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第二篇 邪教

その一


 中原を覆うばかりに広がる大陸。

 はるか大陸の奥より、南北ふたつの大河が大地をうねりながら裂いて、またさらに亀裂を入れるかのように伸びる支流の流れをあつめながら、東の海へとそそがれる。

 大河の源は、誰も行き着けないほどの、気の遠くなるほどの遠くの奥地にあり。大河のはじまりは謎とされて、そこから人は竜神が大河に姿を変えたのだとささやきあって、やがてそれが神話や創世記となって語り継がれるようになった。

 ともあれ、大河の滔滔たる流れは、肥沃な大地を原住民に与えた。

 大河は文明の母となり、大陸の南北それぞれの大河や支流のほとりほとり、大河をなぞるようにしていくつかの古代王朝が興った。

 さらにまた古代王朝は戦乱を経て、いくつもの国へと分かれ。

 いつしか大陸にはくつもの国が興り、滅びて、また興っては、滅びてが繰り返えされるようになっていた。戦国の世というものであった。


 肥沃な大地は人々に、農耕の隆盛とそれにともなう食を与えた。が、それとともに、より多くの農耕と食を所有したいという内在的な欲望まで顕在化させてしまった。農耕と食をより多く所有することは、己の「生」を確保することになるからだ。

 命は儚く、病気や災害など、人は何かの拍子であっけなく死んでゆく。人に恵みをもたらせた大河でさえ、時として暴れ竜となって多くの命を飲み込んでゆく。一緒に農耕も食も奪い去り、また一からのやり直し。それが何度繰り返されてきたか。

 人は自然の前では無力であった。しかし、その自然と共生せねばならぬという矛盾と被支配感と、生まれながらに持つ本能的な死への恐怖と生への渇望が、様々な呪術や宗教の生まれる背景になった。

 また己の「生」を確固たるものにするため、他から奪うという、すぐ思いつきそうで、なかなか思いつかなかった、当時としては斬新な考え方をひらめいたものたちも出て。猫の鼠を食い殺すがごとく、そうした「生」を賭けた争いが繰り返された。

 その争いから、勝つための工夫が編み出されて、道具をつくり使いこなすことで「勝ち組」となり、「生」を確固たるものにしたものが、王朝を興した。

 「生」を確保した王朝は食以外のものにも興味をしめす余裕が生まれ、その余裕が文明や文化と呼ばれるものとなった。

 そこから、人の歴史は歩みを始めた。


 興亡の繰り返されてきた戦国の世は、虎碧と龍玉が生を受ける百数十年前に終わりを告げた。

 大陸の西方、北の大河の中流のところに、

 しん

 という国があり。七代目の成王せいおうは戦を好むことさかんで、次々と周辺諸国を滅ぼし、ついには中原に覇を唱え、大陸を支配する巨大帝国を築くにいたった。

 それまで数カ国にわかれていた大陸が、一つの国にまとめられたのである。

 成王は統一王朝の初代皇帝となり、宗帝しゅうていと名乗った。

 それから、今は五代目、烈帝れっていが辰帝国を治めるにいたる。

 辰の都は蒼州、北の大河が中原を臨む飯山はんざんという大きな山を回り込むように大きくうねるそのそばに置かれた蒼竜府にあり。人口や軍事力の面で、その巨大にして広大な城塞都市ひとつで、距離的な理由でかろうじて辰に滅ぼされずに済んだ西方の辺境の小国と、同等かそれ以上の規模があった。

 その帝都周辺は中原と呼ばれる開かれた広大な地で、特に農耕に適した平地に土地の肥沃さに恵まれた、いわば大陸の食料庫のようなところであった。

 大陸の中ほどに位置し、立地条件もよく。それだけに周辺諸国からの侵略もひどく、成王の先代まで、いつ滅んでもおかしくないほどにまで追いつめられていた。

 しかし成王はそれゆえに鍛えられ、戦術・戦略に長けた王となり、また度重なる周辺諸国による侵略への復讐心とあいまって、次々と各国と戦火を交えるたびに大勝し、ついには大陸を支配してしまったのだった。

 帝都周辺には、国家事業のひとつである大建設による荘厳な巨大建築物がところ狭しと軒を連ね、天人が常に充ち満ちる天上界の都の趣を呈し。大陸の覇者の威厳をたたえていた。

 そこで様々な文化が生まれ、大陸に広がってゆく。

 すべてのものは蒼竜府より来たる。と、人々は口にし、大陸は辰国の文化に染まっていった。

 生活習慣は無論のこと、着る服も国によって、つくりや模様も違っていた。また国によって様々な言葉があり、文字があり、うたがあった。それが、辰が大陸を統一してより、何もかもが辰によって、辰のものと統一されてゆくようになっていった。

 文化は軍事力と比例して、辰が大陸の覇権を確たるものとするとともに、宗帝の意志を継いで大陸を統一していったようだった。

 亡国の恨みもあった。しかしそれも、時が経つにつれて、春の雪のように解けてゆき。いまや辰に取って代わるものはなさそうであった。

 辰は三代皇帝の代帝よていの御世にあって、もっとも平和で安定し、なおかつその栄えがもっとも伸びた時期を過ごした。代帝は初代、二代が武によって大陸を治めていたのに代わり、古今の聖賢の言を学び、文をもって大陸を治め。これにより民心は安定し、数十年前まで続いていた戦国の世が嘘のように鳴りを潜め、変わって文化面における大発展を遂げた。

 大陸、すくなくとも辰帝国内においては、過去に興亡した旧い(ふるい)国の文化は少しばかりの名残を残して、亡国の遺恨同様に、春の雪が大地に溶け込むようにして辰の文化に溶け込んでいった。

 文をもって国を治めた代帝は、いにしえより語り伝えられる古代の善政の帝王と並び賞賛せられ、人々に惜しまれながら九十七歳の長寿を全うした。

 代帝は二十五歳で即位しその長寿を全うするまで帝位にあり、四代皇帝はひ孫となる檀帝だんていが即位した。が、即位してわずが三年で急病に斃れ、先代皇帝のつめの垢程度の業績も残せなかった。三年という在位期間は、巨大な帝国に何かを残すにはあまりにも年数が短すぎた。

 そして現在、先に述べたように烈帝が辰帝国を治めている。

 

 そんな歴史の動きなど知らず、大河は流れてゆく。

 いま、南の大河のほとりで、一人の少女が河岸の草むらに腰を下ろしその流れをじっとみつめていた。

 虎碧であった。

 碧い目をしばし流れにそそいだあと、西の方、上流に目をやった。はるか西方の彼方より大河は流れてくるが、彼女の父親はその源よりもはるかな西方の彼方よりやってきたと、いまは亡き母は言った。

 大河の源も及ばぬほどの、西の彼方。

(想像も出来ない……)

 人はそんなにも広い、長い旅が出来るものなのだろうか。その遠さを思うにも、あまりの遠さに思いも及ばず、大河の流れを静かに見守るほかにすることはなかった。

 と、すると。

 ぐぅ、とお腹が鳴って。ぽっと頬を紅くする。

虎妹フーメイ、虎妹やーい」

 お腹の鳴ったのに答えるように、龍玉が袋を掴んで高々とかかげてやってくる。中には饅頭が入っている。

 声の方を振り向いた虎碧の碧い目は、大河の流れから饅頭の入った袋へとそそがれる。龍玉は街へ饅頭を求めに行っていた。

 求めるものを得た、そのほくほくの笑顔。その笑顔につられて、虎碧の顔にも、思わず笑みがこぼれる。

「待たせたねー。さあ、食べよう食べよう」

 そばにどっかと座って、がさごそと袋から饅頭を取り出し虎碧に手渡して、もうひとつを取り出すや。龍玉は大口開けて、ぱくっと饅頭にぱくついた。


その二


 その横顔を見、虎碧はぷっと噴き出しそうだ。

(あらら、ちょっと、はしたないかな。せっかくきれいな顔をしてるのに)

 その容姿に合わぬ食べっぷり。あっという間に饅頭をひとつたいらげると、また袋の中からひとつ取り出し、さっきと同じように大きく口を開けてぱくついた。

 これではせっかくのきれいな顔がだいなしだ。でも、そのほくほくの笑顔、ほんとうに美味しそうに食べている。

 その爛漫な性格をうらやみながら、まずふたつに分けて、行儀正しくまた一切れ一切れちぎりながら饅頭を食す虎碧。食べながら、目はいつしか大河の流れに戻って、そそがれていた。

 もくもくと饅頭を味わいながら咀嚼し、また大河の源やそれよりもはるかに遠い西の彼方に思いを馳せる。

 西の彼方には、自分と同じように碧い目を持つ人たちがいるのだろうか。

 大河には川魚を求める漁師の小舟が、波に揺られながら数艘浮かんで、網を川面に投げかけていたのが、途端に網を引っ込めるや岸の方まで寄ってゆく。

「ああ、商船だね」

 大河の上流より一隻の大きな船が流れに乗って下ってくる。上流にある街との交易を終えて、下流にある街まで、流れに乗ってゆらるゆらりと大きな船体を浮かばせている。

 ここよりすこし下流沿いに、太蘇たいそという港町がある。商あるところ、人もある。いや人あるところに商もあり、というか。ともあれ、商船の到来により、今夜は太蘇の街はとてもにぎわうことだろう。

 商船の流れゆくを見送ると、龍玉は虎碧の横顔を覗いた。残り一切れを指でつかみ、なにかぼおっとしている。川の漁師は商船がゆきすぎると、また網を川もに投げかけている。

「おい」

 ふと後ろからふたりを呼ぶ声がした。

 なんだ? と龍玉は後ろを振り返れば、武装した役人ふたりが仁王立ちしてふたりをねめつけている。虎碧も龍玉にすこし遅れて、声の方に振り向き。武装している役人がこちらを怖い顔して見ていることに、すこしぎょっとして驚き、口をつぐんで押し黙る。

 龍玉は役人の怖い顔など意に介さず、

「はい、なんでしょうか?」

 と、さっと立ち上がって、虎碧をかばうように仁王立ちし、役人に向かい合う。

 役人はふたりの華の様な容姿にいささか面食らいつつも、ごほん、と咳払いをし、

「こんなところで何をしているのかな?」

 と問いかけてきた。

「いえ別に。わたしらは旅のもので、すこし休んでいただけです」

「旅? 女ふたりでか」

「そうですが、それがなにか」

 役人ふたりは、目を合わせて、何か腹にいちもつ含んだような目を二人に見せた。龍玉は苦い顔をし、

(どうせ、男相手の商売をしてると思ってるんだろうな)

 と思っていると、案の定。

「いましがた商船が太蘇の街に向かったな。今夜は稼げるのではないかな?」

 と、役人は言った。無論そういう商売はしてないし、稼ぐも何もふたりは江湖を旅する剣客であって、あきないの類はしていない。しかしここで短気を起こせばやっかいなことになるので、ぐっとこらえて、

「さて、何の話でしょうか?」

 ととぼける。

「ふむ、わしらの言っていることが、わからんというのか」

「はい、今夜は稼げるとか、何のことでしょう」

「いや、わしらも勘ぐりすぎた、気にするな。それより……」

 と、じっと、役人はふたりが腰に帯びる剣に目をやった。

(ふん、女の身で)

 なるほど江湖の女剣客か、とまあどうにかふたりをそう理解した。が、江湖、いつのころに出来たか知らぬが、一般社会とかけ離れた裏社会というか、どこかはみ出した者たちの世界ををあらわす意味で使われだしていた。

 女の身で剣を腰に帯びて旅をするなど、尋常なことではない。

 ことに、今のご時勢で。

 となればまず江湖の住人なのは間違いなく、ということは、どっちにしてもまともな身の上ではない。ということで、役人はますますふたりを見下げるような態度を取った。

「まあ、最近なにかと物騒でな。お前たちもよくわかっているだろう。こうして旅のものを問いただすのは、まあ仕事上やむを得ぬことなのなのでな」

 というと、こんなやつら相手にしていられるか、とさっさと行ってしまった。ひとつには、龍玉の仁王立ちする姿に、えもいわれぬ迫力を感じたこともあった。

「け、よっく言うよ」

 役人の人を見下すような言動に腹を立てながら、ちぇっと舌打ちする。

 いつしか影が東に向かって長く伸びている。空で夕陽が鮮やかに紅く染まっていた。

 もうこんな時間か、と龍玉は夕陽を手をかざして見やった。

 天は人間たちのことなどにお構いなく、動いている。

 天は何を言ったというのだろう。昔そんなことを言った賢人がいたという。

 その天の動きを見ていると、龍玉は人間のちっぽけさ(無論自分を含めた)を思わずにはいられなかった。明日にはこの命がないかもしれない。そんな生き方ばかり、もうどのくらい続けたことか。しかし天から見ればそれはお構いないことだ。

 もしここで龍玉が死んだところで、天は何を思う。いつも通りの動きを毎日日にちこなすだけだ。

 虎碧は役人がゆくのを見送ると立ち上がって、

「もう暗くなるね。とりあえず太蘇の街へ行って、宿を探しましょう」

 龍玉はその言葉にうなずき、夕陽を背に、二人並んで太蘇の街へ向かった。


 事件は、翌日太蘇の街から出立した日に起こった。というか、遭遇してしまった。

 裏路地の宿で一晩を過ごし、朝方出立して、いつもながらのあてどのない江湖行。いま自分がどの方角に向かって歩いているのかなんて、野暮なことは考えない。

 今日何があろうとも、明日には明日の風が吹く。

 江湖を渡り歩くものの、常識的な考え方だ。

 だが、一生こうして旅で終わるのも、それはそれで虚しいもので。心の中では、いつも、己の道を捜し求めていた。

 後で思い返せば、そういったことが理由で、わざわざ遭遇したのかもしれない。と碧い目の少女剣客は思ったものだった。

 大河沿いの道をとことこ歩き、やがて小さな支流沿いの道へと移り。またとことこと歩いてゆく。道中、さまざまな人たちとすれ違った。自分と同じ剣客や旅芸人に、行商、軍隊、その他諸々。

 やがて支流沿いの道からもはずれ、山道に入り、嶺を越える険路に差し掛かろうかというときだった。さすがにここでは、人とすれ違うこともなくなってきた。と思ったら、嶺の道を猛烈な勢いで駆け下ってゆく一人の少女があった、と思ったら、それを追う謎の男たち。

 少女は黄色い衣をまとい、背中には細長い剣を斜めに差していたようだった。すれ違う虎碧と龍玉をみかけ、何か口を開きかけたが、やめたと閉じて、そのまま駆け下ってゆこうとする。

(追われているのか)

 咄嗟に龍玉と虎碧は目を合わせ、剣を抜き、男たちの前に立ちふさがった。無論男たちは、邪魔立ては許さんと、男たちの一部はそれぞれ得物を構えてふたりを取り囲み。あとは少女を追った。

 少女は「ちぇっ」と舌打ちし、今来た道を振り返りながら背中の剣を抜く。

「馬鹿め、余計なことを」

 きれいな声だが、なんだか高飛車な言葉遣いで。どうも、ただの江湖もののようではない。ふと見れば、全身からただよう気位の高さと気品。身分卑しからぬことは、すぐに見て取れた。

「まあまあお嬢さん、水臭いことは言いっこなしで、五月蠅い蝿は一緒に片付けましょうよ」

 屈託のない笑みで龍玉が言えば、虎碧も同じく、

「そうですよ、困ったときはお互い様ですよ」

 とつとめて明るく笑った。


その三


 少女は龍玉の容姿にやや驚いたようだが、虎碧の碧い目には、もっと驚いたようだ。それは男たちも同じだった。

 見たことのない瞳の色、一瞬たじろき、「この娘、何者だ」と思わず口走るものも。

 やはりその碧い目は、黒い瞳が多数を占める種族のものにとっては奇異に移るらしい。たとえ、それが仙女のような可憐な少女であろうとも。いや、むしろ可憐だからかえって奇異さが増すのかもしれない。

 それを敏感に感じとってしまって、虎碧は心の傷がうずく。どうも、こればっかりは慣れないものだった。だからといって、

「もう、いや」

 とは言わない。

 これも何かの宿業と、受け入れざるを得なかった。受け入れて、碧い目の女として生きてゆくしかなかった。潰すにしても、龍玉が許さないからなおさらだ。

 それはともかくとして、少女は「ふん」と息巻きながら、

「我が名は慕蓉麗。蜘蛛巣教の教主候補としての武者修行中なのだぞ。と言っても、遅いか」

 それを聞いたふたりの驚きと言ったらなかった。慕蓉麗ぼようれいの慕蓉姓。そして、蜘蛛巣教くものすきょうといえば、江湖で知らぬものなしの邪教ではないか。

 百年ほど前に出来た宗派で。教主は代々教主一族である慕蓉一族から輩出されているが、その教主選びも過酷極まりないもので、教主候補は一年間の武者修行の旅に出て、道中一年間隙あらば襲い掛かってくる信者たちから生きながえなければならない。無論それゆえに、非業の死を遂げた候補も多い。

 この慕蓉麗も、その武者修行の最中だという。

 だがそれだけに胆も据わったもので、虎碧の碧い目をながめ、

「お前、面白い目の色をしているな」

 とつぶやく。

 面白い。そんなことを言われたのは初めてなので、虎碧もややたまげてしまい、返す言葉もなく、戸惑いの目を慕蓉麗に向けたままだ。

 とはいえ、さすが邪教の教主候補だけあって。威厳たっぷりに、信者たちを睨み返している。が、やはり信者たちも候補を襲うだけあって、これもまた肝の据わったものたちだった。

「慕蓉麗さま、たわ言はおやめになってお覚悟をお決めくださいまし」

 などと言う。笑いのツボでも突かれたか、慕蓉麗は、

「あっはははははは!」

 と大笑いだ。

「ほざけ、下衆どもがっ!」 

 叫びとともに、剣一閃。そののちに、断末魔の叫びと、血煙。

 あっという間だった。ひらりと風に乗ったかと思うと、またたく間に男たちはなす術もなく、皆斬り倒されてしまったのだから。

 血に濡れた剣をぶら下げ、鋭い眼光

 これには龍玉、虎碧も息を呑み、助太刀など必要なかったかと身を硬くする。それを察し、慕蓉麗は血塗れた剣をかかげて、うふふ、とあやしく微笑む。

 その微笑に、返り血が飛び散っている。

「そもそも、わたしがこいつらごときに殺られると思ったのか。いちいち相手にするのが面倒くさいだけだ」

 返り血の散った顔を、龍玉と虎碧にむける。きらりと光る瞳のなかに、敵意の炎が見えた。

「助太刀など、わたしへの侮辱である。よって、お前たちを始末してやる」

 言うや、さっとひと飛び剣を閃かせ、ふたりに襲い掛かる。信者たちはというと、慕蓉麗の強さと威厳に怖じて、さっさと逃げ出す始末。

「しくじったか」

 龍玉は舌打ちしながら、虎碧をかばうように立ちはだかれば、耳をつんざく剣と剣の響き。

「龍お姉さん!」

 虎碧も我知らず叫んで、ふたりがかりで慕蓉麗を攻め立てる。しかし慕蓉麗、意にも介さずさらりさらりとふたりの攻めをかわしては、剣をかえし。ひとりの身ながら、まるで相手を子ども扱いにもてあそぶ。

 ふたりは息継ぎする間も惜しむかのように、矢継ぎ早に剣を繰り出しているというのに。

 まさか、助けてやろうと思った者から、このようにして敵意むき出しに襲われようとは、夢にも思わなかった。といえば、お人好しすぎたか。

 前後を挟み、あるいは左右を挟み、龍玉と虎碧はひたすら攻め続けた。ここで一気にカタをつけなければ、さっきの信者たちのように一刀両断だ。

「ふん」

 返り血をのつめたさにでもひたるかのような、冷たい微笑みと、瞳。剣の閃きは、龍玉の胸元を襲った。

 あっとかわすも、服の胸元のところが一筋に裂け、白い肌が見えたかと思うと、続いてたらりと赤い血がしたたってくる。

 幸い傷は浅かったが、かわすのがもう少しでも遅れればそれこそ、一刀両断であったろう。と思うと、我知らず背筋に冷たいものが走り、冷や汗が吹き出る。

(こいつ、強い)

 江湖行の長い龍玉であはあったが、この慕蓉麗、今まで会った様々な人間の中で一番強いのではなかろうか。もし虎碧とふたりがかりでなければ、どうなっていたことか。

「よくも!」

 龍玉を傷つけられ、虎碧怒りの叫びと唸りを上げる剣。

 だが慕蓉麗は冷笑をうかべながら、虎碧をもてあそぶように攻めをかわすばかりで、剣をかえしてこない。

「調子に乗るんじゃないよ!」

 胸元を赤くして、背後からも龍玉が激しく攻め立てる。だがそれでも慕蓉麗は顔色ひとつ変えない。むしろ、ふたりをこうしてなぶることに楽しさを感じているようだ。

「ふん、キズモノ女が気張りおるわ」

 冷笑にまじり、龍玉を侮辱する慕蓉麗。そうすれば、案の定、龍玉は顔を真っ赤にしてますます力んで攻めてくる。しかし、かすりもしない。

「その怒りよう。お前、生娘ではあるまい、図星だろう」

「関係ないね」

「ふん、操と命を引き換えにもしたろう。そういう女は、そういう影が見えるものだ」

「身体は汚しても、心までは汚れちゃいないさ」

「言い訳だな。私なら潔い死を選ぶ。この、汚らわしい女狐め」

「だ、黙れ!」

 怒れる龍玉のその様を見、慕蓉麗はますます馬鹿にするように龍玉に冷笑をあびせては、悪口雑言を繰り返して挑発することまさにしつこい。

「剣は、男ほど知らぬと見える」

「ええい、その減らず口きけない様にしてやる!」

「聞き飽きたな、それも」

「じゃ黙ってやられな!」

 怒り心頭の龍玉だが、怒れば怒るほど剣は乱れ、ぶんぶん振り回すだけになってしまう。

「龍お姉さん、真に受けちゃだめ。相手の思うツボよ」

 虎碧は咄嗟に叫んで、龍玉に冷静さをうながすが、それももはや耳に入らぬ呈で。はじめこそ合っていたふたりの息は、もはやちぐはぐなものになってしまった。そのため、隙も出来るのだが、ふたりをなぶることを楽しんでいる慕蓉麗はわざととどめをさそうとしなかった。

 もし彼女がその気になれば、ふたりは何度死んでいたことか。虎碧はそれを思うと、ぞっとして剣を持つ手が凍りつきそうでもあった。


その四


 今まで強敵に出会っても、ふたりで力を合わせてなんとか生き延びてきた。が、それもここで年貢の納め時なのだろうか。そう思うと、なかなか止まらないもので、心の中で恐怖が知らず知らず増幅し虎碧を縛り付ける。

 よけるばかりの慕蓉麗だったが、剣をかわしながらあくびをしたかと思うと、

「もうお前たちの相手も、飽きた。死ね」 

 と言いながら、さっとふところに手を入れる。

(暗器!)

「あっはははは! うそだ」

 暗器(飛び道具)の襲来に備えたふたりだったが、慕蓉麗のかましたうそに思わず力が抜けそうになる。その刹那。

(そのうそがうそよ!)

 虎碧ははっとして目を凝らし、剣を構えなおして暗器にそなえれば。慕蓉麗は大きく手を振り、その手からきらりと光るものが飛んでくる。やっぱり! と虎碧は素早く剣で暗器の針を弾き飛ばす。しかし、龍玉はというと……。

「あっ」

 と叫んだかと思うと、どしりと尻餅をつく。見れば肩にはきらりと光る針がささっている。うそに引っ掛かってしまったようで。

 針を慌てて引き抜き、ぽいっと地に投げ捨てる。

「やることがきたないね。さすが邪教の慕蓉家」

「ふん、褒め言葉ととっておいてやろうか。もっと言え、もっと言え。あはははは!」

 みるみるうちに、龍玉の白面が青くなったかと思うと紫色に染まってゆく。針には毒が仕込んであるようで。歯を食いしばりながらも、ぶるぶる震えがとまらない。呼吸も乱れてきている。

「龍お姉さん!」

 叫びながら、慕蓉麗を睨みつける虎碧。こちらは怒りでぶるぶると震えている。

「すぐに毒消しを出して!」

「いやだね。わたしはお前たちが嫌いだが、その女は特に嫌いだ」

「そもそも、わたしたちはあなたに敵意があったわけじゃないのよ」

「それがどうした。さわらぬ神にたたりなし。余計なおせっかいを焼いたのが運の尽きだ」

「そんなことを言うの」

「ああ、言うね」

「……」

 あまりの非情さに言葉もない虎碧。この冷酷さ、たしかに邪教の教主候補にふさわしい。そのかたわらで、うっといううめき声がし、龍玉は身体を強張らせてもだえ苦しんでいる。

「どうしても毒消しは出してくれないの」

「くどい!」

 その言葉が終わらぬうちに、きらりと虎碧の碧い目が光り。全身からぱっと炎が浮かび上がったような、気迫を感じた。

 虎碧はさっと駆け出し、剣を突き出す。

「そうか、先に逝くか!」

 嘲笑しながら慕蓉麗は剣を繰り出し、虎碧を一刀両断にしてくれんとするときであった。

「虎爪式!」(フーツァオシー!)

 という叫びとともに、虎碧の剣が揺らいで見えたかと思うと、突然三本に増え、うち一本が慕蓉麗の剣を叩き折り。残りの二本が彼女自身に襲い掛かる。

「な、なんだと!」

 突然のことに驚き咄嗟の対応が間に合わず、慕蓉麗の両肩で剣閃がひらめくとともに、鮮血がほとばしり。あっと思わず折れた剣を放り捨て、胸を抱くようにして両手で両肩を押さえ、急ぎその場から飛びさがる。

 その衝撃、まさに虎の爪に引き裂かれるようだった。

(虎爪式? なんだそれは)

 聞いたこともない技だ。我流なのだろうか。それはともかくとして、慕蓉麗はこのときはじめて虎碧に恐れを抱き。そして屈辱も感じた。

(私は蜘蛛巣教の教主となるのだぞ。それが、こんな碧い目の奇妙な小娘になど) 

 自分も虎碧と同じぐらいなのも忘れ、生まれて初めて受けた屈辱に、慕蓉麗は身震いし。その端正な顔が、悪鬼のようにどす黒くなってゆく。 

 しかし、虎碧はいつの間にか目の前にいて、剣を喉元に突き出していた。

「毒消しを出して!」

 碧い目はいまにも破裂せんがばかりにきらめき、赤い口をひろげてひたすら毒消し毒消しと叫ぶ。

 慕蓉麗の黒光りする瞳が、虎碧の碧い目を見据える。

 黒い瞳の中、どす黒い憎悪の炎が激しく燃え上がっていた。屈辱のあまり自害しかねないとも限らない。と虎碧はあやうんだが、意外にも、

「毒消しだ。これを飲めば、毒は消える」

 とふところから小瓶を取り出し虎碧に差し出す。

「うそじゃないでしょうね」

「うそじゃない。神蜘蛛に誓ってもいい」

 虎碧は右手で剣を突き出したまま、左手で小瓶を受け取ろうとする。すると、慕蓉麗は小瓶を引っ込め、

「ただし、条件がある。一ヵ月後に私は武者修行を終えて、教主になっている。その一ヵ月後に、必ず我が教、慕蓉家に来い。場所は知っているだろう、悪名高いからな。そこでまたやり直しだ」

「……。いいわ」

 またなんという条件だろう。と思いつつも、龍玉の命には代えられない。小瓶を受け取り、慕蓉麗に剣を突き出したまま、龍玉のもとまで後ずさりすると。

「龍お姉さん、毒消しよ」

 と剣を突き出したまましゃがみ。龍玉は必死の思いで小瓶を受け取り、栓を抜き、中の毒消しをごくごくと飲み干す。

 その様を忌々しそうに見ると、慕蓉麗は駆け出し。

 姿を消した。


その五


 あとには、慕蓉麗に殺された信者たちの屍と、龍玉と虎碧が残された。

 毒にやられた龍玉だったが、毒気しが効いたか少しずつ気分もよくなって。虎碧は屍を眉をひそめてみると、いつまでもこんなところいられない、と龍玉に肩を貸してその場から離れた。

「すまないねえ。無様な義姉で……」

「龍お姉さん。それは、いいっこなしよ」

 面目なさそうな龍玉に、虎碧は微笑む。が、何も言わず黙々と歩く。龍玉はかなり傷ついているようだ。散々好き放題言われた挙句、つまらないことにひっかかって、まんまと敵の暗器を食らってしまったのだ。

 長いまつげが下がり、ほくろの居座る口元が引き締められている。

 しばらくすると、龍玉は虎碧のささえを振り切り、ひとりで歩こうとするが。顔は青く精気はとぼしく、ふらふらして。結局脚から力が抜けて転ぶ。

 毒消しを飲んだとはいえ、すぐに効くというわけではなく。しばらくは悪い気分とつきあわなければならない。が、これを乗り越えれば元の元気さが戻るのだから、文句は言えない。

 もう、と虎碧はまた肩を貸してあるき。今度は龍玉も無理はせず、ささえられながらもくもくと歩き、減らず口もきかない。しかし、

(この借りは、たっぷり利子をつけて返してやる)

 と考えているあたり、やはり龍玉であった。

 日が暮れるころに、小さな町にたどりつき。そこでもぼろの安宿の部屋をとって、龍玉は寝床にどっと倒れこむやすぐさま寝息を立てていた。

 宿屋のおやじは、傷つきいわくありげな龍玉と、虎碧の碧い目を見て少なからず驚いた顔をしたが、つべこべ言わさぬ龍玉の鋭いガンつけに怖じておとなしくなった。

 とはいえ厄介な客と思われているのは変わらないので、明日早朝にも出て行かないといけないだろう。

 虎碧はふところの銭をさぐり。部屋を出て何か食べ物でもと、買い物に出た。

 日は沈み、町は夜の帳におおわれて。見上げる三日月を碧い瞳に映し出して、ため息をつく。

(報われないものね)

 せっかく人助けをしようとしても、どうも、うまくいかない。まさか邪教の教主候補とは知らなかった、とはいえ、善意が仇となって殺されそうになって。

 で、また、その教主の慕蓉麗のもとを訪れて、闘わねばならない。そんなこと、望んではいないのに。

(これも、さだめなのだろうか)

 そう思うと、やるせない思いに駆られるけれど。けれど、腰に佩く剣の重みを感じたとき、沈みそうな心が踏みとどまれる。ふんばって、前へ前へと歩いていける。

 父を知らず、母も亡く。身に着けた武芸と腰の剣が、母の形見だった。厳しい母ではあったが、この身に降りかかる試練を思うとき、その母の厳しさの中に、尽きぬ愛情があったのだということを、今はしみじみ感じていた。

 いやいや、今は龍玉だ。精がつけばと、肉を買い求め宿に戻った。やはりというか、肉屋の主は虎碧の碧い目に驚いた表情を見せたが、腰の剣を見て口をつぐんで言われるままに求める肉を出し、銭を受け取った。

 なんだか、この世に自分の居場所はあるのだろうかと、ふと思ってしまう。周りを見れば、道ゆく人々も多く、町は人々の生活の営みに溢れていることを感じさせた。その中で、自分ひとりが、ぽつんと取り残されているようだった。

 それでも気丈に、一歩一歩を踏みしめるようにして歩いた。

 宿に帰り、

「龍お姉さん、お肉買ってきたわ」

 と部屋に入れば、そこには裸の龍玉。

 虎碧は驚き慌てて、

「ご、ごめんなさい!」

 と部屋を飛び出した。

 まさか起きていているとは思わなかった。ほんとうに、しんどそうにしてたから、そのまま朝まで寝ると思っていたのに。龍玉は胸をはだけて、膏薬を塗っていた。ふくよかな胸の上に、傷が赤く一筋の線を描いていた。

 真珠のように白い肌に、赤く斬り傷が走っているのを見るのは、やはり同じ女の身としても辛く。それを思うと、恩を仇で返そうとした慕蓉麗に対し怒りが込み上げてくる。

「あっはははは」

 あっけらかんとした笑い声がして、部屋の戸が開けられて、龍玉が顔を出した。服は着ていた。

「初心なぼうやみたいに顔真っ赤にして、面白いねえ。さあ入った入った」

 と言いながら虎碧を部屋に導き、買ってきた肉を受け取りがつがつと食う。せっかくきれいなのに、お行儀の悪いのが玉に瑕ね、と虎碧は卓の椅子に腰掛け、宅に置かれていた急須から碗に湯をそそいで飲んだ。

 湯は龍玉が主に頼んで持ってきてもらったものだ。茶がいいのだろうが、茶はとても高く富裕層の飲み物で、ふたりのような江湖の流れ者にはとても手の届く代物ではない。

「あーこりゃ傷痕に残るね。もう、自慢のカラダなのに」

 肉を口に入れて、もぐもぐ言いながら、胸の傷を服の上からさする龍玉。けっこう恨めしげにしている。

「あの、くそ生意気な慕蓉麗にも、同じ思いをしてもらわないとね」

「かなりやる気ね」

「あったりまえじゃない。人の善意を何だと思ってるんだか」

「慕蓉麗は、あの、蜘蛛巣教の教主になる人よ。勝てる?」

「……」

 さすがに、龍玉も蜘蛛巣教と聞いて忌々しそうに口をつぐんだ。蜘蛛教は巣様々な蜘蛛を駆使し、特に毒蜘蛛の扱いに長けて、その中でも一番強い毒をもった「神蜘蛛」を生きた本尊として崇めている邪教だ。その神蜘蛛は、神の意を受けて天より地上に降りた蜘蛛であるというが。さてほんとうだろうか、ふたりには眉唾ものだった。

 蜘蛛を神に見立て崇めているのは、神蜘蛛をほんとうに神と思っているというよりも、その強い毒性を誇示するためなのかもしれない。

 しかし、毒が強いのは確かで。特にえげつないのは、毒を受けてもすぐには死なず、まず短くても一日は毒に苦しんでじわじわと死ぬ。

 楽に死なせては、その毒性の恐怖が薄れて誇示が難しくなるからだ。

 そんなえげつない毒性をもった蜘蛛を扱うのだから、教主一族の慕蓉家の武道家としての腕前もさることながら、それらを存分に生かすだけの冷酷さは、言うまでもない。

「でも、やるしかないだろうね。なうての邪教。逃げたって逃げ切れないさ。いっそのこと」

「死中に活あり、ね」

「そうだよ。あたしを汚い女狐と言ったことは、死んでも忘れないよ」

「そうね。でも……」

 虎碧は、意気盛んな龍玉をひと目見て、うつむいてぽそりと言った。

「どうしてこんなことに、なるのかしら」

 善意でしたことなのに……。

 龍玉も、その言葉にこたえるすべも見つからず。寝床にどっかと体を横たえると、そのまま寝息を立てた。

 虎碧ももうひとつの寝床に体を横たえ、眠りについた。

 これからどうなるか、わからない。

 だけど、これだけは言える。

 明日には明日の風が吹く。


その六


 翌朝早く、ふたりは町を出て、歩きながら。さあこれからどうするかと考えていた。

 邪教を相手にどう闘えばいいのか。勝つためには手段を選ばない、卑劣なこともしてくるだろう。うさんくさい毒蜘蛛を神に見立て、よこしまな教えを広める連中だ。

 それだけならともかく、その強さも半端ではない。

 さまようように歩くうち、小川のほとりにやって来て。小川を添って上流に向かい歩けば、断崖絶壁があって、絶壁から轟き落ちる滝。

 滝つぼでは時折り虹を映し出され、風に運ばれる飛沫しぶきが水の冷たさとともに、ふたりの頬を撫でる。

 知らないうちに悩んで、悩むあまり身体が熱を帯びて火照ったようになっていて。それを冷ますために、知らず知らずその涼やかさを求めていたようだ。

 涼やかな飛沫に触れ、ここではっと我に返ったようにふたりは顔を見合わせ。

「考える暇で、修練あるのみ!」

 と意見を一致させ。

 来たる慕蓉麗との闘いにそなえ、剣技や拳法の修練に専念した。

 時折よぎる、己のさだめ。剣を振るう腕を鈍らせたりするが、滝の轟きがふたりに喝を入れるように打ちつけられて。雑念を追い払ってくれる。

 不思議なもので、修練は四方八方を囲まれた道場でするより、開け放たれた自然の中でする方がはかどることもあった。

 お天道様は陽光を燦々とふりそそぎ、下界を見下ろし。ふたりの振るう剣が、幾度となくきらりきらりと、陽の光を受けて光り輝いていた。

 さてふたりが必死の修練を積んでいるころ。慕蓉麗はというと、あれから自分に立ち向かう信者たちを容赦なく始末していった。

 それまで面倒で相手にしなかったのだが、もうすぐ武者修行も終わることもあり、逃げるのをやめ己の強さを存分に見せ付けていた。

 今も、信者を餌食にしている最中だった。

 あかね色に染まる夕空のもと、慕蓉麗の振るう剣が夕陽に照らされて輝き。きらりと光るたびに、血煙が上がった。

 場所は湖のほとり。

 湖に映える陽光が、波にゆれ。

 屍までもが、波間に遊び、どこぞへと流されてゆく。

 慕蓉麗は最後の一人を前に、楽しげに笑みを浮かべる。右手の剣はたれ下げて、左手にはかの毒針をつまむ。

 ちなみに剣は虎碧に叩き折られてしまっているので、あとで信者から奪い取ったものだ。

「剣で死ぬか、針で死ぬか。選べ」

 氷のように冷たい微笑に、信者は心臓を刺されたかのような苦悶を浮かべ。

「剣で、お願いします」

 と言った。すると、しゅっと何か光って飛んだかと思うと、信者の右目にぷすりと刺さった。

 思わず耳を覆いたくなるような悲鳴があたりに響き。驚きと絶望と痛みに苦しみ悶える信者を眺め、慕蓉麗は高らかに笑う。

「たわけが。信者の分際でわたしに命令をするなど、身の程知らずめ。苦しんで死ね」

 天にも届けと高らかに笑いながら、彼女は信者を捨て置きどこかへと立ち去ってゆく。

 信者は半面を血に染めながらあえいで。あえぎながら、己の得物を喉に突き刺し、自害して果てた。

 慕蓉麗にとって、いや蜘蛛巣教を統べる慕蓉一族にとって信者など使い捨ての消耗品でしかなく。かわりはいくらでもあった。だから、この武者修行で信者を何人殺そうとも、毛筋にも哀れをもよおすことはなく。

 むしろ使えないものを処分するかのようだった。

 蜘蛛巣教が江湖でもなうての邪教へと発展したのは、数よりもその強さと冷酷さがあったればこそ。

 陽も落ちあたりは暗くなっても、慕蓉麗は淡々と歩を進めていたが。ふと足を止めると、

「いい加減出てきたらどうだ。それとも、わたしに恋焦がれるあまり顔を合わせられないのか」

 身動きひとつせず、闇夜に向かってそう言い放つと、前から男がぬうと現れる。年若く、軽装で背には剣を背負い、一見江湖を流れる旅の武芸者のようにも見えたが。慕蓉麗はあっと驚き、慌てて跪く。

「苦しゅうない。面を上げよ」

 男がそのそばまでゆき、しゃがみこんで、跪く慕蓉麗の肩をぽんと叩けば。慕蓉麗はかしこまって、顔を上げた。

 目に映るのは、男の白面。その端正な顔立ちに、どことなく漂う気品は身分卑しからぬ貴公子そのものであった。が、目は慕蓉麗に負けず劣らず、氷のような冷たさをたたえていた。

「秦覇さま。お久しぶりでございます。」

「おう、久しぶりだな。そなたも腕を上げた」

 秦覇しんはのその言葉に、慕蓉麗ははっとし、頬を赤らめ。恥らう。

「見ていたのですか」

「見ていたとも。蜘蛛巣教の教主にふさわしい、教主ぶりであった」

「恐れ入ります」

 褒め言葉に、慕蓉麗はますます恥じらいの色を濃くしていた。秦覇はそれを察し、

「さていつ出ようかと思ってはいたのだが、そなたの言うとおり、恋焦がれるあまり、顔を合わせられなかったよ」

「おたわむれを。どうか、この慕蓉麗をおからかいにならないでくださいまし」

 らくしもなく、慕蓉麗は恐縮しっぱなしだ。秦覇はそれに興をそそられて、手を肩からはなすと頬に触れた。心なしか、いささか熱を帯びているようだった。

 頬に触れる手は、慕蓉麗を金縛りにしたかと思うと。秦覇の顔が迫り、唇と唇が、触れた。

「いけません」

 弾かれるように、慕蓉麗は後ろへ飛び下がり。震えながら跪き、

「ご無礼をいたしましたこと、どうか平にお許しを」

 と頭を地に着けんがばかりに平伏している。秦覇は平然と歩み寄って、こんどは上から冷たい目でもって射るように、見下ろしている。

「無礼とは思わぬ。花も恥らう乙女が、急に唇を奪われればそうなるものだ。むしろ、そなたもそうであったことが、何よりもうれしい」

「……」

 慕蓉麗は身体を硬くして、押し黙ったままだ。それを見て秦覇はふっと軽く笑うと。

「俺も、初めてだ」

 と言った。

 慕蓉麗はさらに身を硬くする。

「もったいないことでございます。わたくしごときよりも、宮中にふさわしいお方がおられましょうに」

「宮中など、あんな濁った沼のようなところ。俺はどじょうなど食わぬ」

「だからと言って、わたくしなど……。御身が穢れるのみでございまする。丞相の御曹子ともあろうお方が」

 慕蓉麗は秦覇の視線を痛いほど感じて、哀れになるほど震えてますます身を硬くしていた。

「いいや、俺はそなたを初めて見たときから決めていた。この、秦覇には、そなたこそがふさわしい」

 そう言うと、しゃがみこんで今度は力強く抱きしめて。二度目の接吻をかわした。

 慕蓉麗は胸を強く射られた衝撃に駆られ、弾けそうに身を悶えさせたが。秦覇の腕はたがねのように彼女を強く抱きしめ、そこから逃げ出すことは出来なかった。

 それは長く感じられた。が、やがて秦覇の方から唇を離すと、立ち上がり。背中を見せて夜闇の中へ消えてゆこうとする。

「いずこへ……」

 ゆかれるのですか。

 と力なくゆるりと立ち上がった慕蓉麗は、消え入る背中に、これまた消え入りそうな声で問いかけた。だが背中は声などかまわず、消えてゆこうとする。

「次は、そなたが教主になってからだ」

 とのみ残して。

 慌てて後を追った。 

 しかし、もうその姿はどこにもなかった。

 胸を射られたような衝撃はまだ残っていて、

「秦覇さまの、いじわる」

 ぽそりとつぶやいた。

 それから、不思議と目から涙が溢れて、胸に感じるものが、恋心であることに、気付いた。


第二篇 邪教 了

第三篇 慕蓉四天王 へ続く

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