと………ただいま」
どこに行くのかを問われて何と答えたら良いか悩んだ少女は、帰ってきたときに何も言わなかったと咎められたことに対して返事をした。しかしやはり母親が欲しかった返答ではなかったのであろう。変な顔をされてしまった。
「まあ、なんだか最近は元気みたいだからいいけれど。あまり遅くならないでね」
少し困ったような顔をしつつも笑みを見せてくれた母親に、少女はほっとした。はい、と一言返事をして、靴を履く作業に戻る。
靴を履き終えてドアノブに手をかけようとしたとき、母親があっと声をあげた。何かと思い、振り返る。
「そうそう、でかけるなら少しお遣いを頼まれてくれない?俊一伯父さんの家は知ってるわよね?」
「俊一伯父さん?わかるけれど」
「お父さんがこの間会ったときに渡さなきゃいけなかったもの渡し忘れててね。少し遠いけれど大丈夫?」
俊一というのは、父親の兄にあたる人だ。何度か家に遊びに行ったことがあるが、父とはあまり似ない、ふくよかな人だったと記憶している。もっとも最後に会ったのは小学生の時なので、今は少し違うかもしれないが。
そんなことを考えながら、少女は一度頷いた。遠いといっても電車で二十分程の距離だ。どこに行くのか問い詰めずに済ませてくれたことへのお礼に、その位の遣いはどうということもないと思った。自殺屋へ行くのは少し遅れるかもしれないが、店主はいつどんな時間でも店を開けて待っていると言っていたので問題はないだろう。
母親が大きな封筒と財布を持って戻ってきた。何が入っているのかは知らないが、外から触った感じで何かの書類と分かったので、折れないように鞄に入れる。本で折れ目がついてしまわないかと少し心配もしたが、母親の目の前で本を出して入れ直すわけにもいかないので、そのままにしておいた。
少女が封筒をしまっている間に、母親は財布から二千円を取りだしていた。
「それだけ持っていくわけにもいかないから、途中で何か買って行って。伯父さんはビールが好きだからビールと、あと何かお菓子でも」
届け物をするだけなのにそんなものが必要なのかと思いながら、二千円を手に取った。これが大人の常識なのだろう。
「あとこれも。お遣いしてくれるから」
別で渡されたのは、千円だった。貰えるとは思っていなかったので少し戸惑ったが「ありがとう」と一言言って受け取った。
母親に見送られ、家をあとにする。千円を貰ったはいいが、特に今欲しいものはないなと考えながら駅に向かって歩き出した。ビールと菓子を購入するために駅前のスーパーに立ち寄る。夕方ということもあって、店内は賑わっていた。
ビールと適当な菓子折りを手にしてレジに向かう途中、ふと立ち止まった。店の一角で、シュークリームを売っているのを見つけたからだ。甘い匂いがする。シューの中はカスタードだけでなく、色々種類があるらしい。
少女は少し悩んでから四種類のシュークリームを選び、購入した。
自殺屋に持って行こう。あの店主がはたして甘いものを食べるのかどうかは知らないが、たまには少し変わったことをしてみようと思った。あまり良い顔をされなければ、持ち帰って自分で食べれば済むことだ。
久しぶりに会った伯父は、変わっていなかった。ふくよかな体は相変わらずだったし、よく笑うところも記憶と同じだった。
封筒と手土産を渡すと必要以上に礼を言われ、少し上がるようにと誘われたが、早く自殺屋に行きたいと思い、丁寧に断った。
それでも玄関で話し込んでしまい、予定よりは幾分遅れた。話し込んだというよりは、一方的に話されたと言った方が正しいかもしれないが。
シュークリームの中身が溶けて柔らかくなってしまっていないかと心配しながら、少女は足早に駅に向かった。
駅前の時計はもうすぐ七時を過ぎることを示している。店に着くのは何時になるだろうかとため息をついた。
改札を通った時、少女はどきっとして立ち止った。少し向こうに、見覚えのある顔があった。少女をいじめている数人のうちの主犯ともいえる人物、羽嶋である。
よく見ると一緒にいるのは、いつも少女をいじめてくるグループの二人だった。なぜこんなところにいるのかわからないが、今日は相当運が悪いらしい。
あの三人に見つかったらまずい。そう思い、少女はそちらを見ずに走ってホームに向かった。階段を駆け上がり、自動販売機の陰に隠れるように立つ。
あと数分しないと乗りたい電車は来ない。早く来てくれと心から祈った。
ブツッと音がして、すぐに構内にアナウンスが響いた。
「車両点検の影響で5分程遅れております。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません」
最悪だ。
形式的に二度繰り返されるアナウンスを聞きながら、少女は自動販売機にもたれるように座り込んだ。
先程の羽嶋達の様子ではなにか話しているようだったので、まだしばらくそのまま話していてくれと祈るように手を強く組み合わせた。
構内にある時計をじっと見つめる。まるで世界がスローモーションになったのかと思うほど、時計の針は遅かった。
時間が一分、また一分と進む度に、心臓の規則的な音が早くなるのがわかった。
こんな時間にも関わらず構内の人はそこまで多くなく、少女を気にかけるものもいない。
いっそここから消えてしまえたらと、そうすればこんな恐怖から逃れられるのにと少女は荒くなりそうな息を抑えて思った。
「あんた何してんの」
時間が一瞬止まった。止まったのは少女にとっての時間だが。
しゃがみ込みうずくまっていた少女の目の前に、あの独特の蔑むような目をし、にやにやと薄笑いを浮かべる羽嶋が立っていた。両隣に他の二人もいる。
逃げようと立ち上がったが、走り出すよりも腕を掴まれるほうが早かった。
掴まれた箇所から全身に寒気と恐怖が走り、振り払おうと腕を思い切り振り上げた。
「離して!」
しかし元々身体の強くない少女の力が健康な、しかも身長の高い羽嶋に敵うはずがない。抵抗も虚しく自動販売機に体を叩きつけられてしまった。
勢いで頭も強く打ってしまい、目の前がぐらぐらと揺らぐ。
そんなこともお構い無しに、羽嶋は少女の髪を乱暴に掴んで引っ張り上げた。
「あんたさぁ、会っていきなり逃げようとするってどういうこと?挨拶くらいしたらどうなの」
何が挨拶だ。少女は羽嶋の顔を睨みつける。
その反抗的な視線が羽嶋の怒りの琴線に触れたのか、髪を掴んだまま頬を思い切り殴られた。頭の方でぶつぶつと音がして、髪が何本か切れたな、と少女は意外と冷静に思った。
見つからないよう祈り怯えていたさっきまでが嘘のように、頭の中に恐怖は無くすっきりしていた。さっき自動販売機にぶつけた瞬間からだろうか。
そしてその頭の中で冷静に、考えた。
もうすぐ電車が来る。
タイミングを図り争った勢いに見せかけて、線路に突き落としてしまえば。
そうして羽嶋がいなくなれば
こんなことをされなくなる。
普段ならば思い付かないような考えが、まるで準備されていたかのように、この時を待っていたかのように、少女の頭を占領した。
いなくなればいい。自分を苦しめる存在が。その存在の中心が。
「まもなく四番線に電車到着致します。電車遅れまして大変ご迷惑をおかけ致しました。」
もうじき電車が来ることを告げるアナウンスが聞こえた瞬間、少女は髪を掴んでいる羽嶋の腕を力いっぱい引っ張った。アナウンスに多少気を取られていたのか、数本の髪を犠牲にしただけで羽嶋の腕は少女から離れた。
右手に持っていた鞄とシュークリームを地面に落とすように手放し、両手で羽嶋の体を線路側に突き飛ばす。
羽嶋は突然のことによろけながらも、少女の細い手首を掴んだ。体勢を崩した羽嶋に引っ張られ、少女も線路ぎりぎりまでよろけていく。
他の二人は悲鳴を上げるだけで手は出してこない。ホームにいた疎らな人達も、興味深そうに少女達を見はしたが、止めには入らなかった。
電車が小さく視認できるところまで来ている。
少女はもう一度と、羽嶋の肩を掴み引いた。
「ふざけんな!」
怒りの限界に達したらしい声で叫び、羽嶋は少女の胸の辺りを強く押した。
後ろによろけ、羽嶋から体が離れたが、少女は諦めなかった。今度こそ突き落としてやる。そう思い踏み込もうとしたそこに、地面は無かった。