第十二篇 牙城に牙旗立つ 頁二
その八
そのころ龍玉は、人目につかぬよう邸宅の庭の築山の陰に座り込んで隠れて、師匠からの手紙を手にして、
「う、うう。お、お師匠さま~……」
とぼろぼろ泣きながら手紙を読んでいた。その手紙には、弟子の龍玉への気遣いにあふれた優しい文章がつづられていた。
思えば、物心ついたときにはすでに龍沙尼や他の孤児らとともに寺で暮らしていた。寺といっても、誰も住まなくなった草庵に、龍沙尼自ら苦労して彫った仏像を安置している程度のものだったので、周囲は草庵寺と呼んでいた。朽ちるところがあれば皆とともに修繕し、草庵寺の周りに畑を耕し、尼や仲間たちとともに土に触れ。心身練磨のため、文字や賢聖の言葉に、仏典を学び、武芸の修行もしていた。
龍沙尼は若くして仏門に入り、仏典の研鑽などの修行にはげみ。見識を広めるために廻国修行の旅に出た。それに備えて、武芸の練磨も怠らなかった。
その廻国修行をする中で、清濁まみれた娑婆世界の現実を知った。ことに親を亡くし孤児となった子供たちに心を痛めた。
(この子らは、どうなってしまうのであろうか)
と思い悩んだ末に、
(そうだ、これこそ今まで修行してきたことを生かすときではないか)
と、孤児をひきとり育てる決意をした。
龍玉は、そんな決意をして間もないころに住むようになった草庵寺に置き去りにされていたのを見つけて育てたのだ。
龍玉はお転婆な性分で文よりも武を好み。また龍沙尼も龍玉の成長が嬉しくて、武芸に磨きをかけさせた。
龍沙尼は、龍玉や孤児たちに言って聞かせていた。
「わたし一人では、できることに限りがありますが……。皆が大人になり世に出るようになったとき、互いに協力して私が教えたことを生かして、世のため、人のために働いて下さい。それが何よりの、私の望みです」
孤児たちは「お師匠さま」と慕う龍沙尼から受けた愛情のあたたかさに微笑んで、元気いっぱいに「はい!」と返事をし。龍沙尼はまさに菩薩様のような笑顔で、孤児たちを見守り。また孤児たちの育ての親であるとともに、師匠として精一杯、教えられることを教えていた。
暮らしは貧しかったが、つねに笑顔の耐えないあたたかな「家庭」が、草庵寺にはあった。
だが、好事魔多し、というものか。あれは秋も深まり紅葉が山を彩り始めたころ、龍玉十四歳のときであった。
寺に、人さらいが押しかけてきた。夜中、龍沙尼や仲間たちが寝静まったころ、突然扉を蹴破り、驚き泣き喚く孤児たちをさらってゆこうとした。奴隷を扱う人買い相手に商売しようと、ならず者たちが、前々から草庵寺の孤児たちに目をつけていたのだ。
咄嗟のことに得物を持つ暇なく徒手空拳で闘った。それでもどうにか、ふたりの奮戦でどうにか人さらいは追い払ったが。あろうことか、人さらいらはやけになって、孤児たちを刀で斬り殺してしまった。無論、龍沙尼に龍玉は止めようとしたが、人さらいらは案外に強く、止めることかなわなかった。
龍沙尼に龍玉も、ここで死ぬのかと思ったが、人さらいらはふたりを残して逃走。
あとには、無残な姿に変わり果てた孤児たちのなきがらがよこたわっていた。
龍玉の瞳が、夜闇の中、ぎらぎらと光って。龍沙尼を見据えた。
「仏様は……?」
とつぶやき、仲間のなきがらと龍沙尼を交互に見据えていた。仏様は、どうして守ってくれなかったのか、と。目に血涙をたたえて。
「うそつき!」
と叫び、背中を見せて夜闇の中駆け出して、龍沙尼の前から姿を消した。
あまりのことに衝撃を受けたのは龍沙尼も同じで、己の武芸の未熟さを呪いつつ、呆然と孤児たちのなきがらを見つめ、龍玉の背中を見送ることしか出来なかった。
以来龍玉は、龍沙尼より教わった武芸を我流で磨きあげながら、江湖を彷徨った。生きるために、食うために、追いはぎもやった、金で殺しもした。人を殺すことには、抵抗はなかった。
そして成長し身体が熟れてくるにしたがい、多少の色恋沙汰もあって女にもなった。が、誰とも結ばれずさらに江湖をさすらい続け。もう乙女ではないからと、身体を売った事もあったし、またときに無頼漢と組んで美人局もした。
すべては、生きるために、食うために。
といった過去が、脳裏から満ち潮のようにあふれ出て龍玉の脳髄を引っ掻き回す。
「お師匠さまの、言うとおりになっちまったよ……」
手紙を見つめながら、何度も何度も泣きじゃくっては鼻をすすること絶え間なく。と、そのとき、「ぷっ」という笑い声が聞こえた。龍玉は驚き急いで涙をぬぐいつつ、
「だ、誰!」
と大喝すれば。
「いやあ、わりぃわりぃ」
と言いながら出てきたのは、徳利をかかえた長元だった。隅に隠れて龍玉の泣くさまを眺めていて、どうしようと思ったのだが、「あの」龍玉があまりにもめそめそと泣くのが、どうしてか面白く感じられて思わずちょっと、噴き出してしまったという次第。
「なんだ、長元さんか」
「あれ、なんでほっとしているんだよ」
てっきり恥ずかしさのあまり慌てて逃げ出すか、そうでなくてもひどく赤面するのかと思ったのだが、意外にあっさりとしていて変に思えば。龍玉「ふっ」と笑って、
「あんたの考えはお見通しさ」
と徳利を取り上げて栓を抜き、しっかりと口をつけて酒を一口飲むと、長元に徳利を渡す。
「こういう風に、あたしと飲みたかったんだろ」
「まあな」
隣に座りながら苦笑いの長元。なめるな、と言ってやろうかと思ったが、今は好きに言わせることにし。また龍玉の言うとおり、徳利でもって間接接吻をするように酒を一口飲んだ。相手がこっちを助平と見通しているなら、予想通り助平男になってやろうじゃないか、と長元は考える。
「うめえ。べっぴんさんが口づけした徳利だから、なおさらうめえや」
「ははは!」
と笑いながら徳利を取り上げ、くいっと一口飲むと長元に渡す。
「ねえ、長元さん」
「ん?」
「あたしゃ、そんなにきれいかねえ」
力なく手紙をつまんで。真っ赤になった目が、遠くを眺めている。
「ああ、べっぴんさんだ。でなきゃ、こうして飲もうと思わねえよ」
「そう……」
「どうしたんだ、いつもの龍玉さんらしかねえな」
酒を飲んでも白いその横顔は、自嘲気味に笑っているように見える。
「いつだったかねえ、鏡を見てさ」
「ああ」
「そしたらさ、すっごいブスなの。目つき悪くて、いつも腹空かしているようにさ」
「……」
「『これが、あたしの顔?』って思わず言っちゃったよ」
「人間生きてりゃ、そういうこともあるさ。俺だって、兄貴や姐さんに拾ってもらわなきゃ、どうなってたか」
と長元がいうと、龍玉はその手を取って、自分の腰に長元の腕を回させ身をにじり寄せてくる。
「あんたとは気が合いそうだから、ご奉仕してあげるよ」
と言うとさらに、もう片方の手を取ると、自分の胸に触らせようとする。
「柔らかいよ、あたしの胸」
という、湿り気を帯びて気だるくも艶めかしい声が漏れたと思うや。ぱしん、というはじける音。長元はつかまれた手を振りほどくついでに、龍玉の頬を平手で打ったのだ。無論手加減はしているが。
「なめるなッ!」
多少のおふさげにはつきあってやろうと思っていたが、いくらなんでもふざけすぎだ。と長元は頬を赤くする龍玉を鋭く見据える。すると、その目からまたぼとぼとと涙が溢れ出す。
「ああ、ああ、やっぱりあたしはだめな女さ」
と言っては泣きじゃくる。まるで何かにとりつかれたように。
「っていうか、あんたあたしとやりたいんだろう。あたしも、あんたが好きだから、やらせてやってもいいと思ったのに」
「な、ええ?」
あまりに突飛な言葉に、長元ぽかんとする。
「でもそうだよねえ、男なめた誘い方だったよねえ。でも仕方ないじゃないか、あたしはそういう方法でしか男を悦ばすことが出来ないんだよ」
「ちょ、ちょっと待て。落ち着け落ち着け」
と慌ててなだめる長元。どうにも、龍玉には弱いものだった。
その九
下心がないといえばウソになるが、まさか向こうからそういう風にしかけてくるとは思いもよらず。思わず龍玉をひっぱたいてしまった長元だった。龍玉はかまわず、おいおいめそめそと泣いている。
「お師匠さまは言ってたよ。どんな苦難も乗り越えられるように心を磨かないと、何をしても意味がないって。仏様の教えと言っても、奇跡じゃなくて、道理だって」
「はあ?」
「お師匠さまも辛かったろうに、あたしゃ全然わかんなくて、寺飛び出して、やけになって、身を持ち崩す一方で……」
長元がぽかんとするのも構わず、龍玉は涙と一緒に言葉をとめどもなく溢れ出させる。
「まあ、まあ、落ち着けって。俺でよけりゃ話してみなよ。少しは気が楽になるかもしれねえぜ」
泣きじゃくる龍玉の肩をゆすりながら、長元はどうにかなだめると、少しは楽になったのか涙を流しつつも徐々に落ち着いてきて。ちらりと長元を見やると、そっと、物言わず手紙を差し出すので、受け取って読んでみる。
龍玉へ
私の未熟さのゆえに、お前には大変苦しい思いをさせてしまいました。子供たちをを守りきれず、死なせてしまったこと、私の宿業の重さを子供たちや龍玉にも強いてしまったこと、詫びるに詫びようもありませぬ。
それでも会って詫びたい一心で、各地を廻りお前を捜し求めましたが、この私の宿業重きゆえに病にかかり余命いくばくもなく。会うこと果たせず。先に逝くこと、心苦しくてなりません。
幸いにも庸州の地にて、太守周思様のご恩徳を受けることが出来、この手紙を託すことにします。
龍玉よ、私を許さずともよいから、自分を大切にして、幸せな道を歩んでください。
ですがもし、許されるならば、龍玉の子として生まれ変わり、償いの孝行をさせてほしいと願わずにおれません。
そして、龍玉に仏様のご加護があらんことを。
読んで、長元ほろりと涙を流した。
(何があったのか知らねえが、俺も、こんな優しい母ちゃんのような人がほしかったなあ)
と龍玉が羨ましくなった。家庭に恵まれず、父はおろか母からさえ、金を稼ぐ以外に孝行はないと言われ、十になる前から盗みを働き、稼ぎを親にすべて渡していた幼年時代。愛情を知らずに育って、身体が成長するにしたがい、暴力によって食うことを覚え、そのために武芸も身につけて江湖を練り歩いた。
素質に恵まれて、無類の強さを身につけ。腕っぷしによって己の人生が大きく開かれると勘違いしていた。それに気付かせてくれたのが、鉄仮面・空路と究極淑女・南三零夫妻だった。
江湖の武芸者に喧嘩をふっかけては、己の腕っぷしを誇示し、それは同時に稼ぎでもあった。倒した武芸者から、金品を巻き上げ場合によっては命も巻き上げていった。
空路と南三零も、そんなカモにしてやろうと襲い掛かったわけだが、あえなく返り討ち。
殺せ! と叫んだ。が、空路と南三零は、長元のどす黒く光る瞳の奥に何かを見たようで。
「どうしてそのような乱暴を働くのですか。よければ、話してみてくださいな」
と南三零に優しく諭されると、自分でも不思議なほど、心の奥底にあるものがあふれ出して、言葉となって口を突いて出る。上手く考えもまとまらず、要領を得ない話し方ではあったが、話すうちに心に雪解けがあるような感じで軽くなってきて、ついにはさっきの龍玉のようにおいおいと泣き出す始末。
生まれてはじめて触れる優しさに、強い衝撃を覚えた。同時に、今までのことを深く悔いた。
「抹香臭え話だが、仏様も自分を殺そうとしたやつを許し、弟子にしたっていうじゃねえか。それにならって、おめえ俺らと義兄弟の契りを結んで、人生やり直してみろ」
長元のおいおい泣き出すその有様に、最初は殺そうかと思った空路であったが、根っからの悪人になって心底腐っているわけではないのを見て、仏心が顔を覗かせ許すことにした。
長元はおおいに感激して、杯をかわし夫妻と義兄弟の契りを結んで、以後悪事を一切働かぬことを誓い、また弱きを助け強きを挫く任侠道一筋に生きることも誓った。
そのときの長元のように、上手く考えがまとめられ不要領ながらも、龍玉はたまりにたまっていたものをぶちまけるように、思いのたけを洗いざらい話し始め。長元、時折頷きながら、黙って聞いていた。
龍玉が今そうなっていると知らず、虎碧は周菊に笑顔で迫られて。
「ねえ、ねえ、お兄さまが好きなんですの?」
と問いかけ攻めにあっていた。もう顔は真っ赤に茹で上がり、身は硬くなる一方。
(そ、そんなこと、言えるわけないじゃないの)
と、非常に困った。しかも相手が周鷲の妹で、太守の娘ときているから。やめて! と突き飛ばすわけにもいかず、ええと、あのう、そのう、と言葉を濁すしかなかった。
「まあ、照れた虎碧さん、とてもお可愛いですわ。こんなに可愛い虎碧さんと恋に落ちるなんて、お兄さまったら、なんて果報者なのでしょう」
と、にこにこ笑顔で迫り、照れる虎碧をおもちゃにするように、恋愛談義に花を咲かせようとする。穢れを知らぬ乙女の身、恋に憧れること大きく、それこそ目の前に憧れの恋物語が転がり込んできたような喜びを感じ。不躾ながら、虎碧に迫らずにいられなかった。
彼女の心の中で、憧れの恋物語のふたりとして、周鷲と虎碧がともに同じ道を歩んでいる絵が浮かんでいた。
しかし、真っ赤に茹で上がった顔のまま、碧い瞳に涙が溢れて。ついには、ぽろりと、一粒落ちて頬をつたった。
「あら?」
どうしたのかしら、と思えば、虎碧は涙を流して、こう言った。
「私は身分卑しく、どこの馬の骨とも知れぬ娘。周鷲さまと、結ばれるいわれはありません」
「どういうことですの? 身分が違うから、ということなんですの?」
「……」
虎碧は、物言わず、こくりと頷いた。すると、周菊さきほどまでの笑顔はどこへやら、突然烈火のごとく怒りだし。
「身分がなんだというんですの! そんなつまらないもので、愛し合うふたりが引き裂かれるなんて!」
と叫んだ。
側仕えの侍女たちは、恋物語に憧れる我が主の不躾さを恥じて顔を真っ赤にしてうつむくばかりだったが、さすがにこれはまずいと。
「周菊さま、どうか落ち着いて」
となだめだす。虎碧はぽかんとするばかり。思えば、龍玉とふたりで江湖をさすらう生き方をしてきたため、教養はあっても世事には存外疎い。同じ世代の女の子と、恋について語らうことなどあるはずもなかったし、無論友達と呼べる親しい人もいない。それが突然、周菊が屈託なく兄は好きかどうかなどと聞いてくるものだから、どう対応してよいのかさっぱりわからず、押し寄せる笑顔の波動に押し流されないようにするのが精一杯だった。変な話、得物を持って襲撃される方がよほど御しやすい。
(屈託がないのはいいけど、なさすぎるのも、困りものだわ)
侍女らは苦笑して、ぷんぷん怒る周菊を、まあまあ、と言いながらなだめている。そもそも、憧れるに任せて、人の恋路にずかずか介入するのもどうであろう。
「もう、こうなったらお兄さまやお父さま、お母さまとも掛け合ってやるわ」
長い黒髪を揺らし、瞳を輝かせ、いざという時に備えて鎧を身にまとい勇み立ち、いっぱしの女武者ぶりをみせる周菊。
「黄安尊だって、もとは市井の豆腐売りだったじゃないの。虎碧さんがお兄さまに嫁いではいけないいわれが、どこにありますの」
「ですから、若がお嫁さんをいただくのと、黄安尊どのが太守にお仕えすることは、また別の問題でありますし」
「あなたたちまで、そんなことを。虎碧さんを御覧なさい。とても可愛くて礼儀正しく、非の打ちどころなんてないのに、身分が違うからって、そんなの……」
と言うと、何故か目に涙を浮かべて、歯噛みしだす。身分違いによる悲恋物語も、今までたくさん読んだし聞いてきたし、そういう内容の芝居も見てきた。そのたびに、少女らしい感動と、理不尽さを覚えたものだった。それが、目前に現実として現れて、周菊の興奮はとても烈しいものだった。
(というより、虎碧さんと若が好き合っているってまだ決まったわけじゃないのに)
そのことに気付かない周菊も周菊だ。が、虎碧は、周菊が自分のために泣いてくれていることを知って、少なからず感動を覚えるのだった。事はどうあれ、自分のために泣いてくれるなんて。
(友達って、そういう人の事を、言うのかしら)
と、まじまじと周菊を見やっている。侍女がひとり、
「申し訳ありません。どうかお気を悪くなさりませぬように」
と苦笑いをしながら、主に代わって詫びてくる。
「いいえ」
と少し困った顔をして言うと、
「あの、周菊さん」
と周菊を呼んだ。
「はい、虎碧さん」
凛とした声の返事がかえってくる。いたく興奮して、今から戦に出かけるような勇ましさだ。
「あなたは、私のことを、友達と思ってくれているのですか」
「もちろんですわ!」
その言葉に、にこりと虎碧は微笑んだ。周菊の目は、とても澄んで、きらきら輝いている。
「お兄さまに嫁げば、お姉さまになりますわね」
と満面の笑みで言う周菊。
恋物語に憧れすぎて、ひとり先走ってしまうようなお嬢さまではあるが、虎碧を友達と思ってのことだと思うと、知らずに友達を持てたという喜びにひたる自分がいた。龍玉とは義姉妹の誓いを立てて、ともに力を合わせて江湖を旅してきたけれど、ふたりして俗世間とかけ離れた生き方をしているため、どうにも浮ついたものを感じずにはいられなかった。旅する中で、男であれ女であれ、仲の良いもの同士が集まって談笑するのを見てて、うらやましさを覚えて、できれば自分もその中に入りたいと思ったこともあった。
その願いは、周菊がかなえてくれそうな気がしていた。でもやはり、自分はここにいてよいのだろうか、という思いが染みのように胸の中にありもする。
(私が生まれた理由は。母は……)
と思うと、やはり自分は、ひとりひっそりと消えてなくなるべきではないかという考えが湧き起こってきもする。
母は、ひとりはるか西の彼方へと旅立ち、そこで異国の異民族の男と交わり、虎碧を生んだ。母は西方への旅のことをよく娘に言って聞かせていて、果てのないと思われる大陸のはるか西方にも、海があると聞かされたとき、不思議な思いがしていた。
自分が生まれて物心ついたときには、母子とも母国である東方の帝国、辰にいて、母は江湖をさすらう子連れ女侠客として生き、娘の虎碧に文字や武芸を教えながら、各地を旅していた。ふるさとは、なかった。
だから、友達と呼べる人もいなかった。
その母は、自らを窮奇(翼を持った虎の姿の悪神)と名乗り、娘には碧い目にちなみ虎碧と名乗らせていた。自らの名を悪神と同じくするばかりか、本来あるはずの性は教えてもらえなかったばかりか、どうして自分たち母子の名前は、通常と違うようなものなのかということを聞こうものなら、
「それは時が来れば教えてあげます」
と子供を食い殺す羅刹女のような怖い顔して言い、なにか秘することがあるようだった。そう、皆、虎が性で碧が名だと思っているが、ほんとうは違うのだ。そして虎碧が十五のとき、すなわち二年前、龍玉と出会うおよそ一年前、母は虎碧の教養と武芸が板についたのを見計らうと、
「時が来ました」
と言って、それまで秘していたことを、すべて打ち明けた。
その、過去を思い出すと、心が突然吹雪にあったような寒気に襲われ。吹雪によって、全てが吹き飛ばされて、心がからっぽになってゆくようだった。
その十
「周菊さま、お方様と若さまがまいられます」
と外から侍女が慌てて言った。母と子の語らいも一通りすませ、ふたりが周菊と虎碧のまつ部屋に来ようというのだ。虎碧ははっとして、身を硬くする。周菊はうんと頷き、強敵でも待ち構えるように虎碧のそばまでゆき、母と兄を待ち受ける。果たして、周鷲と唐夫人がやってきた。
「母上様」
と周菊は跪き拱手し、侍女たちもいっせいに跪く。虎碧も同じく跪く。
唐夫人は微笑み、お立ち下さい、と言うと、
「はじめまして、周鷲の母です。息子が大変、お世話になったそうで……」
唐夫人は物腰も柔らかく、丁寧に虎碧にお辞儀をし。虎碧も恐縮しながらお辞儀を返す。太守夫人だからといって、尊大さのかけらもない。
ただ、物腰の柔らかさから来るのか、少し疲れているような印象を受けるのは、やはり今の動乱を気に病んでいるせいだろうか。
後ろに控えている周鷲に振り向くと、頷き。周鷲もまた、戸惑った顔をして、頷いた。いったい何を話したのだろうか、やけに、周鷲はどぎまぎして、頬もうっすらと赤い。それを見て取った周菊は、まさか! と内心意表を突かれたように、勝手に内心驚く。
「ほんとうなら、我らのために尽くしてくれた恩人に、わたくしからも、もっと礼を尽くしてご挨拶せねばならぬのですが。……少々身体を壊してしまいして、これにて失礼いたします。何かあれば、側の者に、ご遠慮なく仰せ付け下さいませ」
と、再び深くお辞儀をして、さがってゆく。侍女に手を引かれ、ほんとうに辛そうに歩いている。その背中を見て、皆心になにかにじむものを覚えた。
周鷲は周菊と虎碧を交互に見やると、
「それでは、俺もゆくぞ」
と言い、背中を見せてさがってゆく。これを見て周菊、にこりと微笑み虎碧の手を引いてから、後ろに回り背中を押した。虎碧も戸惑いながら、されるがままに、周鷲の後ろを着いてゆく。
気配を察して、周鷲は振り向き虎碧を見た。その瞳は揺れていた。
「虎碧さん、いいかな」
と言う。
「いいかな、とは、なんでしょう……」
あの利発な周鷲らしくなく、揺れている様を見て、虎碧はその心が大きく波打っていることを察していた。何に対して、心は揺れているのだろう。周鷲はうつむき加減に、ついてきてくれと言うと、とつとつと歩き出し、自分の部屋までゆく。虎碧は後に着けながら、えっと驚く。
若様が若い娘を自室に招き入れるなど、尋常ではない。まさか、周鷲は自分に気があるのか……。
(まさか、思い上がったことを)
と否定する。それに、自分は江湖をさすらう女侠客の娘、いや、ほんとうはもっと質の悪い素性なのだ。と思うと、周鷲から離れてひっそりと消え入りたい気持ちに駆られる。周鷲のことは尊敬しているし、仕えてもよいとも思っているけれど。まさかお側付きの侍女として、夜伽まで自分に命じるようなことをする若様とも思えない。氏素性を考えれば、奴婢で使ってもらえるだけでもありがたいくらいなのだが。
なんなら、いっそのこと逃げ出してしまおうか。本気を出せば、周鷲など敵ではない。が、それをするのもはばかられた。それをすれば、自分で自分を否定しているような嫌な気がする。結局どうなんだろう、と思いながらも、覚悟を決めて周鷲とともに部屋に入ってゆく。
部屋は若様の部屋とはいえ質素なもので、必要最低限の家具がそろっている以外、少し裕福な庶民の家とさほど代わり映えのしないものだったが、掃除は行き届きさっぱりとしている。なにより、壁に立てかけてある本棚には、書物がぎっしりと詰まっており、若様らしく文字に親しみ、武辺一辺な若者でないことをうかがわせた。
外は暗くなりつつあって部屋の中は仄暗くなってきて、周鷲は自分で燭台に火をつける。同じように、邸宅のあちこちで燭台に火がともされてゆく。
虎碧は入り口のところで突っ立ったまま、周鷲の様子をじっと眺めている。
「父上は言うんだ。自分の身の回りのことは、自分でしろって」
とはにかみながら言ってから、あっと気付いて。
「ああ、座っていいよ」
と部屋の中央にある円卓と椅子を指差す。
「あ、はい。ありがとうございます」
と言いながら、椅子に座ろうと少し歩いたが、椅子を指す指先が震えていたのを見て、つと、歩みを止めると、燭台の火に灯されて仄暗さから浮かび上がる周鷲の顔を見た。燭台の火と一緒に、周鷲の影が揺れていた。
このまま燭台の火を消したら、周鷲は闇の中消えうせてしまいそうだ。
と思う間もない、互いに目が合ってしばし見つめあうや、周鷲は弾かれるようにして虎碧を抱きしめた。虎碧も逃げず、腕を回されるがままに任せ、自分の腕もその背中に回す。
顔をうずめる胸が、震えている。
「俺は、怖いんだ……」
という周鷲の声も震えている。
「秦覇は庸州の人たちを皆殺しにすると言った。それは、俺のせいか……」
庸州で繰り広げられている天軍による殺戮。それは、周鷲が秦覇に従わなかったから起こったことなのか。となれば、責任は周鷲にもあるのだろうか。
「俺は、俺は、怖いんだ」
周鷲は勇敢な若者だ。戦い自体に臆することはまずない。しかし、自分が秦覇に従わなかったために、庸州で大虐殺がおこなわれていると思うと、どうしようもない、言葉で言い表すことの出来ない暗い気持ちが胸中から滲み出て全身に広がってゆくような、暗澹たる気持ちに襲われ。
それが、なんでもいいから、誰かに慰めてほしいという気持ちも生み。
どうにも抗うことが出来なかった。
虎碧は何も言わず、ぎゅっと腕に力を込めた。それから、つま先に力を入れると、すぅと空に乗って部屋の隅の寝床まで、滑るようにふたり抱き合ったまま進む。
周鷲は、
「すまない、そこまでは……」
と戸惑い言うが、虎碧は聞く耳もたず。腕を放さず、寝床にふたり抱き合ったまま座った。
「いいんです。私も、こうしていたい」
「え?」
それから、何も言わない。虎碧は周鷲に腕を回したまま決して放そうとしない。胸がどきどきする。いくらなんでも、しらふでいられるわけもなかった。でも、こうしていたかった。これから、いつまで命があるかわからないのは、虎碧とて同じ。そんな彼女にも、誰かと優しく抱擁をしあいたいという、少女らしい願望があった。
周鷲の腕は力が抜け、今にもずり落ちそうだ。頬を胸に押し付けて。
「だ、抱きしめて……」
と満面に朱をそそいで、消え入るようにつぶやいた。そこで、周鷲腕に力を入れて、虎碧を抱きしめた。
(男の人でも、恥ずかしく思うのかなあ)
と素朴な疑問を心地よく抱き。虎碧は周鷲の腕の中、胸に顔をうずめて目を閉じて、ふたり抱き合ったままそこはかとない未知の怖さと、空気に交わり溶け込んでゆきそうな、心地よい気だるさにひたっていた。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
周鷲はかちかちになりながらも、虎碧を抱きしめている。このまま、寝床に押し倒されたら、どうしようと思うものの、もし周鷲がどうしても自分を望むなら、そのまま身を捧げようと思った。
(ひとときでいいから、夢を見たい)
哀れにも思える願望が、虎碧の胸の中渦巻いていた。周鷲なら、望外の相手ではないか。利発にして心優しく、やや色は黒いがそれが闊達さをよくあらわし、目鼻立ち整い凛々しい顔つきは育ちのよさとともに若さに合わぬ威厳さえ感じさせる。
が、周鷲は、今以上のことはしようとせず。鼻をくすぐるにおいにひたり、目を閉じ夢うつつと服越しに肩の細さを感じていた。
その十一
乳白色の濃霧が周囲を包む。まさに五里霧中。虎碧は右に左に首を振りながら、ここはどこ? と霧の中をさ迷い歩く。
歩けども歩けども、何もない。
いい加減歩きつかれて、一旦休もうと腰を下ろそうとすると。
「虎碧」
と、自分を呼ぶ母の声。
「お母さん」
はっとして、声の方に振り向けば。そこにあるは一人の、身分卑しからぬ婦人。真っ赤に燃えるような衣を身にまとい、帯剣し、こちらをじっと見つめている。これなん虎碧の生みの母、窮奇であった。
窮奇は江湖の女侠客らしからぬ、品のある端正なかんばせは、その黒い瞳の中は、冷たく光り輝いていた。
虎碧は、ぞっとして少し後ろへさがる。
「どうしたのですか。なぜ、母から逃げようとするのですか」
穏やかな物言いの中に、海よりも深き怨念を溢れんばかりににじませて、窮奇は虎碧ににじりより。手は剣の柄に触れようとしていた。
「い、いや。来ないで」
「まあ、なんと言う言い草でしょう。母に、来ないで、など」
「あ、あなたは……」
窮奇は静かにたたずみながら、澄んだ瞳にどす黒い怨念をにじませていた。
「ええ、死んでしまいました。あなたのために」
背筋に針でも刺されたように、弾かれるように跳び下がって、虎碧は逃げようと霧の中を駆けた。母が追ってくる。
虎碧は逃げた。だが、走れども走れども、逃げ切れない。
「辰に滅ぼされた我ら閻一族の胤王朝の復興が、我が大願であった」
「いや、いや!」
虎碧は耳をふさぎ母の言葉を断ちながら駆けた。だが、走れども耳をふさげども、母は迫り声は耳朶に響いてくる。
「虎碧や虎碧、なぜ母から逃げるのです」
後ろのはずの母が、いつの間にか眼前に現れた。しかもすでに剣を抜きはなち、切っ先をこちらに向けて。虎碧は我知らず、己の剣を抜き、母に刺突を繰り出す。
さすれば、虎碧の剣は、母の喉を貫いた。
はっとして、剣を母の喉から抜き一歩も二歩もさがった。
「そうです。そうして、私はそなたのために死にました」
喉を真っ赤に染めて、涼やかに語る母の姿は、まさに幽鬼そのものだった。
「はるか遠く、異形の力を持つ異民族の男と交わり、常ならざる子を生み、母と子で辰を滅ぼし胤を復興させる我が大願。そなたを公主たるに相応しく育て上げた労苦。こうして水泡に帰しました」
虎碧は首を横に振り、狼狽のあまり剣を放り投げて母に背を向け駆け出し、逃げようとした。だが、無情にも肩を掴む手。
「いや、いや!」
心の中で何かがぷつりと切れて、虎碧は狂ったように叫びながら、目の前が真っ白になってゆき。そのまま飲み込まれようとしていた。
「虎碧さん、虎碧さん!」
耳に飛び込む、周鷲の声。ゆっくりと目を開ければ、周鷲がこちらを向いてしきりに名前を呼んでいた。肩をゆすりながら。
いつのまにか、ふたり寝床に横になって眠ってしまったようだった。ということは、あれは夢だったのか。と思いつつも、脳裏に母をあやめることがありありと浮かび上がってくる。
「寝言で、お母さんとか、胤とか、閻とか言っていたが。どういうことなんだ」
その尋常でないあえぎように、最初は突発的に病にでもかかったのかと驚いたが。そのあえぎながらの寝言に、虎碧の見る夢がただならぬものだとさとった。胤、閻。という言葉で昔、辰に滅ぼされた胤王朝と、王族である閻氏一族のことが思い出された。群雄割拠の戦国の世、次々に各国を滅ぼした辰に、最後まで頑強な抵抗を見せたのが、閻氏一族率いる胤王朝だった。
が、ついには閻氏一族の胤も辰に滅ぼされて。大陸は辰帝国の治めるところとなった。
閻一族はことごとく死した。と聞いたが、王族はその一族の数は多く、あるいは誰かは生き延びて復興の大願を抱きながら地の底で生きるものがあっても不思議はなさそうではあるが。
まさか……。
「お兄さま……」
虎碧はすがるように周鷲にしがみつき、嗚咽交じりにみずからのことを語りはじめた。自分は胤王朝を治めていた閻氏一族の末裔であること。母は自らを窮奇と名乗り、はるか西のかなたへ旅し異形の力を持った異民族の男と交わり、虎碧をなしたこと。帰東してから、子連れ女侠客として江湖をさすらい、同じ末裔の者たちと連携をとり謀反を企んでいたこと。
虎碧を文武ともに身につけさせたのは、復興のためでもあり、また公主に相応しい女性にするためでもあり。などなど、なにもかもを、洗いざらいぶちまけた。
涙ながらに語る虎碧の言葉に、周鷲は天地がひっくり返るほど驚いたのは言うまでもない。江湖の女侠客らしからぬ物腰の少女だとは思っていたが。まさか、閻氏胤王朝の末裔などとどうして夢にも思おうか。
窮奇は虎碧が十五のときに、全てを打ち明け、同志とともに反辰の旗を揚げ、胤を復興させることを伝え。また、その出生の秘密と、虎碧には異形の力があることを語った。
辰への憎しみ。復興の悲願。母とて生まれる以前のことを体験したわけではなく、代々、閻氏に受け継がれてきたものだ。それは虎碧も受け継ぎ、大願を果たすのは当然だと思っていたのだろう。だが、虎碧はいやがった。
「わ、私は、静かに暮らせれば、それで満足です。公主の位もいりません」
その言葉、母の心をずたずたに引き裂くには十分だった。
「ああ、我が子のこの有様。なんでご先祖様に申し訳が立とうか」
血涙を流し、母は、虎碧を殺そうとした。閻氏の大願を、わずかでも否定するような腑抜けの者は、誰であろうと、腹を痛めて生んだ我が子であろうと、殺す。これも閻氏の掟だった。
女性としてよりも、母としてよりも、閻氏として生きた母にとって、滅辰興胤のみが生きる意義であり。我が子がいかなる道を望み、歩むかなど、思慮の外であった。これもまた、閻氏の生き方であった。
「我が胤朝のため、異形の力を持つ異民族の男とまじわり子をなすも、その心薄弱にして悲願背負わず。かくなる上は、我ら母子ともに死してご先祖様にお詫びするより他なし」
と、剣を振るい虎碧を斬殺しようとした窮奇であった。しかし。一国を、どころか大陸を治める大帝国を滅ぼすために生んだ虎碧である。
閃光走ってまじわったあと、窮奇の喉を、虎碧の剣が貫いていた。無論、虎碧とて母をあやめようなど、どうして思おうか。だが、咄嗟のことに……。
母は娘の碧い瞳を凝視して、喉を朱に染め。
「無念」
と吐き出し、斃れた。
それから、虎碧もかくたる記憶がなく。龍玉と出会うまで、夢うつつに生きたようだった。
にわかには信じかねる突飛な話で、周鷲は当惑しているが。虎碧がはったりを言うことも考えられない。これこそ夢うつつな話である。
だが、窮奇と虎碧の、母と娘の物語は、哀れをもよおすものがあった。辰への尽きぬ憎しみと、胤の復興のみを、心の糧として生きてきたのだ。だが、それだけならまだましというもの。虎碧の強さを思うとき、異形の力を持った異民族の血を引く彼女に、周鷲はそこはかとない怖気を感じてしまった。
(一体、虎碧さんには、どのような力があるというのだろう)
碧い瞳は涙に濡れて、救いを求めるように周鷲を見つめている。ふと、胸の疼きを覚え、唇を奪いそのまま押し倒したくなる衝動に駆られぬでもないが。今一歩のところで、心の中の、別の自分が「やめるんだ」と止めていた。それは単に貞操云々の問題ではなかった。
「……」
虎碧は涙で濡れた碧い瞳を周鷲に向けて、無言。
場が場なだけに、ゆっくりと顔を近づけ口づけをしてもおかしくはない雰囲気だったが。ともに見つめあったまま、動くことはなかった。
そのころ、周菊は自室にいて。窓から夜空を見上げていた。
雲ひとつなく、月や星たちが競い合うようにして光り輝いている。周菊は夜空を見上げながら手を合わせた。
「どうかお兄さまと虎碧さんが結ばれますように」
と星に願いをかけていた。
夜空の向こうに凶悪な敵がいるなどにわかには信じられないほど、澄んだ星空だった。
それから、いざという時に備えて寝ずにいるつもりだったのを、侍女に「それは下々の役目ですから」と諭されて、甲冑のままながら寝床に横になって、すやすやと寝入ったのであった。
その十二
夜が明けて朝が来るとともに、郭政の人々は戦いで亡くなった者たちのなきがらを広場に集め。胸の上に手を合わさせて、薪とともに丁寧に並べて火葬の準備にとりかかっていた。
なきがらの中には、あの三人娘もいた。静かに目を閉じ、胸の上で手を合わせ。静かに火によって葬られるのを待っている。
周思以下、周鷲に周菊。龍玉に虎碧たちの見守る中、火がつけられた。
火はなきがらたちを包み込んで、煙立ち天に向かって昇ってゆく。
それを見守る人々の中には、自分もこれに続くことになるのか、と悲壮な思いで見守っていた者も多々あった。周思もまた同じ気持ちで、火葬を見守っていた。
ほんとうなら、ひとりひとり丁寧に葬ってあげたかったが、戦乱が刻一刻と迫っている中それもままならない。申し訳ない思いと、敵討ちを誓う気持ちとを思い合わせて、人々は天に昇ってゆく煙を静かに見守っていた。
それから、配置に着け、との号令がくだり。兵士たちや義勇兵となった侠客たちは郭政の城壁に上り持ち場に着いて、いまかいまかと、敵を待ち構えた。
その城壁の各所に、牙を飾った旗、牙旗が掲げられていた。牙旗は風を受け威風も堂々と、我が姿を見よとばかりにたたずんでいる。また牙旗はためく郭政の城塞都市も、牙城となって、人と城が一体となって敵を待ち構えていた。来るなら来い、と怖れなく。
牙旗は古来より、天子や大将のいる本陣に掲げられる旗として用いられてきたが、それは、こここそが正念場でもある、ということでもあった。
天帝こと秦覇によって辰は滅び、大陸は未曾有の動乱の時代を迎えている今、この郭政が陥落すれば、この世はどうなってしまうのであろうか。
道徳や人道などない、鬼畜の世になることは必定。そんなことは断じてさせぬ、という周思以下、郭政の人々の思いが、この牙旗に込められていた。
勝ち目は、万に一つあるかなきか、ではあったが。彼らは、いかなることがあろうとも、人間として生き、人間として死すことを望んでいた。
郭政のあちらこちらで、馬蹄が響きわたり。威勢のいい鬨の声があがる。士気を上げるために周思や黄安尊らが、各所を激励してまわっているのだ。
周鷲に周菊、虎碧に龍玉、空路に南三零と長元らは、城門のそばの城壁に上り。さあ来いと、得物を手に、敵を待ち構えていた。
いざとなれば、すぐ城より打って出ることも考えていた。
鈴秀に木吉は周思と黄安尊らとともに、各所の激励に回っていた。
城の向こう側。大地は果てしなく広がり、空もまた果てしなく広い。それらは、人のなすことなどお構いなさそうに、自然の流れに沿って日々の回転を淡々と続けていた。時として、それら自然からはるか上空の彼方から見下ろされているようにも思えた。
秦覇は、人があるがままの人の姿でいられる世の中をつくる、と言っていた。あるがままの人の姿とは、なにをもって言うのだろう。
これら自然は、人に何も命じず、また何者からも命じられず、ただ己の日々を送っている。
小鳥がさえずりながら、城壁近くではばたいていた。もし秦覇の天軍が来れば、小鳥たちはその羽でさっさと逃げおおせて、また別の場所で、いつもと変わらずに虫をとり巣をつくり、雛を養う日々を送るのだろう。
ふと思った。人はこれと同じことを出来ないのだろうか、と。小鳥でさえしていることを、人が出来ぬ道理はあるまい。
いつの間に、人は、小鳥でさえ出来ることが、出来なくなってしまったのだろう。
「あれは」
という声があがった。見れば、小さな集団がこちらに向かってやってきている。先頭の男が、両手を挙げてなにやら叫んでいる。耳を済ませて聞いてみれば。
「我が名は忠澄。同志を引き連れ周思さまの御加勢に参り申した。また長元なる方はおられませぬや」
と叫んでいた。忠澄率いる徒歩立ちの者たちだ。
長元喜び「おお!」と声を上げて、周鷲に頼んで城門を開けるよう言ってもらい。自らは勢いよく城壁を降りて迎えにいった。
「親分!」
「忠澄!」
と久しぶりの再開に胸弾ませて、ともに城に入っていった。が、手放しで喜ぶことは出来なかった。人数は岡豊山を出たときよりも、少なくなっていた。
「親分。こうして会えたのは嬉しい限りですが、お預かりした子分たちが、ここに来るまでに随分天軍だとかにやられちまいまして。面目ねえ」
と忠澄はひれ伏し詫びるのであった。
「何を言いやがる。逃げずにここまで来ただけでも、てえしたもんだ。やられたやつらの敵討ちは、俺がきっちり取ってやるから、しけた面するんじゃねえ」
と言い、城壁のところどころに立つ牙旗を指差す。
「ここは牙城だぜ! 牙城にゃ泣きっ面はいらねえんだ、わかったか!」
忠澄や子分たちは、これには心に百雷を打たれた思いに駆られ一斉に、
「応!」
と声を張り上げてこたえた。
それに呼応するように、各所で、威勢のいい声があがる。皆必死の思いであるとともに、押し潰されそうな重圧とも戦っていた。
それを跳ね除けるように、声を張り上げ士気を保っていた。
牙城に牙旗立ち。牙旗は人々の声を受け、威風堂々とたたずんでいた。
第十二篇 牙城に牙旗立つ 了
第十三篇 怒涛 に続く