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第十篇 覇道をゆく

その一


 その声聞くものの耳はおろか腹をうつほどに響き、波紋となって宮廷中に広がった。

 近衛兵たちは驚愕以外のことができなかった。

 この宮廷で剣を抜き放ち、まるで捕吏が罪人を呼び出すように皇帝を呼ぶなど。しかもそれをするのが、丞相御曹子の秦覇である。

 空には魔神・竜馬。

 これは夢か、幻か。

「おのれ宮中で剣を抜き放ち畏れ多くも帝を呼びつけるなど、不敬も不敬。いかにうぬが秦覇どのであろうと、その狼藉許してはおかぬ」

 と吼えるのは、さきほど矢を放った若武者であった。甲冑姿も凛々しく、隊長のやめろという声も聞かず、剣を構え秦覇に挑みかかってくる。

「小童などに用はない。が、その心意気天晴れなるかな。褒美に我れ自らそなたを斬り、その血この鳳鳴剣の糧とせん」

 矢を捨て、だっと築山を駆け下るや。鳳鳴剣燦と輝き、秦覇迫る若武者に一太刀浴びせると。ばっ、と血煙が上がり、鉄甲の音を高らかに響かせて、若武者は斃れた。

 燦と輝く剣には赤き血がしたたり。冬の空の月のように瞳を輝かせ、秦覇は若武者のなきがらを見下ろした。

 そのとき、

「秦覇、秦覇であるか」

 という声がする。

 それから、なりませぬという声もする。

 ひとり、華美な礼装をした貴人が姿を見せた。その後ろにも、貴人が控えていた。

 近衛兵たちは、一瞬にして石と化す。ここは跪くべきか、このまま急に備えて構えるべきか。

 これなん、辰帝国五代皇帝、烈帝であらせられ。うしろの貴人は秦覇の父にして、辰帝国の丞相をつとめる秦亮であった。

 帝は秦覇の姿を瞳に映し出し、またその手にある血塗られた剣と、足元で斃れた若い近衛兵を見、大きく目を見開きたいそう驚かれたさまを見せた。

 また後ろに控える秦亮も、なんたることか、と口を開けたまま呆然としている。

 突然姿を消した我が子か、突然竜馬とともに現れたかと思うと、こともあろうに宮廷で殺生を犯すなど。これは天魔の業なのか、とその命が開けた口から飛び出しそうな思いに駆られた。

 だっ、と数名の近衛兵が帝のそばに駆けより、鉄壁の守りをなす。

 だが秦覇、それを嘲笑うかのように口元をゆがめて笑み。血塗られた剣を帝へと突き出し、

「お久しゅうございました」

 と慇懃な言葉遣いながらも、その態度不遜のまま、若い近衛兵のなきがらをまたぎ、一歩前へと歩み寄る。

 空では、竜馬が空も裂けよと咆哮し。天地揺れたかと思うほど、人々の心を揺らした。

「帝よ」

 と秦覇は帝に呼びかけ、また一歩、歩み寄り。

「天下を、秦覇にお譲り遊ばしませ」

 と言った。

 周囲は、天地皆石と化したかのように黙している。空の竜馬の咆哮、都の人民の騒ぐ声すらも、耳に入らず。

 ただ、空の太陽は無慈悲に光を降りそそぐのみ。

 その、秦覇の言葉が信じられなかった。

 この地上に君臨する辰帝国の宮廷に、魔神・竜馬とともに現れ、皇帝に天下を譲れと迫るなど。こんなことは、この世に人の歴史がはじまって以来、はじめてのことであり。まさに青天の霹靂であった。

「覇よ」

 父が呼びかける。

「うぬは、父と、帝がいかにそなたを案じておったか、知らぬのか」

 ある日、秦覇は突然姿を消した。父はもとより、帝もこれにたいそう心を痛められ。失踪は秘され、病に臥したということにして。秘密裏に消息を求めたが、得られらなかった。

 よもや邪教とまじわり、天下を伺っていたなどと、どうして夢にも思おう。

 それと時を同じくして、庸州の太守である周思の子、周鷲も姿を消した。ただ周鷲の場合は、心配はさせまいとして、武者修行の旅に出ると書置きを残していたが、秦覇は書置きすら残さず消息を絶ったのであった。

 ふたりは義兄弟の契りを結び、胸に抱いた大志を語り合っていた。秦覇も、同じように武者修行の旅に出たのかと、父と帝は内心祈るように思っていた。

 だがそれは違っていた。

「周鷲はいかがした。そなたは、周鷲と親しかったのではなかったか」

「否。悲しいかな、あれは所詮地方の一官吏に過ぎぬ小者。それがしの大志を理解しきれず、契りを破り叛きましてございます」

「そ、そなたの大志とな」

 父は愕然と問う。されば子は応える。

「天下」

 と、天を指すように、血塗られた剣を高々と掲げた。空の竜馬も、それに合わせるようにして吼えた。

 魔神叫びの声を上げて、人の心さらに揺れる。

 だが秦覇の心昂ぶる。

 帝は秦覇の言葉を受け、愕然たる思いに駆られながらも、

「ならぬ」

 と言われた。

「そなたやらんとしていること、それは謀反ではないか。その大志、この天下にひろく血を流すものである。辰を治める者として、そのような者を、捨て置くわけにはまいらぬ」

 帝の言葉に秦亮は胸を突かれたが、私情を打ち捨て、

「者ども、討て。秦覇を討て」

 と叫んだ。

 帝は歯を噛みしめ、秦亮に振り向き、力強く頷かれた。近衛兵は得物を携え、秦覇に斬りかかろうとし。秦覇は冷たく笑う。

 そのときであった。

「お待ち下さい」

 と華美な礼装の少女が、帝や秦亮に、近衛兵たちの脇をすり抜け、飛び出し、花のかんばせを涙で濡らしながら秦覇に前に駆け寄ってきた。


その二


 あとに侍女や宮廷女官数名が来て、お戻り下さいと哀願している。

「白蘭、ならぬ。もどれ」

 これに驚かれた帝は、今にも飛び出さんがばかりに少女に呼びかけた。この少女こそ誰であろう、辰皇帝烈帝の愛娘にして、秦覇の許嫁であった白蘭びゃくらん公主であった。

 秦覇は許嫁が飛び出して来ても微動だにせず、冷たい目で見下ろしている。

 よほど慌てたのであろう、服が汚れるのもかまわず、白蘭公主は手と膝を地に着け肩で息をしながらも、揺れる瞳に秦覇を映し出して。

「天より竜馬とともに秦覇さまがお現れになったと聞き、白蘭いてもたってもおられず馳せ参じましてございます」

 と、うやうやしく、未来の夫となる秦覇に告げた。

「公主でございますか。お元気そうでなによりでございます」

 許嫁に対し、秦覇の態度は冷淡であった。これに公主がふかく傷つかれたのは、言うまでもなかった。しかし、傷つく心の痛みを抑え、あくまでも秦覇の許嫁であると、消え入りそうな勇気を奮い起こすのであった。

「秦覇さま、わたくしに対しそのような他人行儀なお振る舞いは不要でございます。どうか、我がつまとして、この白蘭にお言葉をおかけあそばしませ。それが、なによりの白蘭への思いやりでございます。なにがあろうとも、わたくしは、あなたさまのつまでございまする」

 父や、秦亮に近衛兵や侍女たちは、白蘭公主の振る舞いに心を打たれ。宮廷女官や侍女の中には涙を抑えきれず、すすり泣く者すらあった。

 白蘭公主は、秦覇を心から愛していた。病に伏せ姿をあらわさなくなった間、いかに公主が心を痛められて、食も手につかず、それでも天地の神々に無事を祈りつづけたその姿。

 宮廷内で、宮廷女官や侍女たちはこれを涙なくして語れず。公主に幸あらんことをと、ともに祈り続けたのであった。

「聞けば、近衛兵をお斬りになり、父に天下をお譲りになるよう言われたとか。今からでも遅くはありませぬ、わたくしと一緒に、父にお詫びをすればきっとお許しになって下さいます。お心のお優しい秦覇さまですもの、これを悔い改め、国のため、民のために尽くしてくださると、白蘭心より信じておりまする。竜馬とともにお現れになったことも、天がおつかわしになった良き瑞相に違いありませぬと、白蘭は信じておりまする」

 これが一国の姫君かと思われるほど、白蘭公主は地に額をすりつけ汲めども尽きぬ想いとともに秦覇に哀願して、涙を流し秦覇を見つめられた。

 それほどまでに、公主は秦覇を愛しておられたのかと、秦亮に近衛兵、宮廷女官たちは強く胸を打たれ。父、烈帝までもが、目に涙を浮かべ愛娘の愛情を受け秦覇が悔い改めるよう、祈らずにはいられなかった。

 だが、秦覇は無言であった。

 そればかりか、目を見開き、あの、冬の夜空の月のような瞳を輝かせるや。

 鳳鳴剣をもって、白蘭公主の胸を刺し貫いた。

 中庭は、割れんばかりの悲鳴と怒号が響いた。

「秦覇さま、なぜ……」

 秦覇を見つめ。痛みよりも絶望に心砕かれて、公主は斃れ。その涙は地に落ちてゆく。

 帝は血を吐くように叫ばれた。

「斬れ、秦覇を斬れ。狼藉を働いたうえに、我が娘の愛情まで踏みつけにするなど。もう許してはおかぬ」

 近衛兵たちは、帝の心を我が心として、秦覇に立ち向かった。

 しかし秦覇の傲岸はかわらず、公主のなきがらにも目もくれず。

「えい、面倒な」

 と大きく剣をひと振りするや、たちまちのうちに大竜巻が巻き起こり、これに驚いた帝や秦亮、近衛兵たちに宮廷女官らをことごとく飲み込み。

 宮廷の建物までも破壊しながら、触れるものこれことごとく塵芥ちりあくたのごとく吹き飛ばしていった。

 これは龍玉がかつて見せた「昇龍女」を模したものであった。おそるべし秦覇。ただ一度人の技を見て、これを真似られる技量をも持ち合わせしかも元を上回り。これらのことが野望の下地となったのは、想像に難くないことであった。

 宮廷内に飾られていた魔よけの辟邪へきじゃの銅像が残骸とともに宙に飛び、地に落ちて砕け散った。

 すわやと飛び出す近衛兵がないではない。だがそれらは、ただいたずらに犠牲を増やすばかり。

 吹き飛ばされた人や残骸が音を立てて地に落ちては、砕けて。またその上に残骸がかぶさってゆく。

 宮廷は、修羅場となった。

 それまで富と名声をほしいままにしていた貴族たちもが大勢、竜巻に飲み込まれては吹き飛ばされてゆく。

 これを見て秦覇は、端正な顔をゆがめて笑った。その顔には、なんともいえない影がかかっていた。

「飛べ、飛ぶがよい。何もかも」

 辰も中原の覇者として君臨すること長くといえど、宮廷の腐敗は著しく。嫉妬から権力争いが起こり欲から賄賂が横行し。尊きにして清らかなるはずの宮廷は、泥がたまったような、よどんだ空気が満ち溢れていた。

 それは宮中の人々が発する臭気ともいえた。秦覇はそれを忌み嫌った。

 実際あのとき。帝のそばに父以外に、誰かいたのか。誰もいなかった。皆己可愛さに帝を置いて、我先にと逃げ出してしまった。

 いかに日ごろ忠誠を唱えようとも、いざとなれば本性が出るものだ。

 帝や父に、公主がそれに心を痛めなかったわけではなかった。秦覇もそれはわかっていた。

 だが、許せなかった。

 宮廷が、辰そのものが。

 古いのだ。

 古いものは腐る。

 その腐臭に、秦覇は鼻が曲がる思いだった。

 それがすべてだった。

 江湖にくだり、邪教とまじわり魔剣を手に入れたのも。

 腐臭を吹き飛ばすためだった。

「者ども! 何をたじろぐことやある。今こそこの命をもって帝にお応えするときぞ」

 さすが宮中だけあり、秦覇の巻き起こす竜巻にも怖じず、勇気ある者も数多とあった。彼らは近衛兵の誇りと意地と、忠誠心と、帝にお供するために、秦覇に挑みかかるのであった。

「よろしい。帝に続かんとするものは、我に向かってくるがよい」

 公主の血に濡れた鳳鳴剣は、高貴なる乙女の血に喜んでかぎらりと輝き。

 竜巻を幾度も巻き起こしては、人と残骸を宙に巻き上げてゆく。近衛兵たちの剣に甲冑が、太陽に光りにあたり、きらりと光っては音と立てて地に落ちてゆき砕けてゆく。

 空で竜馬がうなりをあげる。

 都の人民たちは恐慌をきたし、都そのものが沸騰した釜のようになって、血が、心がの沸点が一気に騰がり混乱に陥った。

 都には数十万という人間が住んでいる。

 たった一人の秦覇と一頭の竜馬のために、すべてがかき乱されていた。

 宮廷は竜巻によって破壊されてゆき。その無残さ、目を覆うばかり。

 魔神および魔人天より降りて人の世を覆すか。

 いや、そんな悠長なことを考える暇などない。

 人はただ、本能のままに振舞うのみ。

 それから嵐が過ぎたあとのように、あたりはしーんと静まり返った。

 宮廷の周辺はまさに嵐に遭ったかのように破壊され、木材に砕けた石片が散らばり。それらの残骸にまじって、帝や父秦亮らのなきがらがよこたわっているのが見えた。

 ふと、残骸より白百合を思わせる白い手が出ているのが見えた。その手が公主のものであると、秦覇はすぐにわかったが、意に介する様子もなく。降龍のように空より降る竜馬の頭上に飛び乗った。


その三



 空高く、竜馬の頭上より都の人民に秦覇は呼びかけた。「気」をたっぷりに効かせて、声を張り上げれば、怒号千里の彼方まで届きそうなほどに轟いた。

 秦覇唱えて言う。辰は滅び、天下は、この秦覇のものとなった、と。

 都の人民はこの出来事に、まさに天と地がひっくり返ったがごとく、ただただ驚くばかり。なにより、人が魔神に乗って都に降り立ち、宮廷を破壊したのだ。ぷっつりと糸の切れた凧のように押さえの効かなくなった人民らは恐慌を来たし、中には暴動を起こす者まであり。

 都は一変、修羅の巷となろうとしていた。 

 それが、秦覇の呼び掛けによって治まろうとし、宮廷の周辺にはたくさんの人民がつめかけ、事の成り行きを固唾を飲んで見守っていた。

 多くの人々が宮廷跡周辺を埋め尽くして、黒山の人だかりどころの騒ぎではなかった。吸い寄せられるように集まった人々を空から見下ろせば、まさに蟻が地に落としたお菓子に群がるがごとしであった。

 秦覇の目が、光った。

 生き残っていた近衛兵たちが、残骸より飛び出し、竜馬に乗る秦覇を見上げた。

 その姿、秦覇が宣した巍々たる大山のように威風も堂々と微動だにせず。血塗られた剣をかかげるそのさまは、彼らには天より降り立った神のごとく見えたことだろう。

 恐怖を抑えて、人民の一人が、

「帝はいかがされたのか」

 と秦覇に問うた。

 されば秦覇こたえて言う。

「死んだ」

 その一言の後、くうを揺らすようなどよめきが起こった。帝は、死んだという。帝といえば、まるで現人神あらびとがみのように人民から畏敬されていた「覇者」であったのを、死んだ、のひとことで片付けたのだ。

 秦覇の言葉は、人民にとって畏れ多い大きな不敬と感じられただろう。だがそれだけに、竜馬を駆り宮廷で破壊と殺戮をおこなったという事実が重なり、天下の覇者が秦覇が帝に取って代わったのだと心に深く感じ入ったのであった。

 近衛兵も、言葉もない。守るべき者はすでになく、彼らは宙に投げ出されたような立場に置かれ。ただ呆然としている。

 さらに秦覇は告げた。

「我こそ天下の覇者たらんとして、この地上に君臨するものなり」

 どよめきが起こった。

 あまりにも、あっけなさすぎる。

 この地上に君臨していた帝が、この残骸に埋もれてしまったなど、それが今現実に目の前であったとしてもにわかには信じられなかった。

「辰は長く安穏をむさぼり、座して、腐敗した。我はこれを革め(あらため)、新しき世をつくるものなり」

 血に染まった剣がかかげられ、太陽の光を受けてまばゆく光り輝き。眼下の人民を照らした。

「後光じゃ!」

 誰かがひとり叫べば、次から次へと、後光じゃ、という叫びがこだましてゆく。まさに秦覇は神が地上に遣わしたお遣いの者であるかのように。だが秦覇はそうは思っていない。

 魔剣・鳳鳴剣を自在に操る力を秘める己自身が、なんで何者にか仕えようか。

「見よ、人民たちよ!」

 竜馬の咆哮とともに、秦覇の声が轟く。

「今ここに、辰皇室を消し去らん!」

 空歩術をもちい、空を駆けると真っ逆さまに残骸向かって頭から落下してゆく。人民や生き残った近衛兵たちは、頭を砕いて死ぬ、と驚いたが。

 あにはからんや、剣よりほとばしる竜巻地上を打ち付け、まるで埃のように、残骸を宙に巻き上げる。

 その残骸の中に、帝のなきがらがあった。秦覇はそれを目ざとく見つけると、空を蹴って帝のなきがらまで飛び、素早い動きで懐に手を入れると。

 何かの小箱をとりだし、また素早い空歩術の動きで竜馬の頭上まで舞い戻ってゆく。

 秦覇の背中の向こうで、公主のなきがらが落ちてゆく。

 引かれ合うように、先に落ちた父のなきがらの上に落ち、おおいかぶさった。

 さいわいにして、先に落ちていた残骸が緩衝材となって無残な姿とはならなかったものの。

 その上にさらに、残骸が覆いかぶさってゆく。

 これは秦覇の仕業であった。

 せめてもの情け、とでもいおうか。なきがらを人目にさらされぬように、わざわざ残骸が覆い被さるようにしたのであった。

 人民や近衛兵たちは、もうただ呆然とするのみ。

 秦覇は小箱を開けると、中にあった黄金に光るものをかかげた。

 それは皇室に伝わる伝国の玉璽ぎょくじであった。

 まばゆく光る黄金は辟邪が四角の台座にたたずむという風に彫られ、台座の下には「自天受命(天より命を受く)」と彫られていた。

 秦覇はこれをかかげたまま、強く握りしめ強く気を込めれば、拳より煙立ち上り。次に拳を開けば、玉璽はあとかたもなくなっていた。

「我こそ天なり。天こそ我なり。我、天帝なり!」

 秦覇獅子吼すれば、どっ、と地響きにも似たるどよめきが轟く。辰帝国を象徴する伝国の玉璽が消えた。これは、まさに辰が消えたに等しかった。

 それを消したのは、秦覇。

 秦覇は自らを「天帝」と称した。

 つまりは、辰皇室が消えることは、天からの命令であるということか。

「天帝万歳! 万歳! 万々歳!!」

 どこからともなく、そんな声が聞こえた。すると、万歳の声が地響きのように、都に轟いた。生き残った近衛兵たちすら、得物を投げ捨て、地に跪き万歳を唱えた。

 ここまで見せつけられれば、もうかつての忠誠心もなにもあったものではなく。古き世は終わり、新しき世が始ったのだと思わずにはいられなかった。

「聞け、民よ。天の声は我が声、我が声は天の声。我天となりて、世を統べるなり。従う者我とともに栄えん。逆らう者、天の裁きを受けん」

 万歳の声轟く中にあっても、秦覇の声はよく通り、轟いた。人民の心は、秦覇の声に鷲掴みにされた。

 ともあれ。

 ここに、辰帝国および辰皇室は滅び。

 秦覇は天帝となった。


その四


 騒動のあった都は、天帝こと秦覇の支配下に置かれ。

 天望党の面々も都に着き、彼らは秦覇の影の力として働くこととなった。

 旧来の近衛兵は再編をされて秦覇の近衛兵となった。また都の軍隊もそのまま、秦覇のものとされた。無論離れる者もあった。だがそれらは、ことごとく、姿を消していった。

 都でのこと、辰滅ぶのことは、電撃のように各地へと伝わり。

 竜馬を駆り、天下をひっくり返した秦覇の力に新しい魅力を覚えて、わざわざ地方より兵を引き連れてのぼり、進んで忠誠を誓った各州の太守たちや、各地に配属されていた将軍たちも数多とあった。その軍勢、数は百万にのぼるであろうか。

 都の周辺には、入りきれなかった軍隊の陣営がところ狭しと敷き詰められ。熱気はほとばしり、都を取り囲み周囲をぐるぐると渦巻いているようであった。

 また、天帝万歳の大合唱が轟き熱気とともに都周辺にうずまくことも多々あった。

 天帝こと秦覇が次に執り行ったのは、辰の葬儀であった。

 破壊された宮廷は片付けられたが、再建はされず。

 帝や公主らは歴代皇帝や皇族の眠る、都近くの飯山はんざんに葬られ。その麓にも、大きな大理石の墓碑が建てられ。さながら飯山がそのまま墓碑とされたかのよう。

 堂々と都を見下ろすようにそびえる飯山は、初代皇帝が宿敵を破りついに天下を統一した合戦場でもあり。そのことから、山そのものが辰の記念碑の意味を持つようになり。

 辰の世になってから、代々の皇帝や皇族がそこに骨を埋めるのが慣わしとなった、いわば聖地であった。

 それが今は、辰の墓碑となったのである。

 大理石の墓碑には、「辰回到天(辰天に帰す)」と彫られた。 

「世の移り変わるとき、古きものは天に帰す。子が家を継ぐとき、親世を去ると同じく。ゆえに辰の滅び悲劇にあらず。これ、ことわり(理)なり」

 と旧臣の百官並ぶ前で、秦覇自ら弔文を読み上げた。

 それ以外では何をしたかといえば……。 

 正式に天帝となるために改めての即位式もせねば、国号も決めず。政治も捨て置き、大陸は、いわば天帝が出現した以外では空白に置かれた状態のままであった。

 都の異変は、辰滅ぶは、またたく間に各地に伝わっている。野心を秘めた者は、この混乱に乗じ乱を起こすやも知れず。

 中原は、大陸は、群雄割拠の戦国の世に戻ろうとするかもしれないのに。

 だが秦覇は気に留めることもなかった。

 それどころか。

「混沌こそが、人の世の真の姿である。我天帝となる以上に、なにが必要か」

 とさえ言い放った。秦覇は、この世に混沌をもたらすために、天帝となったのか。

 そんな秦覇が次に執り行ったのは、婚姻の儀であった。

 秦覇が慕蓉麗を妻とすることを望んでいたのは、天望党の者たちは周知の事実ではあったが。旧辰の文官武官たちは度肝を抜かれることだった。

 帝位に就く者が、よもや江湖の邪教の娘を娶るなど。前例のない、ありえないことであった。ただでさえありえないことが起きているというのに。

 今まであると思っていたものが、瞬時にして崩れ去り。まるで大地が割れて地の底へと突き落とされているような、またそこへ来て石を放り投げられてぶつけられているような。

 彼らは秦覇に降るより道はなく、やむなくも仕える身にはなった。それはあまりにも唐突で、現実味に欠けて、今でも夢見心地の心境だった。

「我らは夢を見ておるのか。そうじゃ、これは悪い夢じゃ。我らは夢を見ておるのじゃ」

 と、あきらめるしかなく。

 過去の栄耀栄華も夢なら、混沌を望む天帝こと秦覇の世もまた、夢のようなものであった。夢はいつか覚める。とはいうものの、人はその気になれば永遠に覚めない夢を見続けることもできるようであった。

 酒色におぼれ、地の底へと落ちゆく我をさらに堕としてゆくしかない者も多数あり。秦覇はそれを咎めず、堕落するに任せた。その方が、余計な手間が省けるというものだ。

 その荒んだ心は波紋のように広がり、混乱に乗じた人民までもが本能の命ずるまま、好き放題に振る舞うようになり。

 都は一気に犯罪都市へと変貌の一途を辿ってゆく。警察機構も、一切働かない。ゆえに、強盗や殺人、強姦といったあらゆる犯罪が跋扈する。

 やくざ者は、お上公認での犯罪行為を楽しみ。堅気であったはずの人々までが、にわかやくざとなり。また弱き者は虐げられるがまま、踏みつけにされるがまま。それにより、死ぬものが多くあるのは、言うまでもなかった。

 これを古来より伝わる賢聖が見れば、その歎きいかばかりか。だが秦覇は意に介さず。

 そもそも、秦覇は、治世など望んでいないのだから。

「混沌これ真の姿なれば、強きが弱きを食うは、これまたことわりなり」

 という。

 賢聖の伝える慈悲や人の道といった言葉は、虚構に富んだ「まやかし」であると断言をしもした。

 見るがよい、今の都を。

 それがすべてであった。

 ゆえに、いにしえより伝えられる賢聖の言葉は、まやかしとして封殺されることとなった。

 都は無法地帯。いや、法はあるにはある。

「望むままに生きよ」

 それが、天帝こと秦覇のさだめる唯一の法であった。

 さてその一方で、天帝の妻となる慕蓉麗は戸惑いを隠せず、彼女に似合わず、震えながら衣装合わせをしていた。

 秦覇は天帝、ならば慕蓉麗は天の后、天太后となるという。

 宮廷は破壊されたとはいえ、そこはやはり都。

 かつての群臣の屋敷館、また帝の威厳を誇示するための巨大建築物群はいまだ健在であり。破壊された宮廷の跡は、それらの建築物群に取り囲まれてぽつんと小さな空白地帯をつくりあげていた。

 宮廷は、都の象徴であった。象徴があったればこそ巨大建築群もまた、月とともに輝く星々のように輝けたが。その象徴は、今はない。

 都は、月なき夜空のようだった。ではこれから何をもって都の象徴とするのかといえば、それは秦覇そのものであった。

 天帝の存在こそ、今の都の象徴であった。

 己は、その天帝の妻となるのだ。

(私が、后に……)

 まさか、そんなことが現実になろうとは。

 秦覇にすべてをささげられただけでも、十分であるというのに。この、望外のことに彼女の意識はかげろうのように揺らぎ。

 なにもかもが、ぼやけてでしか見えず。

 自分たちの進む先に、何があるのか、見えなかった。


第十篇 覇道をゆく 了

第十一篇 王道の君 に続く

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