第十三篇 怒涛
その一
慕蓉瞑討たれ、残り三人が暴走せり。という報せが秦覇の耳に届いた。
秦覇は中軍にあり、慕蓉麗と白馬を並べて進軍していた。
「そうか」
慕蓉麗は冷静を装い何も言わず、秦覇の出方を待てば。
「司馬良よ」
と妖術遣いの老臣を呼んだ。
お呼びでございまするか、と老臣、白馬の脚もとにて跪けば。秦覇空の向こうを見据えながら言う。
「今より竜馬に姿を変え、我を乗せてもらえまいか」
「天帝の仰せとあらば」
司馬良片膝をついたまま後ろに下がり、気を全身にめぐらせればその姿はみるみるうちに巨大な竜馬となり、天向かって羽ばたく。秦覇鞍より飛んで竜馬の頭上に乗りうつる。
「麗児よ、しばしの間我に代わり軍の指揮を執れ」
「仰せのままに」
慕蓉麗は拱手し、竜馬に乗って天に昇ってゆく夫の背中を見送った。その瞳は揺れていた。先鋒をつとめる慕蓉四天王のことは、秦覇とともに報せを聞いた。胸が早鐘のように鳴る。
(おろかな)
と、心のうちでそっとささやき、白馬にまたがり指揮を執る。
おそらく、他は知らず、己の瞳が揺れているのは秦覇も察していたろう。先鋒の役目は慕蓉四天王が買って出たことなのだが、この役目をしくじれば首を差し出すとも誓ったのだった。
いかに、過去において対立した者たちとはいえ、一族の者が討たれにゆくのかと思うと、心が動いてしまう。それよりも。
(私に、そんな情け心があったのか)
ということに、自分で驚いていた。秦覇と結ばれ、めおととして日々を過ごすうちに、知らず知らずにそうなっていたのか。そういえば、最近身体の調子が……。
「……」
口をつぐみ、空の彼方へ消え行く秦覇の後姿を見送ると。周囲を見渡し、
「前進!」
と号令をかけた。
そのころ慕蓉四天王の三人は、郭政目指しひた走りにひた走っていた。誓いがある。四天王で最強の慕蓉瞑が討たれたとあらば、もう自分たちは生きられまい。なら、いっそ滅茶苦茶暴れて死んでやる。
という、やけくその気持ちのまま、突っ走っていた。
が、空から雷鳴のように轟く竜馬のいななき。
はっと、空を見上げれば、竜馬の頭の上に仁王立ちする秦覇。背筋が凍てつくような冷たい眼差しで、鳳鳴剣を手に、こちらを見据えていた。
「きやがった」
慕蓉狗がうめく。摩と栖も立ち止まり、秦覇に備える。
ふ、と冷たい笑みを浮かべるや、秦覇は竜馬の頭上から飛び上がり、空歩術をもって空を駆け。飛剣術をもって鳳鳴剣を放つ。
「うおッ」
と、閃光が走るとともにうめき声が上がる。それから、慕蓉摩の首が飛び首と胴の切れ目から血を噴出させながら、首と胴が血に転がる。慕蓉摩の首は目を見開き阿呆のように口を開けて、地面に転がっていた。
はっ、とする暇もない。閃光走るところ狗も栖も、秦覇の操る鳳鳴剣の前には赤子同然で、なんら抗うことも出来ずその刃の餌食になるしかなかった。
目と口を開けた慕蓉摩の首のそばで、五体を切り刻まれた狗と栖の肉片が、それぞれが流してつくりあげた血溜まりの池の中で、転がっていた。
「他愛もない」
冷たく笑うと、鳳鳴剣を手元に戻して鞘におさめ。竜馬の頭上に戻り、慕蓉麗の待つ天軍にもどってゆく。ふと見れば、狼の群れ。面白いことにたまたま狼の群れが近くにおり、秦覇が遠ざかるのを心待ちにしながら無残な姿となった三人を食らおうと目を光らせていた。
秦覇が竜馬に乗って遠ざかってゆくと、狼たちは待ってましたと三人のなきがらに群がり食らいつき、がつがつと胃袋におさめてゆく。
(人を食った邪教の徒ら、土にかえることすら叶わず狼に食われるか。まあ、そういう生き方、死に方しか出来ぬ器であったということか)
風を受けながら秦覇は愉快そうに笑みをたたえた。
しばし空と風を楽しんで、もといた天軍の中軍に帰り着くと慕蓉麗と並んで白馬にまたがり。竜馬は司馬良へと戻る。
「おかえりなさいませ」
という慕蓉麗の声が、かすかに震えていた。ういやつよ、と思いながら頷く。
天軍は野を越え山を越え、郭政へ進軍する。すべてを消し去るために。
その郭政では、周思や周鷲たちが今か今かと天軍を待ち受けていた。
斥候の報告を聞くに、あと二、三日で到着するであろうとのこと。その斥候のおびえぶり。己に降りかかる運命の重さと暗さが、いやでもわかるものだった。
虎碧と龍玉は、仲間たちとともに城壁にて大地の向こう側を見つめていた。
やがては、この大地が、百万という天軍に埋め尽くされるのか。
だが、どうしてこんなことに。
人は過去より争いを絶えず繰り返す。古今の賢聖が争いを戒めようともその甲斐もなく。それらを一切否定し、人間本来の人間性を唱える秦覇の胸中には、どのような未来が拓かれているのだろうか。
南三零は夫の空路のそばで、物憂げに彼方を見つめていた。めおと侠客として各地を旅したそれまでの生き方がおのずと思い起こされる。
あだ名となった鉄仮面。これは南三零がつけさせたものだ。秀麗なかんばせが刃で傷つくのをいとい、夫に無理を言ってつけさせたのだ。
空路は傷を怖れて侠客がつとまるか、と苦笑いをしながらも、面食いな妻の言うことを聞いた。
そんな思い出も、迫り来る重圧の前にすぐさま引っ込んだ。
誰もが目に見えぬ手によって押さえつけられるように、重圧の重みと戦っていた。身体をなでる風や空気すら、今は重かった。
「はっははははははは!」
と城内で、誰かが馬鹿笑いをしていた。
「こいつ、気が触れたか」
周囲の者たちは押さえつけようとしたが、
「お、なんだ、遊んでくれるのかい。わーい、わーい」
とそいつは子供のようにはしゃぎ出す。これを押さえつけるのは容易であったとはいえ。そいつは人の気も知らず、
「なんだお前ら、よってたかっておれをいじめるのか。ずるいぞずるいぞ」
と今度は泣き出す。
どう見ても正気ではなかった。
「やむをえん」
とひとりの兵士がそいつをどこかへと連れてゆき、裏でこっそりと口を塞ぎ剣で突き殺した。そうでもせねば、城内が発狂の渦に飲み込まれてしまいかねなかった。そうなればもう天軍どころではない。
秦覇は郭政の人民をすべて皆殺しにすると触れ回っている。逃げようとする者もあった。が、どこへ逃げるのか、と思ったとき。どこにも逃げ場がないことに気付き、これまでと自害する者まであった。
父が妻や子らを殺し、自らも首をつった。などといった報告がもたらされたりもした。
周鷲は、城壁にそびえ立つ牙旗を見上げる。
「敵に攻められる前に、城内が浮き足立って自壊しているじゃないか」
と、悔しそうにうめいた。
その二
無論城内では周思をはじめとして、主だった者たちが激励をして士気を鼓舞している。
周菊は邸宅にもどり、侍女らに喝を入れつつ、母の唐夫人の守りについた。が、知らないうちに我が運命を呪い、めそめそと泣き出す女たちが後を絶たなかった。
負けると決まったわけじゃない。と正論を叫べども、意味はなかった。正論など、迫り来る過酷な運命の前に何の意味があろう。
さすが唐夫人は毅然としてはいる。泣くな、と女たちを叱咤する娘に、
「泣きたい者は泣かせてあげなさい。立てるものが立ち、それを守るのです。それが今第一にすることです」
と言い聞かせた。周菊は母の重みのある言葉に感心し、どうにか堪えている侍女たちをひきつれ、自分たちがきっと守ってみせる、と言いはじめて、ようやく邸宅は落ち着きを取り戻しつつあった。
だが、守りを固め始めた頃から時を経るにしたがい、士気が落ちつつあるのは嫌でも察せられた。十中八九は死ぬ、とわかっていつまでももちこたえられる者は、わずかだった。
周鷲とて、身体の震えを押さえるのがやっとであるというのに。
己が死ぬのは、やはり怖い。だがそれ以上に、何の罪もない人民が蹂躙され無残な末路を遂げてしまうのは、耐え難い屈辱だった。己よりも人を守ることが、こんなにも重いものだったのか、ということを、周鷲はしみじみと感じていた。
「……」
虎碧は無言で、淡々と時が過ぎるに任せている。龍玉は薙刀を手に、長元と並んで、今か今かと天軍を待ち構えていた。
作戦としては、固く門を閉ざし、城壁から頑強に抵抗する。それ一本だった。他からの援軍はない。群雄ことごとく天帝こと秦覇に膝を屈しているのだ。
果たして、いざ戦がはじまれば、郭政はどうなってしまうのであろうか。誰も想像もつかなかった。
空の、大地の彼方を見つめていた虎碧は、ふう、とため息をつく。それから、周鷲の方に振り向く。
周鷲は虎碧に見つめられ、寂しそうに笑みをたたえた。
やがて夜の帳が降りて、夜番の兵士たちと交替をして、虎碧に龍玉、周鷲らは城壁を降りて近くの詰め所で夕食をとった。
やけに静かな夜だった。
空は雲が月や星たちを覆い隠して。空気もよどんでいるようだった。相変わらず、郭政は重苦しい。
みんな、人生の最後が近づきつつあることを感じていた。が、それを口にするのもはばかられる。だから、天軍何するものぞ、と長元をはじめ威勢のいい者たちは無理にでも気を吐くのであった。
早めに食事を終えた虎碧は、少し散歩を、と言って外に出た。龍玉も、徳利を手にあたしもと後に続く。
夜闇の中、細々と灯火をともす城塞都市・郭政の街をふたりは歩き、これまでの生き方を語り合った。
「思えば、あんたのおかげであたしゃ人間に戻れたんだねえ」
「龍お姉さん……」
「いい男も出来たしね」
「いい男?」
「長元だよ。あいつ、あたしにべた惚れだったんだよー。もう、あたしと添い遂げることが出来なきゃ、方天画戟で頭かち割って自害するう~、なんて泣き出す始末でさあ」
けたけたと、空気を読まずに笑い出す龍玉。無論言ってることはでたらめだ。が、虎碧も気付かないのか気にしない。
「あの長元さんが、そんなに惚れこんでいただなんて」
「あたしも罪な女さあ。あいつ、このことは恥ずかしいから内緒にしてくれだってさ」
「あたしに言ったら、内緒にならないわよ……」
「あんたになら、いいんだよ。あたしら、一蓮托生の姉妹じゃないのさ」
「そうね」
相変わらずだなあ、と虎碧は龍玉がおかしかった。今になっても強気を崩さない。これに関してはかなわない。それから龍玉は、長元にも語ったことを、虎碧にも語った。今まで過去を語るなんてなかった。それだけに新鮮さを覚えるとともに、ふたりの間柄に新しい何かが生まれるようだった。
「苦労したのね」
「まあね。その間、あたしは人間じゃなかったね……。あのままいけば、どうなってたか」
歩きながら腕を組み、一人何に納得をしたのかうんうんと頷く龍玉。虎碧は黙って聞いている。
「だけど、まあ、最悪でも人間として死ねるんだ。それだけでもありがたいってもんさ。くう、腕が鳴るねえ。早く来いってんだ、天軍の阿呆どもめ」
今度は組んでいた腕を、ぶんぶんと薙刀のように振り回し、徳利の酒を口に流し込みながら、気勢を上げ始める。すると、徳利を虎碧に差し出して。
「あんたも飲みな!」
と押し付ける。
あらら、と思いつつもこくんと頷き、徳利を受けとり酒を口に流し込んだ。口や喉がかっと熱くなったのをこらえ、口をつぐみ徳利を龍玉にかえす。
「はっは。いい飲みっぷりだねえ」
上機嫌な龍玉。女がふたり、無頼漢のように酒を飲みながら街を歩くだなんて、はしたないなあ、と虎碧は顔が火照るのを覚えながら苦笑するしかなかった。
そうそう、龍玉は自分の過去は語ったが、虎碧の過去については一切聞こうとしない。さっき龍玉は、人間がどうのと言ったが、果たして、自分は人間だろうか。ふとそんなことを考える。人間であるということは、どういうことだろう。
「あのね」
虎碧は酒のせいで顔に火照りと気分が軽くなったのにまかせて、自分の過去と、周鷲とのことを語った。まさかこの娘が、と少し意外な思いを覚えながら龍玉は話を聞いていた。
「あんたも、苦労したんだねえ。でも、御曹子さまと、いい思いできたんだ」
「うん」
「いいねえ。命短し恋せよ乙女、とくらあ。やっぱり夢は見なきゃね」
徳利を仰いで、最後の一滴まで一気に食らう龍玉。ぷはー、と大きく息を吐き、顔を火照らせてとても上機嫌だ。それから、何かに気付いたように、路地裏に入ってゆく。虎碧も何だろうと思いつつついてゆく。すると、いたいたと、路地裏にたむろする女たちに声をかける。
(え、この人たちって)
と虎碧は戸惑いを見せる。郭政が平和な街だとて、やはり裏稼業で生きる人間がいないわけではなく。こうした表から外れた裏路地には、やくざや娼婦が「己の身をもって」その日その日を生き繋いでいた。そう、この女たちは、娼婦たちだった。みんな迫り来る天軍のことで、商売どころではなく、また客も来ないのでなおさらで、たむろし自分たちの運命を呪い悲嘆しているようだった。
その三
夜闇ですら、彼女らの頭上には暗雲が立ち込めているのが見えそうなほど、彼女らには暗い影が覆っていた。
「なんの用だい、大龍女さま」
娼婦の冷たい眼差しが、龍玉に突きつけられる。が、龍玉が大龍女と自らを名乗ったことを知っていた。あのとき近くに居合わせていたようだ。
「あたしを知ってるのかい。そりゃ話が早いや」
龍玉は色気を売りにする彼女らに対抗するように、家屋の壁に肩をかけ、わざわざ腰をくねらせ腕を組んで大きな態度をとる。虎碧ははらはらしながら事態を見守る。武芸に関しては虎碧の方が数段も上なのだが、こういう事態にうまく対応するのは龍玉が数段も上だった。
「それがどうしたのさ。まさかあたしらを買いに来たってんじゃないだろうね。いくらあたしらでも、そこまで安売りはしないから、他を当たりな」
「はっは。まさか」
「じゃ何だい。いいお得意様を紹介してくれるのかい」
「まあね」
女たちは龍玉の言葉にきょとんとするも、
「ふん。もうすぐ死ぬってときに、新しいお得意様なんざ出来ても意味がないさ」
と突っぱねるが、龍玉はそら来たと、「はっはは!」と高笑いする。
「もうすぐ死ぬからさ」
「なんだって?」
「どうせ死ぬなら、夢見てから死んでもいいんじゃないのかい。最後の最後まで、きったならしい売女でいるなんて、目も当てられないねえ」
「このアマ、言わせておけば……」
血気盛んな若い、いや虎碧とそう変わらなさそうなあどけなさの残る少女が、護身用に持っている匕首を握り、龍玉にすごむ。虎碧は、そういった少女を目にするのは初めてなのでうろたえる。慕蓉麗や慕蓉摩、慕蓉瞑はとも違い。少女は目が異様に光っているのに、それでも濃い影に覆われているような気がしてならなかった。
これが、身体を売って生きている娼婦というものか、と少なからず衝撃を受けた。
「おやおや。もうすぐ死ぬってのに、元気じゃない。あんた、名前は?」
「殷春だよ。糞女が、よく覚えておきな」
「おやめ!」
頭分の女が殷春から匕首を取り上げ、龍玉を睨みつけじっと対峙する。殷春は虎碧も睨みながら、成り行きを見守る。
その女は頭分だけあって胆は据わっているようだ。開かれた襟から惜しげもなく豊かな胸の谷間をさらし、鋭い眼光とあいまって今にも爆発しそうな危うさがあったが、その爆発しそうな危うさが男を惑わせるようだ。
「あたしの名前は殷華。御託はいいから、用事があるならちゃちゃっと済ませておくれ」
「あんたも殷っての。姉妹なの?」
御託はいいというのに、気にせず御託を言う龍玉に殷華はちっと舌打ちしながら、
「まあね。ここの商売女たちはみんな過去も名前も捨てて、殷って苗字でやってるのさ。あたしらは親からも世間様からも見捨てられた因果な商売女……」
と言うと、龍玉を見据え、ふんと荒く鼻を鳴らす。
「あんたも、あたしらとおんなじように、身体を売ってたろう」
と言う。そういう雰囲気を、殷華は敏感に感じ取ったようだ。
「ご名答。あたしも同じ穴のムジナだったさ」
龍玉は得たりと、にっと笑うと突然、
「虎妹!」
と虎碧に振りかえり。
「今から菊お嬢さまのところへ行って、化粧品やきれいな服を用立てしてもらってきな!」
と声を張り上げる。虎碧わけがわからずおろおろするが、龍玉かまわず、
「早くいきな!」
と勢いよくその尻をはたくと、虎碧は「わ、わかったわ」と言って弾かれるように駆け出してゆく。
「いったい、何をするつもり」
「言ったろう、夢を見たくないかって」
「夢? ふざけたことをお言いでないよ。からかってるのかい」
「からかってないってば」
「さあ、どうだか。もしあたしらをからかってるなら、どう落とし前つけてくれるんだい?」
さすが裏稼業で生きていただけに、見知らぬ者に対して猜疑心が強い。が、それだけに一旦信を得れば何者も引き千切れない固い結束が生まれる。ということで、龍玉はかわらずにっと笑って、
「この鼻を掻っ切ってやるさ」
と指で鼻先を小突く。と、殷華はさっと龍玉の鼻先にさっき取り上げた匕首を突き出し。
「その鼻に紐を通して、首に飾ってやるよ」
と言う。龍玉怖じずに瞳を真ん中に寄せて、じっと鼻先に突きつけられた匕首を見据える。
「おお怖い怖い。じゃそういうことで、行こうか」
「行こうかって、どこへ」
「太守様のお屋敷へ」
それを聞き、娼婦たちは度肝を抜かれる。まさか太守様が自分たちを買うのか、と。
「どうしたのさ、さっきの威勢のよさはこけおどしかい?」
どうしようかと思った殷華たちだったが、そこまで言われれば黙っているわけにもいかず、龍玉についてゆく。そのころ、太守の邸宅についた虎碧は周菊と会い、化粧品ときれいな服を用意するように頼み込んでいた。
「虎碧さんの言うことでしたら、そうしますけれど。何をするつもりですの?」
と周菊は怪訝な顔をする。
「さ、さあ。龍お姉さんに考えがあってのことだと思います」
「龍玉さん、の考えですか……」
虎碧と違い龍玉は、周菊にとっては異質な感じがするので、どこかとっつきにくいものがあったが、周菊は言われたとおり侍女に命じて化粧品や服を用意させた。それからややあって。
「た、大変です!」
と侍女が飛び込んできた。
「龍玉さんが、怪しげな女の人たちを引き連れて……」
「なんですって?」
急いで門のところまで着てみれば、娼婦たちを引き連れた龍玉が満面の笑みで、腕を組んで得意そうにたたずんでいた。
その四
門番はもの申すと言いたそうにしていたが、龍玉や娼婦らのひと睨みにたじたじになってなにも言えない。
「ああ、お嬢さま。虎妹に言伝を頼んでいたんですけれど、聞いてますか?」
と言ったときに、虎碧が戸惑った顔をして周菊の背後から顔を覗かせた。
「ええ、聞いてますが……」
「なら話は早い」
とずかずか邸宅に入ってゆこうとする。娼婦たちはさすがに太守の邸宅と怖じて、龍玉に続けない。
「どうしたのさ。早く来なよ」
「本気で言ってるのかい?」
二の足を踏む殷華は足が動かず、振り向く龍玉の背中に文句を言うしかない呈だった。が、龍玉いわくありげな笑みを浮かべ構わず奥へと進んでいく。
苦りきる殷華だったが、なめられてたまるかと、龍玉に続いて邸宅に入ってゆこうとする。まだ周菊は何も言っていないのに。
若い門番は、これはいかんと、
「おい!」
と一喝をくれるが、同い年くらいの殷春は、なにさとひと睨み。ますます血の気が上がった若い門番は、殷春の腕を掴んで外に引っ張り出そうとする。
「なんだよ、触るなよ!」
とわめいて、殷春は若い門番の頬を、おもいっきりひっぱたいた。これに若い門番が黙っているわけも無い。
「おのれ」
と叫んで、拳を固く握りしめ殷春を殴りつけようとする。殷春はきっと若い門番を睨みつけて、何を思ってか避けようともしない。
「待ちなさい!」
あまりのことに呆気に取られた周菊だったが、かろうじて声を張り上げ門番を制止した。が侍女はすで騒ぎ出して、邸宅やその周辺は騒ぎになって、兵士や住民が何事かとどやどや押しかけてくる。この中には、無論太守の周思と唐夫人も家来をひきつれていた。
「この一大事に、何を戯れておるのか」
とさすが厚徳な周思といえど、声はおのずと大きくなる。隣の唐夫人は呆気にとられている。
龍玉はにこと笑って、眉をひそめる周思に向かって、
「太守様!」
と呼びかけ、こう続けた。
「ここにおります郭政の民草に、どうかお恵みを下さいますよう」
直立不動、その姿は堂々としたものだ。若い門番はきっといきりたち、
「龍玉どの、これはあまりにも不遜ではないか。頼みごとがあるなら、それなりに礼を尽くされよ」
と言うが、龍玉知らん顔。
周思もこれには驚きもしたが、その眼差しは鋭くも何かを秘めているようで。ふむと、何かを察したか、
「何を思って左様なことを言うのか、申してみよ」
といえば、心得たりと龍玉笑みをたたえて、
「他愛も無い事でございます。ここにいる女たちに、ひとときの夢を見せてやりたくりまして」
「夢、というか」
「はい。ここ郭政ももはや風前のともしび。仮に滅びを免れたとて、死者の出ることばかりは免れがたく。ともすれば、この女たちの命もないかもしれません。その前に、きれいな化粧をさせ、服を着せてやりたくなりまして」
女たちは、太守に向かいそんなことをいう龍玉に驚き唖然とする。殷華も殷春も、威勢はどこかへと忘れたように、ぽかんと話を聞いている。
「……」
周思や唐婦人、周菊は、女たちを見据えてなにやら思案にふけっているようだ。どう見ても、堅気ではない。それらに、夢を見せてやりたいというのか。
「わたしくしは、かつては糊口をしのぐためにこの身を男に売っておりました。いわばこの天下の男は皆夫、とでもいいましょうか。そうでもしなければ、生きられなかったのでございます」
「そんなことがあったのか」
まさか龍玉が身を売っていたなど初めて聞いた周思は、驚きを隠せなかった。なにより郭政にもやくざな男や女がいることはわかっていたが、こうして目の前に並べられると、言葉が出なかった。
「あったのですよ」
悪びれもせず、龍玉はずっと笑顔だ。虎碧は無言。ここは自分の出る幕ではなかった。
周思はふうとため息をつく。とんでもない女性だ、と思いつつも、この今の事態になってもそんな思いやりを忘れない龍玉にちょっとした感動を覚えてもいた。
すると唐夫人は、周菊や侍女たちに、
「すぐに服や化粧品を用意してあげなさい」
と言った。
それは周菊が先に虎碧から話を聞いて用意させていたことだが、まさか母親がからんでくるとは思いもしなかった。
「お母さま、それはわたくしがすでに言いつけております」
「おや、そうでしたか」
「ここはわたくしどもに任せて、お母さまはお休み下さい」
「いいえ、なんだかとても楽しそうだから、わたしも混ぜてくれないかしら」
周菊はそんな母親の言葉に面食らった。よりにもよって、男に身体を売っていた娼婦の世話を母親がするなんて考えられなかった。自分だってほんとは嫌だったが、虎碧が言うならと引き受けたのだった。
「小菊、やらせてあげなさい」
と父は微妙な顔をする娘に言う。
「我らのために戦ってくれる龍玉どのの頼みなら、断れぬ。なにより、彼女らも人民であることはかわらない。人民あっての我らだということを、忘れてはならぬ」
そういうと周思は奥へ下がっていった。その後で、蔵を開き郭政の人民らにほどこしをあたえる命を下した。
「話は決まった。さあ、さあ」
と龍玉は殷華と殷春の背中といわず腰といわずひっぱたいて笑顔で女たちをびっくりさせながら、いけいけとせっついた。
侍女もためらい顔に女たちに、
「どうぞ」
とうながし。殷華は、龍玉が自分たちをからかっていなかったことがわかり、疑いをかけ匕首を向けたことを悔いていた。
「すまなかったね」
「いいってことよ」
とにこにこして、龍玉は、
「虎妹、いくよ!」
と手を振りこっち来いとうながせば、虎碧はうんとうなずく。
「周菊さん。お母さま。ありがとうございます」
と一礼し、龍玉とともにゆこうとする。
娼婦たちは、きれいな化粧をしきれいな服が着れるとわかり、喜びを隠せず。そのとげの刺さったような顔をほがらかにしていた。
それを見送り、虎碧と龍玉は夜の街の中へと、消えていった。
その五
その日は、夜の帳が払われるのと入れ替わりに、雲が激しく空を流れて。空を見上げれば、まるで激流の川底から荒れ狂う川面を見上げているようだった。
城壁には、郭政の兵がおのおの得物を手にして、またその掌に汗をにじませて。彼方より土煙をあげて迫り来る天軍の大軍を眺めていた。
空に雲流れれば、地には鉄甲の津波。
郭政の太守、周思の嫡子である周鷲。その配下の鈴秀に木吉、黄安尊。
そして義によって馳せ参じた江湖の侠客らも、さすがにその威圧を感じ入り、その身鉄になったかのごとく身じろぎもせず息を吐くのもようやくのようであった。
天帝秦覇率いる百万の大軍は、庸州の地を死地としながら踏みにじり。ここまでやってきた。
「なんという」
周鷲は城壁から秦覇の大軍をながめ、言葉もなかった。
曇天の空の下、兵馬のその鉄甲にぶく黒光りしさざなみのように揺れ。そのさざなみは郭政の城塞都市を囲み、地を埋め尽くしていた。
鉄甲の津波はこのまま城壁にまで押し寄せ、郭政を飲み込むかと誰しもが思った。が、軍勢は威勢の良い掛け声のもと一旦し立ち止まった。
城壁の牙旗が風になぶられはためいている。
誰しもが軍勢から目が離せず、それからの成り行きを見守った。
すると、周父子のいる城門側の城壁前の軍勢から威勢の良い掛け声があがると思うや、鉄甲の波は左右に別れ。その間から、二頭の白馬が姿をあらわす。
周鷲と虎碧、龍玉は思わず、あっ、と声を上げる。
白馬を駆るのは、漆黒の甲冑に身を包んだ天帝、秦覇であった。もう一頭の白馬には同じ漆黒の甲冑に身を包んだ女戦士、慕蓉麗がしとやかに控えている。
いっせいに弩弓の弦が引き絞られ、数万もの矢が秦覇と慕蓉麗に向けられた。がふたりは動じず、城壁を悠々と見上げていた。
なんのつもりだ、と城兵らはいぶかしがる。その大軍をもって、いっせいに郭政を揉みつぶしにかかると思っていたのに。
「郭政の者どもに告ぐ」
と秦覇は声を張り上げて言った。周鷲はくちもとを引き締め、
「やあ、秦覇か。うぬはこの天下に無用の乱を招いて、何とするのか。弁明があるのなら、聞いてやるから、言ってみろ」
と返すのを、秦覇はふっとかすかに笑い受け止めた。
「知れたこと。まことの人の世を、つくりだすため」
「数多の命を奪い、血風惨雨を撒き散らすが、まことの人の世と申すのか」
「いかにも」
秦覇は勇然と応えた。そればかりか、その冷たい眼差しの中に、無知の輩が、という嘲笑をも見て取れた。
「周君よ、思い起こしてみたまえ。過去朝廷において、その腐敗いかに人心に染み入るかを」
「……」
上から見下ろす傲慢な物言いだが、周鷲は無言で聞いている。秦覇は続ける。
「われはさとった。力こそ正義なりと。血風惨雨撒き散らすといえど、これもまた人の望むものなりと。思いたまえ、強者が弱者を殺すは無慈悲か。否、これこそ、慈悲なり」
その言い分に、周鷲は眉をひそめ。郭政は都市ごとざわめく。
「そも生きる力のなき弱者を、慈悲と言いなまじ生かしたところで、生きる苦しみからは逃れられず。これこそまさに無慈悲。されば、ひとおもいに殺し生の苦しみより開放させるが、まことの慈悲なるを、汝は知らざるか」
「勝手なことばかり言うな! まだ若いお前に、生きることの何がわかるというのだ!」
「天帝に向かって無礼なるぞ、青二才!」
と叫ぶのは慕蓉麗であった。
が、秦覇はこれを手で制し。
「まあよい。もともと、おしゃべりをしにここまで軍を率いたわけでもなし。百千という言葉よりも、ひと思いに攻めかかれば、済むこと」
緊張が走った。殺気が人々を包んだ。
秦覇は素早い動作で鳳鳴剣を抜き放ち、高々と掲げ、
「かかれ!」
と剣先を周鷲に向け、号令を下した。
郭政を囲む百万の軍勢は、怒涛となって、城壁へと押し寄せた。
獣のように叫びが、矢が飛び交う。刃はひらめき、怒声とともに城壁から崩れ落ちるように人が落ちてゆく。
その攻防戦、まるで天地揺れるがごとくであったが。なによりも、彼方まで地を埋め尽くす百万の天軍の軍勢、怒涛のごとく押し寄せとどまることを知らず。
にぶく黒光りする鉄甲ひとかたまりに、城壁に押し寄せ。数を頼みに殺戮をほしいままにする。
江湖の侠客ら、空路に南三零夫妻に、長元。そして龍玉と虎碧も、渾身の力をもって、鉄甲の怒涛に抗い戦うものの、いかんせん、数が違った。
このままでは、日が落ちるまでに持つかどうか。
されどあきらめるのはまだ早く。
「ほらほらあ、かかってきなってば。返り討ちにしてやるから!」
龍玉は大薙刀を振るい天軍の軍兵どもを薙ぎ倒し、血風の渦を巻き起こす。それに、
「俺を忘れちゃあいけねえぜ!」
と長元の方天画戟がくわわり、旋風巻き起こすこと果てを知らずかのようだった。
虎碧といえば、人を殺生できぬ性質ゆえに得物を持たずただひたすら拳と脚をもって天軍を振り払うばかり。そのそばには、周鷲。気がつけば、背中合わせに天軍を振り払っていた。
「あなた、わたしたちも、負けてはおれませんよ」
と夫の空路にささやく南三零。飛び交う赤と青の盾、天軍の兵を翻弄し城壁から叩き落してゆく。
「いまこそ一生一大の大勝負。ここで負けるは男が廃るというもの」
「あら、それは女も同じこと」
日を産む夫婦というあだ名の通り、赤と青の陽を生み出したかと思わせるほどに、赤と青のふたつの盾はこの曇天下にもかかわらず光り輝いていた。
そのそばで、
「妬けるではないか」
と日を産む夫婦に茶々を入れながら、黄安尊は若き日より大事にしている一刀を振っていた。城壁を駆け上った天軍の兵らがいかに押し寄せようとも、かつて周鷲を感激させた、水をこぼさず豆腐を崩さずに駆けた豆腐屋時代のその身のこなしは、敵刃一切かすりもせず。
風を切り、敵兵を斬ってゆく。
また鈴秀と木吉も同じく善戦す。
天軍の兵がまたひとり、城壁から叩き落された。龍玉だった。
「やるじゃねえか。気合が入ってるぜ姐さん」
と長元負けじとひとり粉砕すれば、龍玉またひとりの脳天を叩き割ると、大喝一声。この獣の咆哮こだまする乱戦にあっても、秦覇ににまで響いたほどの声だった。
「あたぼうよ。最悪でも人間として死ぬんだ、これが喜ばずにいられるかってんだい」
その6
龍玉の威勢のよい声が秦覇と慕蓉麗の耳に届いて、ふたりは実力に合わぬ強がりを嘲笑した。
「我が夫、天帝よ。いまより城へ向かい、あの小癪な女の首を獲ってまいりましょうか」
「その必要はない。いたずらに刃を汚すこともなかろう。討ち損じようとも、あの女には刑吏の刃が何よりも似合うであろうて」
「御意。差し出がましいことを申しました」
「なんの」
後ろから前へと、地と空を揺らし天軍の鉄甲兵が城へと殺到しゆくのを、ふたりは近衛兵に囲まれながら、悠然と眺めていた。
その攻め方は数に任せた力攻め一本。四輪の台車の上に築かれた櫓からは矢が雨あられと放たれ、城壁に備えられていた盾は針鼠になった果てに耐えられずに砕け散り。城兵はも幾人もが針鼠となってかばねを城壁にならべ、あるいは落ちた。
その雨あられと矢の降りそそぐ中を、梯子から絶え間なく天軍の兵が命を惜しまずよじのぼってくる。
城門には、先をとがらせた太い丸太を乗せた台車が突進し幾度となく城門にぶつかり。そのたびに門やかんぬきがきしんだ。
(なんて滅茶苦茶な)
最初こそ得物を手にとらなかった虎碧であったが、その矢が降りそそがれるにたまらず剣を抜き、振って防いだ。
城壁には天軍の兵がよじのぼっているにだが、それもかまわず矢はありったけに放たれ、中には味方の矢で絶命する天軍の兵まで数多くあったほど、その攻城戦は類を見ない無茶苦茶さだ。
「秦覇は兵法を知らぬか」
その滅茶苦茶さに慄然として周鷲は降りそそぐ矢と天軍の軍兵と格闘しながら叫んだ。
(いや秦覇ほどの者なら、兵法を知らぬはずはない)
黄安尊に鈴秀、木吉もそのあまりの無理な攻めように、ただでさえ胆をひきちぎられそうなのを、さらに締め上げられそうな思いに駆られるのだった。が、不意に気付いたことがある。天軍の兵と戦いこれを斬り払おうとしたとき、その目が狂気と恐怖に染まっているのを見逃さなかった。
殺気だっているというよりも、むしろ敵に向かいながら何かからも逃げようとしているように。
(そういうことか)
鈴秀は相手を斬りながら瞬時にさとった。最初こそその気の触れたとしかいようのない目つきの悪さを、天軍だから、と簡単に決めてかかっていたのだが。いざこうして戦ってみれば、敵前逃亡に対し容赦のない処刑があるのはいうまでもなく、また有無を言わせずに敵に突撃をさせてもいるようで、無論逆らえば死である。結局、天軍といえど秦覇はこれを人としてあつかわず、あくまで戦争の道具として鞭打ち突き進ませているようだ。
それでも軍勢が進軍できたのは、百万という数に任せて行く先々においての城や町などを飲み込み、略奪暴行の限りを尽くして一時の憂さを晴らせたからに他ならない。
秦覇自身力があり鳳鳴剣を自在に操る。逆らったところで勝てない。結局、行くも退くも同じ死があるなら、滅茶苦茶暴れて死んでやるという自暴自棄の気持ちが、皮肉にも天軍の士気となって昂ぶらせているようだ。
降りそそがれる矢は敵味方の別なく人を射抜き命を奪い、また城壁を飛び越え非戦闘員の人民の命も奪った。
「ええいやってらんねえぜ」
長元は敵兵のかばねをかつぎ、やむことのない矢を防ぐ盾代わりにつかった。龍玉も同じように、嫌な顔をしながら敵のかばねをかついで盾代わりとし。鉄仮面・空路に究極淑女・南三零の日を産む夫婦も己の盾を攻めよりも守りに使うことが多くなって、徐々に防戦一方においこまれてゆく。
かと思えば、怒涛と迫る大軍を掻き分けて数台の車が姿をあらわす。
「投石機だ!」
誰かがさけんで、その後で悲鳴を上げてその声は途切れた。見ればなるほど確かに大石を積んだ投石機が数十台と城壁に迫ってくる。
「なんだと!」
信じられないと木吉は声を上げた。出す順番が逆だろう。まず投石機や矢で城を牽制して隙を作り上げ、それから兵を投入するのが城攻めの基本ではないのか。秦覇はこれを逆にやっている。
「遊んでいるのか」
周鷲はいまいましくつぶやき、槍を拾い上げてこれをぶんぶんと振り回し迫り来る矢を叩き落す。その最中にも、天軍の兵は針鼠となりながらも味方に襲い掛かりこれを道連れにしてゆく。
これは、もう戦ではなかった。秦覇という、たったひとりの人間の勝手な思い上がりからはじめた遊びでしかなかった。
敵も味方も、おもちゃにして、命をもてあそび奪ってゆく。煎じ詰めれば、秦覇のつくろうとする世の中とは、また彼の唱える人とは、そういうことなのだ。なるほどだから、力こそ正義なのだ。
殺されたくなければ、俺より強くなればよいではないか。という秦覇の嘲笑が、耳朶に響いてきそうだった。
そうこうしているうちに、「放て!」という号令がところどころで響いたかと思えば、投石機から放たれた大石が風すらぶちやぶる勢いで飛びあがり、弧を描いて、城壁に激突した。
そこにも、敵味方数多くの人間がいたのだが、これも巻き添えに潰して。
次から次へと大石ははなたれ、城壁を人もろとも潰しては砕いてゆく。
「いかん」
周鷲は咄嗟に城門櫓に立て掛けられていた牙旗めがけて駆けた。なるべく城門櫓から離れないようにしていたつもりだったが、戦闘の間に知らず知らず離れてしまったようだ。
「若!」
虎碧が咄嗟にその近くまで駆け、矢を避け敵味方のかばねを踏み越えてともに牙旗目掛けて走った。幸い牙旗は数名の兵がその身で守り通したおかげで無事で、降りそそがれる矢の中悠然と起立しているようだった。
牙旗は城を守る城兵の精神の象徴だった。これを傷つけることはならず、どこか安全な場所へ移さなければ。
そう周鷲は考えた。
「危ない!」
はっとした途端、大石がこちらに迫ってきている。もうすぐ牙旗を立てている櫓だというのに。
(これまでか)
とさすがに周鷲も覚悟を決めた。そのとき、虎碧は止まらず周鷲を抱き上げ城門櫓まで駆けた。それは、まるで風に乗っているようであった。と思う間もない、城門櫓の屋根まで一気にひとッ飛びして飛び移るとともに、牙旗が数名の兵士のかばねに囲まれて起立していた。
(いまだ)
と反射的に牙旗の旗竿を周鷲は掴む。と同時に、後方で大石が城壁に命中しこれを砕く轟音がひびいたのを感じた。
それから、また虎碧は周鷲を抱き上げたまま城門櫓の屋根から城壁に飛び降りたとともに、周鷲も虎碧より降り立った。
牙旗は周鷲の手に握られている。
「よくぞ無事であった」
と声に力を込めるとともに、牙旗を守って死んだ城兵の冥福を祈った。牙旗は奇跡的に無傷だった。
周鷲は叫んだ。叫ばずにはおれなかった。
「見よ、牙旗いまだ折れず。天運いまだ尽きず、勝機まだ我らにもあり」
牙旗を掲げて、秦覇に見せつけるように、周鷲は誇り高くも牙旗を大きく振った。
その七
小癪な。
秦覇の、その怜悧な顔が冷たく笑い、目は鋭く光った。
「全軍停止、ただちに後退せよ!」
という号令を下せば、それを聞いた天軍将校らも同音に秦覇の号令を各方面へ下す。
それまで雨あられと降りそそがれた矢や大石は止まり。押し寄せる怒涛は今度は引き潮のように、後ろへと下がってゆく。
その狂気と秦覇の強さ百万に徹底しているのか、命令の遂行も実に鮮やか。郭政の城兵らと格闘の真っ最中であった天軍の軍兵までもが、戦いを放り出し梯子をつたっておりてゆく。
「しゃらくせえ」
と龍玉に、長元やその子分の忠澄らは梯子を倒し、降りていた最中の天軍の軍兵らはわっと悲鳴を上げて地面に叩き付けられる。が、目に憤怒の色をたたえつつもさがってゆく。
にわかに怒涛は引いて、獣の叫びに代わってざわめきが、静かに人々の耳を突く。
「何事でしょう」
と南三零、夫に問えば、
「わからん」
と鉄仮面よりくぐもった声で応える空路。その意図を読めず、困惑の色は隠せない。城兵らも一時の安堵と、次は何だという不安をないまぜにして成り行きを見守れば。
秦覇不敵な笑みをたたえ、
「笑ってやれ。あの悪あがきを笑ってやれ」
と鳳鳴剣で周鷲を指し、天まで届けと高らかに笑い出す。慕蓉麗にそのそばの侍女、劉晶や将校、そして郭政の城塞都市を囲む天軍一斉にけたたましい笑い声を上げる。その笑い声四面にこだましどよめいて、郭政を包み込む。
(いかに敵といえど、そんなに辱める必要があるのか)
と、ただ司馬良だけは笑わず憮然としているが、秦覇おかまいなし。
「くっ……」
いまだ思春期の少年のように多感な周鷲は、四面を包む笑い声のこだまにとりかこまれて、旗を振る手を止めてしまい、顔を真っ赤に染め身体をぶるぶると震わせる。
「戦に負けれど心は負けじ」
「天晴れな敗軍の将よ」
「あらおもしろや、あらおもしろや」
あざけりの声が雨あられと周鷲にそそがれ。あざけりは虎碧にもおよぶ。
「隣のおなごは、これか」
と小指を立てる仕草をする者あれば、
「やあ若君、ことはすでにお済みであるか」
「知れたこと。若君も隅に置けぬ」
「欲浅くして潔癖の性と聞きおよぶも、それはうそであったか」
「いやそのお年頃、一人では済むまい」
「他に二、三人は夜伽のおなごがおるであろうて」
「これ娘、いかに若に取り入った。やはり、寝床であるか」
爆笑の渦は郭政を、周鷲と虎碧をとりまきやむことを知らなかった。
「何を言ってやがる」
と長元と龍玉は言い返すも、聞き入れられず爆笑の渦に飲み込まれる。
その時であった。
「破!」
と虎碧、剣に命を吹き込むように掛け声を発し、己の剣を天向かい放り投げた。
さすれば虎碧の剣、まるで矢のように秦覇剣目掛けて飛んでゆくではないか。これには、周鷲驚かずにいられなかった。
(なんだと!)
あやうく声を出しそうになった秦覇であったがそれをかろうじておさえ、印を結び飛剣術をもって鳳鳴剣を操り、虎碧の剣を叩き落そうとすれば。同じく虎碧も印を結んで己の剣を操り、鳳鳴剣を叩き落そうとする。
「これは」
と爆笑の渦は途端に消えて、代わって両軍驚きの声がこだました。
秦覇と虎碧、それぞれ遠く離れながら剣は主の意思にしたがい宙に舞いながら烈しく火花を散らした。
その下でどよめきが起こり、驚愕の声が天地を揺らし。宙舞う二剣を包み込んだ。
あれはなんぞと、敵味方一時戦いを忘れて見守ってしまうほど、宙舞う二剣はまたたく間に十数合をまじえ。さらに合数を重ねようとする。
驚く周鷲をよそに、虎碧の碧い目がきらりと光を増す。剣は烈しく回転しながら、鳳鳴剣を一旦避けた後周囲をぐるぐる回る。鳳鳴剣は、じっと動かない。いや、動けない。それを見計らうと、
「窮奇爪!」
という掛け声を発すれば、剣は烈しく回転しながら鳳鳴剣に迫った。
「っおお!」
咄嗟に丹田に力をこめ、そこから頭上に抜けるがごとくに気を発した秦覇はかろうじて鳳鳴剣を動かし、虎碧の剣を避けさせた。そう、まるで蜘蛛の巣にでもかかったのように、剣を動かせなかったのだった。
慕蓉麗や劉晶、司馬良の驚きもひとかたならない。無論、配下の将校たちも。
虎碧の剣は鳳鳴剣をしとめそこねると回転をやめ、ひらりとひるがえって主のもとへかえってゆく。秦覇も同じく我が剣を自分のもとへとかえした。
それぞれの剣がそれぞれの主の手にかえると。秦覇はすかさず、
「なにをしている。かかれ、郭政の人民どもを、皆殺しにしろ!」
と叫んだ。そばでは慕蓉麗が口をつぐみ虎碧と我が夫とを交互に見ている。
号令が各方面にいきわたると、攻撃は再び開始された。
宙舞う二剣がぶつかり合う間、寄せ手も守り手も、あれよあれよと戦いを中断していたのだが、再び天軍の軍兵らは狂える獣となって、城壁へ押し寄せそれへ矢が、大石が撃ち出された。
「周鷲お兄さま、再び失礼します」
というや、虎碧は周鷲を再び抱きかかえ、今度は城内側の城壁を駆け下りていった。眼下には、上を驚きの目で見上げる人々の視線が虎碧と周鷲をとらえてはなさず。乱戦であることを一時忘れているかのようだった。
(虎碧さんの力とは……)
あの時、虎碧はすべてを周鷲に打ち明けた。そのあどけない姿の内に計り知れぬ力を秘めているらしい、というのはわかったつもりだった。しかし。
(秦覇は、あせっていた)
それほどまでの力なのか。なにか、慄然とするものを覚えた。
頁二に続く