第5話 ゲージ20と合理的投資
9日目の朝、指先が冷たかった。
洗面台で水を出す。温水が出るまでの数秒を待てばいい。だが冷たさは水温のせいではなかった。蛇口に触れていない左手も、同じように冷えている。末端の血流が落ちている。循環器の問題ではない。フィジカル91の身体に末梢血管障害は起こらない。
ステータスを確認した。
感動ゲージ: 20。
3日前は25だった。1日あたり約1.7の減少。個人パフォーマンスでの回復は見込めない。表現力4の僕がステージで何をしても、観客の感動は生まれない。鳴海Pが「マネキン」と呼んだあの評価が、数値として僕を追い詰めている。
鏡を見た。篠宮蒼の顔が映っている。整った造形。動かない表情。輪郭がわずかに滲んで見えた気がしたが、目を擦ると消えた。まだ20だ。15を切ったら本格的にまずい。
指先の冷たさ。これが25以下の症状か。
身体を拭いて練習室に向かう途中、寮の廊下で月島晴とすれ違った。
月島晴。15歳。171cm。ボーカル: ポテンシャル85、現在の実効値28。あがり症で審査時に沈黙した結果、F判定。だが声質は50人中トップ3に入る。高周波成分の倍音構成が異常に豊かだ。
月島は俯いて歩いていた。前髪が目にかかっている。肩が内側に巻いている。自分を守る姿勢。F判定から9日経っても、この子は自分の声に自信を持てていない。
声質がいい。素材としては最上級だ。問題は素材の加工方法を誰も教えていないこと。矢部トレーナーは週1の全体レッスンしかやらない。個別指導はゼロ。Aクラスには自力で伸びる地力がある。Fクラスには、ない。
ないなら、作るしかない。
月島の喉を最適化すれば、Fチーム全体の歌唱力が底上げされる。チームの総合得点が上がれば脱落リスクが下がる。脱落リスクが下がれば、コーチングによるゲージ回復の機会が維持できる。
合理的な投資だ。
†
その夜、消灯後に計画を立てた。
二段ベッドの上段。ノートを開く。ペンライトの光で書く。下段の宮本は寝息を立てている。
月島晴のボイスメニュー。
1日目: 腹式呼吸の確立。横隔膜の位置認識。吸気4秒、保持7秒、呼気8秒を基本パターンとする。
2日目: 声帯閉鎖の調整。月島の声質は開いた声帯から倍音が自然に生成されるタイプ。閉鎖を強めすぎると個性が死ぬ。70%閉鎖を目標値に設定。
3日目: ピッチコントロール。基準音を聴覚フィードバックで安定させる。録音再生による客観視を導入。
4日目: ロングトーン。現在の持続時間を測定し、週単位の目標を設定。
書きながら気づいた。ペンが走っている。文字が普段より丁寧だ。カリグラフィーみたいに一画一画を書いている。研究者時代、学生向けの指導マニュアルを作ったことがある。あのときはテキストエディタで打った。手書きにする理由はなかった。
今、手書きで丁寧に書いている。月島が読みやすいように、漢字にはふりがなまで振っている。15歳に横隔膜の漢字は難しいかもしれないと思ったからだ。
効率を考えるなら印刷のほうが速い。だが手書きのほうが月島の理解度が上がるという仮説がある。手書きの温度が受け手の心理的障壁を下げる。根拠はない。ただの直感だ。
直感で動くのは非効率だ。非効率なのに、ペンが止まらない。
4ページ。メニューが4ページになった。各ページにイラストまで描いた。喉の断面図。横隔膜の位置。呼吸のタイミングを示す波形。研究者時代の論文より図が多い。
時計を見た。午前1時。
寝なければ明日のパフォーマンスに影響する。睡眠負債はフィジカルの低下に直結する。合理的に考えれば、今すぐ寝るべきだ。
だがメニューの5日目以降がまだ書けていない。月島の喉のポテンシャルを最大化するには、少なくとも2週間分の段階的プログラムが必要だ。
ノートを閉じた。明日の朝、続きを書く。
†
10日目。朝5時。
練習室Fの前に立っていた。まだ誰も来ていない。蛍光灯のスイッチを入れる。白い光が地下の部屋を照らす。鏡に自分が映る。寝不足で目の下に隈ができている。フィジカル91の身体でも、4時間睡眠は顔に出る。
月島のメニューの続きを書いた。5日目から10日目。応用編。ビブラート制御。ブレスコントロールの高負荷バージョン。声域の拡張プロトコル。
6時に渡辺が来た。170cm。16歳。全ステータスが平凡。だが練習量は全体トップ。毎朝一番に練習室に来る。渡辺は僕を見て少し驚いた顔をしたが、何も言わずに自分のストレッチを始めた。
6時半。月島が来た。眠そうな目をしている。
「月島、これ」
ノートの4ページを破いて渡した。手書きのボイスメニュー。
月島が受け取った。ページをめくる。目が少しずつ開いていく。
「これ、全部俺のために?」
「Fチームのボーカルラインを強化するのが最優先だ。月島の声質は素材として最上級。加工すればチーム全体の得点が上がる。合理的な投資」
「素材って」
「声帯の構造と倍音特性の話。月島の喉は50人の中でもトップクラスの周波数分布を持っている。使い方を覚えれば、このチームの武器になる」
月島が黙った。メニューの1ページ目を読んでいる。横隔膜のイラストに目が止まった。
「これ、絵まで描いてある」
「読みやすいほうがいいだろ。理解速度が上がれば習得も速い」
月島が顔を上げた。前髪の隙間から目が見えた。戸惑い。でも拒絶ではない。
「やってみる。でも、俺、人前で歌うと声が出なくなるから」
「人前じゃない。僕と2人だ。聴衆はゼロ。緊張する要素がない」
月島のステータスを見た。ボーカル28。あがり症による出力制限。ポテンシャル85との差が57もある。この差を埋められたら、Fチームの歌唱力は劇的に変わる。
腹式呼吸から始めた。月島の胸郭を観察する。肩が上がっている。典型的な胸式呼吸。
「お腹に手を当てて。吸ったときにお腹が膨らむ感覚を掴んで」
月島が試した。最初は肩が動く。3回目で腹部が膨らみ始めた。5回目で安定した。習得が速い。身体の感覚が鋭いタイプだ。
「いい。そのまま声を出して。母音の『あ』だけ」
月島が声を出した。
練習室の空気が変わった。
小さな声。震えている。でも、倍音が聞こえた。声の奥に、もう一つの音が重なっている。楽器でいえば、胴鳴りのような共鳴。声質のポテンシャルが、たった一音で証明された。
「今の声、録音した。聴いてみて」
スマホを再生した。月島が自分の声を聴いている。目が見開かれた。
「俺の声、こんな音してたの」
「骨伝導で聴く自分の声と、外から聴く声は違う。これが月島の本来の声だ」
月島の目が潤んだ。泣いてはいない。でも何かが動いた。
ステータスを確認した。月島のボーカル: 28→29。たった1。だが動いた。停滞していた数値が動いた。
感動ゲージ: 20→19。減少は続いている。だがコーチングで+1の回復があったはずだ。減少速度を差し引いて19。コーチングがなければ18まで落ちていたかもしれない。
延命だ。延命にすぎない。だがゼロよりましだ。
†
11日目。朝5時。
また練習室Fにいた。月島のメニュー2日目。声帯閉鎖の調整。
12日目。朝5時。3日目。ピッチコントロール。
毎朝5時に起きて、月島が来る6時半までの1時間半を自分の準備に使い、6時半から8時までの1時間半を月島のトレーニングに充てた。8時から全体練習が始まるまでの30分で、自販機でツナマヨのおにぎりを買い、片手で頬張りながら藤堂にアレンジの相談をし、田中の声量コントロールの進捗を確認し、渡辺の練習メニューにアドバイスを加えた。宮本に「毎回ツナマヨだな」と言われた。カロリー効率がいいと答えた。本当は他の味を選ぶのが面倒なだけだった。
藤堂圭吾。17歳。174cm。作曲90。Fクラスの中で唯一「裏方の才能」が突出している。課題曲のアレンジ案を持ってきた。Fチームの弱点を補うフォーメーション重視の構成。藤堂の冷静な分析力は、僕のコーチングを補完する位置にある。
「篠宮くん、このアレンジだと月島くんのソロパートが8小節入る。月島くんの声が安定すれば効果的だと思うんだけど」
「月島の声は3日で変わり始めてる。8小節なら十分持つ。採用しよう」
藤堂が小さく笑った。整った顔に穏やかな目。
「篠宮くんって、数字で判断するの早いよね」
「データがあるなら迷う必要がない」
「そういうとこ、ちょっと怖いけど、頼もしい」
感動ゲージ: 19。変動なし。藤堂との会話ではゲージが動かなかった。コーチングによる回復は「教えた相手が成長した瞬間」に限定される可能性がある。仮説として記録。
†
12日目の夜。消灯後。
ノートに書いた。
月島の進捗: ボーカル28→31。3日間で+3。呼吸法の改善と声帯制御の基礎が身についた結果。声質のポテンシャルを考慮すると、2週間後には40台に到達する可能性がある。
田中の進捗: ボーカル安定度向上。声量コントロールに改善傾向。
渡辺の進捗: 練習効率が若干向上。メニューの最適化により同じ時間でより多くの項目をカバーできるようになった。
池田の進捗: ハーモニー適性の高さを確認。グループ練習時に池田が入ると全体の音が変わる。数値化はまだできていないが、耳でわかる変化。
Fチーム全体の課題: 個人の改善は進んでいるが、チームとしての一体感がない。揃えの精度が低い。フォーメーション練習が不足している。
自分の課題: 表現力4。変動なし。
感動ゲージ: 19。朝の20から1減。コーチングによる回復+1と自然減少-2の差し引き。このペースでは2週間後にゲージが5を切る。
個人パフォーマンスでの回復は不可能。コーチングでは延命が精一杯。第3の回復手段を見つけなければ、僕は消える。
だが今夜考えるべきは、明日の月島のメニュー4日目だ。ロングトーン。月島の声帯は長時間の発声に耐えるだけの筋力がまだ足りない。声帯周囲の筋群を段階的に強化するプログラムを組む必要がある。
ペンを持った。書き始めた。また丁寧な字で。ふりがなを振りながら。
午前1時。またメニューが4ページになっていた。
効率が悪い。わかっている。だがこのメニューで月島が1音でも長く声を出せるようになれば、Fチームの武器が1つ増える。F全体の得点が最大化される。
僕がやっているのは、F総得点の最大化だ。それ以上でも以下でもない。
目を閉じた。指先がまだ冷たい。
†
宮本大輝はその夜、眠れなかった。
3日前からずっと気づいていた。篠宮が朝5時に起きていること。上段のベッドのきしみで目が覚める。篠宮は音を立てないように降りるが、二段ベッドの構造上、完全な無音は不可能だ。
最初は自主練かと思った。でも違った。練習室Fの前を通りかかったとき、篠宮と月島が2人でボイストレーニングをしているのが見えた。篠宮が月島の呼吸を見ながら、1つ1つ丁寧に教えている。手書きのメニューが壁に貼ってあった。あのメニュー、字がめちゃくちゃ丁寧だった。ふりがなまで振ってあった。
効率って言いながら、一番早く起きてるのはあいつなんだよな。
合理的投資。F総得点の最大化。篠宮はそう言うだろう。数字とデータで全部説明するだろう。
でも、手書きのメニューにふりがなを振る人間のどこが合理的なんだよ。
宮本は天井を見た。篠宮の寝息が聞こえる。さっきまで起きてたくせに、もう寝てる。寝落ちだ。メニューを書きながら寝落ちしたんだろう。ペンが枕元に転がっている。
こいつは自分がやってることの意味を、たぶんわかってない。
宮本は寝返りを打った。目を閉じた。
明日も篠宮は5時に起きる。たぶん。
今後も投稿しますが、続きは先に https://aiteller.jp/works/work-012/6 におきます!




