夜道
会社の帰り道、空気が肌に貼りつくみたいに蒸し暑い。夜空は白くかすんでいるし、月の輪郭は曖昧で、水の中を歩くみたいだった。そういう夏の夜は、後悔を思いださせる。
小学生のとき、十五年以上も前のことだけれど、毎日のように遊んでいた友達がいた。夏休みも例外じゃなくて、一緒に神社の夏祭りに行った。屋台で買い食いしたり遊んだりして、おこづかいがなくなると、鳥居の所で別れた。その子は帰り道で事故にあった。死んでしまった。また明日、と言ったのを覚えている。明日も昼から児童館で遊ぶのだと思って、今日みたいな夜を、家に帰ったらテレビを見ようとか考えながら、水風船のヨーヨーを突いたりした。事故はその最中のことだ。
もう会えない。話せない。もし私が家まで送っていたら、事故は避けられたかもしれない。ぐるぐると終わりのない思考の迷路に入りこみ、息をはいた。
家に帰ったら、冷蔵庫のビールを思いだして、飲んで忘れよう、と足を早くした。
LEDの街路灯で、さびれた道は昼のように明るい。
下宿のアパートは家賃で選んだ。東京の下町で、木造の空き家が目立つ区画にある。夜になれば、人とすれ違うこともない。近くの空き家の庭で、桜の木が風にゆれる。孤独な音で、眠ったように静かで、忍びよるように亡くした友達の顔が浮かぶ。
カラン、コロン、と下駄の音がした。
心臓が跳ねそうになった。思わず、音の方にふりかえる。身をひねりながら、その下駄を履いた誰かと目があっても気まずいだけなのに、と思った。体を止められない。寂しさに逆らえない。予想に反して背後には誰もいない。
ガランとした道に迫りだした庭木が濃い陰を落としていた。
下駄の音は気のせいだったのかもしれない。息をつき、前を向いた。子供がいる。十才ぐらいで、まだ顔だちがはっきりしていない。浴衣に下駄を合わせている。死んだ友達の姿に似ている、と思った、顔はもうよく覚えていないのに。浴衣姿と背格好ぐらいしか共通点はない。それでも、再会できたみたいに気持ちになった。混乱した。感情も、理屈も。私の前を誰も歩いていなかったし、下駄の音は確かに後ろから聞こえていた。
戸惑っているうちに、子供は私に手を差しだした。
「百円かして」
「え?」
「百円」
得体がしれない。余計に頭がこんがらがってしまう。頭の片隅で理性が、見ず知らずの子供にお金を渡すのはよくないと警告する。
「どうして? 急には無理だよ」
子供は首を横にふり、かして、と繰りかえした。私が百円を渡すまでは動かないと言うようだった。
風がふいた。桜の庭木がゆれる。蒸し暑い夜が束の間、やわらぐ。少し冷静になる。もう遅い時間で、子供が一人で出歩くのは不自然だ。百円の意味を少し考えて、両親とはぐれたのだ、と当たりをつけた。帰り道が分からなくて、親に電話したいのだと思う。
「お母さんはどこ?」
ご両親を探そうと思った。すぐに見つかるならいいし、そうでないなら駅前の交番に連れて行けばいい。でも、子供は何も答えない。手を差しだしたまま、沈黙をつづける。迷子なら答えようがないことに気づく。
「どこで別れちゃったの?」
そう付けくわえた。子供の様子は変わらない。私を見あげたまま、手のひらを差しだし、
「百円」
とくり返した。
風が止んだ。じわりと蒸し暑さが体にへばりつく。埒があかない。無理に子供の手を取って交番まで連れていこうか。でも、嫌がられて叫ばれたりしたら、私がこの子を誘拐しているみたいだ。
後味が悪くても百円を渡して別れたほうがいいのかもしれない。思い出していた小学生の記憶が爪のように心に食いこむ。夜の暗い道で、この子が事故に遭ったら。友達の訃報を聞いた日の感情がよみがえり、ぞっとした。
目の前の子供がふいに、こっち、と私の手を取って歩きだした。私の言いたいことが伝わったのかもしれない。お母さんか、保護者のいる方に連れて行ってくれるのかもしれない。
カラン、コロンと下駄の音を立て、子供に連れられて夜道を進んだ。木造アパートの間の人がやっと通れるぐらいの隘路をくぐり、下町の奥にある商店街に出た。車がやっと通れるぐらいの細い道で、魚屋と電器屋、それ以外は空き店舗という所だ。そのシャッター街も抜けた。町の雰囲気が変わる。家よりも緑が多くなる。静かでも、さびれてはいない。閑静だ。この奥にはお屋敷が並ぶ区画がある。土の湿った匂いがただよい、地虫の鳴き声がうるさい。
子供は迷いなく歩いていく。この辺りに住んでいるのかもしれない。良いところの子なのかもしれない。どうして百円を欲しがったのだろう、と疑問が浮かんだ。
子供が立ち止まった。右に目を向けている。視線の先には背の高い雑草に囲まれた木造アパートのような建物がある。古い映画や漫画に出てくるような下宿みたいな建物だ。荒れて、廃墟のようにも見える。窓ガラスのない所があるし、ひび割れはダンボールとガムテープで補強していた。明かりの点いた部屋は見当たらない。玄関のくもりガラス戸の向こうで、橙色の電球の明かりが見える。
子供は、こっち、と私のことを引っぱる。
「ここに住んでいるの?」
「うん」
子供は素直にうなずいた。嘘をついているようには見えない。もしかしたら家出をして、この空き家に住みついているのかもしれない。それなら、百円をせびるのも分からなくはない。理由も言えないだろう。
ぜんぶ想像だ。でも、話の裏が見えてくると胸のざわめきが落ちついた。ただ、自分の予想どおりだとしたら、自分の手には負えない。少し様子を見たら、警察に任せようと思った。
子供は建物の玄関の戸を開くと、こっち、と私をよんだ。一歩をふみだした。アスファルトから建物の庭に足を踏みいれた。飛び石をふんで進む。うるさかった地虫が嘘のように鳴いていない。
静かなタイミングなのかもしれない、と子供に続いて建物の中にはいった。少しばかりの土間があり、裸電球が吊るされていた。いまにも途切れそうな弱々しい光を玄関と上り框、ロビーに投げかけている。積もった埃の匂いと饐えた臭いがする。
子供は下駄のまま中にあがり、ロビーに置かれたソファーの隣に立った。自分の右手に下駄箱がある。何足かの靴が並んでいるけれども、どれにも埃が積もり、白っぽくなっていた。目の前の床は暗くても分かるぐらいに泥で汚れていて、靴を脱ぐ気にはなれなかった。口の中で小さく、ごめんなさい、と断ると、土足で上り框をふんだ。
ロビーに入る。左右は狭い廊下で、個室の入口が見えた。引き戸で、いくつかは開いたままになっている。ひとが住んでいるようには思えない。
心霊スポットみたいだと思いながら前をむく。ソファーの前に脚の低い机があり、その上にはガラスの灰皿が置いてある。吸い殻がつもっていた。灰も残っていて、誰かがここで煙草を吸ったばかりなのかもしれない。
こんな様子でも、住人はいるのかもしれない。目の前で私を待っている子供は家出じゃなく、ここに住んでいる。
怖くなる。この子についていって、知らない男が待ち構えていたら、と思った。悪意のある人だったら、どうしよう。抵抗しても勝ち目があるとは思えない。お金を盗られるかもしれない。無理やりに、と床に組み敷かれた自分を想像した。逃げ出したくなった。
「こっち」
子供が私のことを呼ぶ。すぐにでも警察を呼べるように鞄にしまったスマートフォンの位置を思いだし、一歩前に進んだ。床がきしむ。足が沈む感触がした。腐っている。本当はただの廃墟なんじゃ、と思った。でも、電球は? この灰皿は? と混乱した。
「こっち」
子供は私のことを強引に引っ張る。思ったよりも力が強くて、前のめりになる。爪先に力がこもると、床が豆腐みたいにくずれた。視界が下がる。踏ん張ろうと後ろ足に体重をかけると、そこに床はない。
内臓が浮かぶような感触に、ひ、と悲鳴がもれた。足元は真っ暗で何も見えない。頭が真っ白になる。手を伸ばし、何かを掴もうとする。何もない。天井から吊るされた裸電球が遠のく。
落ちる。どこまで落ちるのか分からない。底が見えない。着地できない。唐突に足首に衝撃が走った。鈍い音がする。少し遅れて痛みが頭にとどく。耐えられない。痛すぎて何も考えられない。
光が差しこむ。自分の足首が見えた。右足の足首がオモチャみたいに外側に曲がっている。白い骨が見える。血が地面にながれ、黒い水たまりを作っている。血の臭いがする。
「いたいよ」
何度も、いたいよ、とくり返した。そうしないと頭を埋め尽くす激痛で狂いそうだ。何もできない。痛い。ずっと痛い。目に映る足首の様子は、この痛みが退くことはないと言っている。
ただそうでも、少しずつと頭が痛みに慣れた。犬みたいな息を吐く。大げさにでも息をすると、痛みがましになる。
「助けて!」
大声で叫んだ。その反動でまた痛みが酷くなる。目元から涙がこぼれる。誰も返事をしない。子供の気配もない。なんで? と思うけれど、考えている余裕がない。救急車を呼ぼうとスマホをさがした。スマホの入っている鞄をさがした。近くにはない。辺りを見まわした。剥き出しの土の床に壁、その壁際に子供のミイラが並んでいる。
「は?」
理解ができなかった。自分の鞄は子供のミイラのひとつ、その膝の上に落ちていた。
「どこなんだよ!」
当たり散らすように叫んだ。足首に力が入ってしまい、激痛が頭に刺さる。鼻水が口に入る。ミイラは一体じゃない。私の目の前に五人ぐらいの子供のミイラが並んでいる。
「なんなんだよ」
訳がわからない。怖い、痛い、嫌だ。理不尽だ。ここに連れこんだ子供のことが苛立たしくなる。そんな子に同情した自分に腹が立ってくる。浴衣と下駄という格好で、感傷にひたった自分がゆるせない。
叫ぶように深呼吸をした、気持ちを切り替えるために。助けを呼べなかったら、目の前のミイラみたいにここで干からびて死んでしまう。痛くても鞄を手繰りよせ、スマホを手にしなくちゃいけない。救急車を呼ばなきゃいけない。死にたくない。
子供のミイラに向かって匍匐した。地面のでこぼこで足先がゆれ、傷口がこすれて、気を失いたくなる。その痛みに混じるように何かが足にふれた。毛皮で撫でられるような、こそばゆい感触。ぺたりと小さな、豆粒ぐらいの指のようなものが足首に押し当てられた。
考えたくない。正体を知りたくはない。見たくもない。でも、無視できない。
勇気をふりしぼって、目を足に向けた。ねじれた足首の傍にネズミがいた。鼻先を抉れた傷口に突き入れている。
反射的に、足を庇うように身に寄せた。激痛。自分の口から悲鳴がもれた。ネズミは呆気に取られたように顔を私に向ける。そのネズミの背後、暗闇の向こうからネズミが一匹、また一匹と姿をあらわす。
子供のミイラが壁際に並んでいる理由を理解した。
「もういや!」
大声で叫ぶと、ミイラの膝の上にある鞄まで、痛みも忘れて這いずった。鞄を掴み、ひっくり返した。地面に落ちたスマホを掴むと、救急車に電話した。数コールでつながった。
私は、助けて、と叫んだ。
***
命は助かった。足首は無理だった。切断して、義足をつけている。落下したときにはもう取り返しがつかなかったのか、ネズミにかじられたせいなのか分からない。原因は聞かなかった。知ってしまったら頭がおかしくなる。
事故からもう半年が過ぎた。年が明け、冬の厳しい時期さえ過ぎようとしている。病院での診察を終え、家に帰るところだ。事故の後、もうあの町には住みたくはなくて、新しい町に引っ越した。廃墟みたいな下町ではなくて普通の住宅街だ。足のこともあるからバリアフリーのマンションを選んだ。
二月の半ばの平日、時間は三時過ぎ。日が傾いたようになって、薄暗く感じる。表通りからマンションのある路地にはいる。似たようなアパートが並んでいる。喧騒が遠くなり、コツリ、と自分の杖がアスファルトを叩く音がひびいた。
私の落ちた地下室、あの建物の正体は今も分からない。子供のミイラがあったから事件になって、警察が捜査をしている。警察の事情聴取を受けたけれど、そのときに警察は何も教えてくれなかった。事件はニュースになったけれど、私の見たこと以上の情報はない。YouTubeとかで調べても、都市伝説系のチャンネルに嘘が本当か分からない動画を載せていて、信じていいのか分からない。
靄がかかったように何も分からない。事故のことも次第に頭から薄れていく。切断した足首の空虚と痛みが本当にあったことなのだと忘れさせてくれない。
地面のデコボコに義足の爪先が引っかかり、杖でバランスを取る。
ため息をつく。痛いし、不便で、この足と残りの人生を付き合わなくちゃいけないのだと思うと目の前が暗くなる。原因になった子供のことを思い出して、腹立たしくもなる。小学生のときの感傷に引きずられ、同情した自分が愚かに思える。
「なにしてんだか」
そうやって過去の自分に憤るのは何度目か分からない。飽き飽きしているのにくり返す。嫌になる。
何も考えないように義足を使った歩行に意識を集中する。
コツ、と杖の音を立てる。カラン、コロン、と背後で下駄の音がした。下駄がアスファルトに当たる音を楽しむような、無邪気な音だ。
ふりかえった。浴衣を着た子供が立っていた。
了




