第3話 Fクラス10人(前半)
F寮は8階建てビルの地下1階にあった。
他のクラスは上層階だ。Aが8階。Bが7階。順に下がって、Eが4階。Fだけが地下。エレベーターを降りて、配管が剥き出しの廊下を歩く。蛍光灯が1本切れている。足元にガムテープで補修した跡がある。壁が薄い。隣の部屋の会話が聞こえる。
部屋は2つ。各5人。僕は1号室。二段ベッドが2台と折り畳みベッドが1台。6畳半に5人分の荷物が詰め込まれている。窓がない。換気扇の音が低く唸っている。天井が低い。立つと頭上に配管が見える。コンクリートの壁は結露で湿っていて、指で触れると冷たい水滴がついた。上の階から練習の振動が伝わってくる。低い重低音。Aクラスの音響設備から漏れた音かもしれない。
「地下かよ」
声を上げたのは宮本大輝だった。
【宮本大輝 17歳】
カリスマ: 72
175cm。中肉。丸顔にえくぼ。目尻が自然に下がっていて、デフォルトの表情が笑顔に見える。大頬骨筋の動きに作為がない。カリスマ72は、この部屋で最も高い数値だ。
「Fだから地下なんだろ。わかりやすいな」
宮本は苦笑しながらリュックを上段のベッドに放り投げた。
「まあいいけど。俺たちは這い上がるしかないんだし」
苦笑の中に、捨てきれていない何かがあった。悔しさとも期待ともつかない温度。リュックが上段のベッドに落ちて、パイプが鳴る。宮本はその音にすら反応して「うるさ」と笑った。カリスマ72の人間は、こういう場面で周囲の空気を軽くする。器用貧乏と評価されたらしいが、この空気の作り方は器用さとは別の資質だ。
「僕、ここでいいですか」
小さな声。下段のベッドの端に座っている少年。
171cm。15歳。最年少。華奢な体型。前髪が目にかかっている。肩が内側に入っていて、背中が丸い。典型的な防御姿勢。シーツを敷く指先が白くなるほど布を握っている。月島晴。極度のあがり症。だが喉頭の位置と首周りの筋肉の発達が気になった。声帯自体のポテンシャルは高い。審査で声がほとんど出なかったから数値は低いが、問題は心理的なブロックだ。
「好きなとこ使っていいよ」
宮本が月島に声をかけた。月島は小さく頷いて、シーツを敷き始めた。手が震えている。
†
隣の2号室にも挨拶に行った。5人。僕が分析対象として注目したのは2人。
七瀬奏。176cm。僕とほぼ同じ身長。痩せ型。顎のラインが鋭い。目が大きく、虹彩の色がやや薄い。元演劇部。声帯結節の既往がある。大声が出ない。
七瀬が2号室のメンバーに挨拶をしていた。声量が小さい。だが柊が一瞬手を止めてそっちを向いた。声ではなく、目で動かしている。眼輪筋と前頭筋の微細な動きが、声量の代わりに情報を発信している。無音でも感情が伝わる身体。表現力71。Fクラスでは最高値だが、声が出ないという理由だけでここにいる。
七瀬は僕を見た。視線が合った。2秒。僕は無意識に首を傾げていた。分析対象を観察するときの癖だ。角度にして15度ほど。彼は何も言わずに目を逸らした。
もう1人。
柊真白。172cm。16歳。日焼けした肌。短い髪。身体が引き締まっている。筋肉の付き方が独特だ。大腿四頭筋よりハムストリングが発達している。股関節の可動域が異常に広い。柔軟性とバネが共存する身体。独学ダンサーで基礎がゼロだと聞いた。フォームは滅茶苦茶。だが身体のポテンシャルが高い。正しいフォームに乗せたら化ける素材だ。
柊は部屋の隅で黙々とストレッチをしていた。開脚が180度を超えている。関節の構造的に稀有な柔軟性だ。
「お前、篠宮だっけ。マネキンの」
柊が顔を上げずに言った。
「そう呼ばれた」
「ダンスは上手いんだろ。なんでFなの」
「表現力がない」
「ふーん」
それだけ言って、柊はストレッチに戻った。興味がなさそうだった。
†
Day 5。合宿生活が始まって3日目。
F寮の空気には独特の温度があった。「どうせF」という諦めと、「でもまだ終わってない」という期待が、薄い壁の向こうで交互に揺れている。
朝の共用スペース。10人が顔を合わせる。テーブルにコンビニのパンとおにぎりと紙パックの牛乳。ビニール包装を破る音と、紙パックのストローを刺す音が部屋に響く。Aクラスには専用のケータリングがあると聞いた。温かい食事と栄養管理されたメニュー。Fにはない。
おにぎりの袋を開けた。ツナマヨ。毎回同じ味を選んでいる。病院で最初に手が伸びた味。カロリー効率が良い。他の味を試す必要がない。合理的な選択だ。
「篠宮くん、またツナマヨ? 昨日も一昨日もツナマヨだったよね」
宮本が笑っている。
「カロリー効率が最も高い」
「いや、それ鮭にも言えるだろ」
言えない。ツナマヨと鮭では脂質の組成が違う。だがその説明をすると長くなるので黙った。パンの袋の底にカロリー表示が見えた。452kcal。この身体のフィジカル91を維持するには足りない数値だ。
宮本が場を回す。誰とでも話せる。えくぼを見せて、軽口を叩いて、場の温度を1度上げる。月島は端に座って黙っている。七瀬は壁にもたれて周囲を観察している。柊は食べ終わるとすぐに部屋に戻ってストレッチを始める。
藤堂圭吾が僕の隣に座った。
藤堂圭吾。174cm。17歳。穏やかな顔。丸い眼鏡。左手の指先にタコがある。弦楽器を長年弾いてきた手。パフォーマンスが地味で「裏方向き」と言われてFに落とされた。だが音楽の理解が深い。作曲能力90。この数値はステータスウィンドウには直接表示されないが、特殊スキルとして記録されていた。
「篠宮くん、朝からノート書いてるね」
「メモを取る癖がある」
「研究者みたいだね」
心臓が一瞬跳ねた。的確すぎる比喩だ。だが藤堂は深い意味で言ったわけではない。笑って紙パックの牛乳を飲んでいる。
「今日の全体レッスン、緊張する?」
「しない。緊張は心拍の上昇を伴うけど、今の僕にはその反応が薄い」
藤堂が不思議そうな顔をした。
「変わった言い方するね、篠宮くん」
言い過ぎた。16歳の言葉遣いではなかった。気をつけなければ。藤堂は怪訝な顔をしていたが、それ以上追及しなかった。牛乳を飲み終えて、紙パックを丁寧に折り畳んでいる。几帳面な手つき。
藤堂のリュックの中が見えた。五線譜ノートの角が飛び出している。表紙の端が擦り切れている。何年も使っている。
「それ、作曲ノート?」
藤堂の手が一瞬止まった。リュックの口を閉じる動きがわずかに速くなった。
「うん。まあ、趣味みたいなもの」
趣味、という言葉の温度が低かった。審査で「裏方向き」と言われた人間が、自分の作曲を趣味と呼ぶ。穏やかな顔の下に、何かを飲み込んだ痕跡がある。だが藤堂はすぐに笑顔に戻った。丁寧に折り畳まれた紙パック。整った五線譜ノート。この男は、感情の始末も几帳面だ。
†
夜。消灯後。
僕は上段のベッドで天井を見ていた。配管の影が蛍光灯の残光で天井に線を描いている。感動ゲージ: 25。毎日1ずつ減っている。回復の兆候がない。5日で5減った。このペースなら25日後に消える。25日。600時間。36,000分。数字に置き換えれば冷静でいられる。だが指先に触れるシーツの感触が、妙に鮮明だった。この感覚も、ゼロになれば消える。
下段の宮本は5分で眠った。枕に顔を埋めて、すぐに規則的な呼吸に切り替わる。器用だ。眠ることすら器用にこなす。向かいの上段の月島は毛布を頭まで被っている。その下から、微かに寝息が聞こえる。時折、寝言のように唇が動いている。歌っているのかもしれない。声にならない歌。ボーカルのポテンシャル85は、眠っているときにだけ自由になるのだろうか。
ベッドの端に手を伸ばした。マットレスの下に何かが挟まっている。硬い。引き出した。
ノート。大学ノート。表紙に「篠宮蒼」と丸い字で書いてある。星のシールが貼ってある。
開いた。
歌詞の断片だった。途中で消された行。書き直された行。インクの色が何種類もある。日付はない。時系列がわからない。
「朝が来るたび思い出す あの日の光」
「届かない声が いつか届く場所」
走り書き。ページの端に1語。
「武道館」
丸で囲んであった。何度もなぞったのか、インクが濃い。
武道館。日ノ本武道館。8,000人収容。アイドルにとっての聖地。この身体の前の持ち主が、そこに立つことを夢見ていた。
ノートを閉じた。
今の僕には関係ないノイズだ。感動ゲージの回復に直結しない情報は、優先度が低い。
そう判断して、ノートをマットレスの下に戻した。丁寧に、元あった位置に。ページが折れないように向きを揃えて。合理的な理由は特にない。
ただ、指先がほんの少しだけ、冷たかった。ゲージ25。身体症状が出始めている。右手の指先だけ、体温が低い。爪の色がわずかに白い。末端の血流が落ちている。スポーツ科学者としての知識が、自分の身体の異変を正確に分析する。だがこの症状の原因は、低体温でも血管収縮でもない。消滅の前兆だ。科学では説明できない。
†
——その夜。2号室。
七瀬奏は暗闇の中で目を開けていた。
今日の全体レッスンで、篠宮蒼の動きを見た。正確だった。無駄がなかった。鳴海Pが「マネキン」と呼んだのも頷ける。表情が一切動かない。まるで身体だけが踊っているような。
だが気になることがあった。
あの新入り、目が死んでいるのに、こっちを測るみたいに見る。
人の動きを観察する視線。自分も演劇で他人の身体を観察する癖があるからわかる。篠宮の目は、ただ見ているのではない。分析している。何かを計算している。16歳の目ではなかった。
七瀬は寝返りを打って、壁に向かった。考えすぎだ。Fクラスには変わったやつが多い。それだけのことだ。
続きは明日7:00に投稿します




