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水際で待っている  作者: 佐井 識
第1章 紫野
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第3話 完璧な裏切り

 私は言葉を失った。沈黙を違う意味にとったらしい兄の母は、ため息をついて弁解を始めた。

「わかっているのよ。四十を過ぎた息子の結婚に口出しするなんて、子離れできていない母親だって。でもやっぱり気がかりなの。本人に何度言ってものらりくらりしているから、私も諦めかけていたけど、急に女性と同居するなんて、もう最後のチャンスじゃない。それで--」

「あの、誤解なさっていると思います」

 ようやく私は口を開いた。

「私と隆之介さんは、思っていらっしゃるような関係ではないです。ルームシェアというか、孤独死しないための仲間というか……」

 気持ちを逆なでしないように気を遣いながら、言葉を選ぶ。

「あくまで義理の兄と妹です」

 そう告げても、彼女は顔色を変えない。

「隆之介も、そんなふうに報告してきたわ。でもあなたたち、前とは事情が違うわけでしょう。当時はあなた、子どもだったけれど。また一緒に暮らすってことは、少なくとも人間としては好意があるってことよね?」

「それは、もちろんです。尊敬していますし、信頼できる人だと」

「そうよね。正直なところ、隆之介って性格も見た目も悪くないほうじゃない? 親の贔屓目かしら。紫野さんから見てどう思う?」

「性格も見た目も、悪くないと、思います」

 私はいったい何を言わされているのか。

 記憶の中では、どちらかというと兄の父のほうがよく話す人で、母のほうは話さない人、というイメージがあった。場末のスナックで働いていた女が連れてきた妹だから、数少ない挨拶の場でも、できるだけ関わらないようにしていたのだろう。彼女の立場自体は私も理解していた。なので、こんなに喋る人だったのかと面食らう。

「どうして結婚できないのかしら。今年43歳よ、ということは来年44歳でしょう。同じぞろ目でも33ならいいけど44はおじさんよ。私たちも末っ子だから甘やかしたというか、のんびり屋に育てすぎたわね。綸太郎のところなんて上の子はもう社会人だっていうのに。隆之介だけ時間が止まってるみたい」

 ハッとした。

 兄の時間が止まっているとしたら、その原因は姉と私にあるはずだからだ。23歳から30歳まで、彼は失踪した婚約者を待ち続けながら、その妹の世話をしていた。ほかの人と新たに恋する道もあったのに、姉に貞節を尽くし続けた。姉以外を選ぶことは、私の居場所がなくなることを意味していた。おそらく彼は、注意深くそれを意識して生きていた。

 確かに兄は戸籍上では未婚だ。でも、亡霊と結婚していたようなものだ。

「どうかしら、結婚相手として」

 もちろん私は断った。

「隆之介さんは素晴らしい男性ですが、私は結婚願望がないので。向こうもまさか、私なんて範疇にないと思います」

「じゃあ、このまま単なる同居人として暮らすの? 老後まで?」

「期間は正直わかりません」

 片方が望んでも、片方の気が変われば終わってしまう生活だ。ふいに明日解散することだってあり得る。きっと、いつかそんな日は来る。

「もちろん、本人が幸せならそれでいいの。ただねえ、機会があるなら所帯を持つってことを逃してほしくないのよ。信頼できる伴侶がいるのは、特に人生後半からは代えがたいことよ。古い人間の考え方かもしれないけれど」

 彼女は改めてため息をついた。

「遼子さんのことがなければーー」

 姉の名を口にして、彼女はしまったという顔をした。そんな表情をすると兄によく似ている。

「ごめんなさいね、お姉さんの話をして」

 息子の人生に傷をつけ、今なお生きているか死んでいるかもわからない三崎遼子は、香田家の中で腫物扱いなのだろう。まさに“名前を言ってはいけないあの人”のように。

 私は気になっていた疑問をぶつけた。

「どうして、私でいいと思われたんですか?」

「え?」

「姉のこともあって、香田家の皆さんには、歓迎されていないと思っていたので……」

 彼女は表情と姿勢を正すと、「確かに最初は抵抗がありましたよ」と告白した。

「いくら婚約者の妹だからって、15歳の女の子をひとりで引き取るなんて。いつまでもつのやらと思っていたし、変な噂が立たないか心配もしていました。子どもと子どもが暮らすようなものじゃない。でも隆之介はやり遂げた。あなたが巣立ったあとも、隆之介がときどきあなたの話をするの。そのときいつも誇らしそうで」

 思いもよらない言葉に、私はただただ驚く。

「紫野さんは紫野さんで大変だったでしょうけど、大学まできちんと卒業して、大きな会社にお勤めされている。奨学金も返済しているんでしょう? 生い立ちがどうあれ、あなた自身が成し遂げてきたことだわ。立派な大人の女性になられたと思っていますよ、主人も私も」

 麦茶ごちそうさま、おいとまするわという彼女に、玄関先で頭を下げた。

「わざわざ来てくださったのに、ご期待に沿えず申し訳ありません」

「あなたにだって都合はあるわよね。まあとにかく、これからも隆之介をよろしくお願いします」

 黒い日傘の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるのを、私はぼんやりと見送った。


 麦茶のグラスを片づけてから、しばらくソファでスマホを眺めていた。ネットニュースやSNSを適当にスクロールしたあと、立ち上がって台所へ行く。米2合を研ぎ、片手鍋で浸水させる。ひとり暮らしの途中から、かさばる炊飯器を手放して鍋で炊飯するようになり、その習慣が続いている。

 次に野菜と乾物をカウンターに並べた。きゅうり、ニンジン、椎茸、こんにゃく、インゲン、ゴーヤ、切り干し大根、大豆の水煮、塩昆布。まず切り干し大根を水で戻している間に、ニンジン、椎茸、こんにゃくをダイス状に切って大豆と一緒に出汁で煮る。もうひとつの鍋に湯を沸かし、先端を切ったインゲンと、薄切りにしたゴーヤをさっとゆでる。インゲンはごま和えに、ゴーヤは梅おかか和えに。切り干し大根の水分をしぼり、塩昆布とともにマヨネーズ、マスタードと混ぜる。きゅうりに蛇腹に切り込みを入れ、しょうゆ、砂糖、酢、ごま油、唐辛子の調味液に沈めて中華風の漬物にする。

 週末にまとめて副菜のつくりおきをするのも、ひとり暮らし時代からの習慣だ。仕事で疲れて帰ってきても、これらがあれば食生活が偏らずに済む。今は兄の分も意識して、多めの量をつくっている。兄は肉と野菜を炒める程度の自炊はするが、副菜までは手が回らないようで、ミニトマトやもずく酢など調理不要なものを食べていたらしい。それだけに副菜づくりは喜ばれ、毎回大袈裟なくらい感激しながら食べてくれる。

 16時半だった。やることはすべてやってしまったが、夕飯にはまだ少し早い。

 私は陽のあるうちから入浴することにした。普段はシャワーが多いが、今日はバスタブをスポンジで磨き洗い流して、たっぷりと湯を張る。誰かにもらったきり使いそびれていた入浴剤を入れると、乳白色の花が増殖していくように湯面が濁った。

 服を脱ぎ、湯船につかる。体温が上がり、風呂場に湯気が充満する。細長い吐息が漏れた。

 限界の合図だった。先ほどの会話を直視せずにい続けることは、これ以上はもう無理だった。

 私は手のひらで顔を覆い、うつむく。思考が濁流のように体の中で暴れ始める。

 兄の母は、なんてことを言ってくれたのか。いや、彼女は悪くない。彼女は彼女の正義と論理で行動したまでだ。中年の男女がふたりきり、ひとつ屋根の下に住む。色眼鏡で見るなというほうが無理がある。そんなことはわかっている。

 だけど、彼と私は、兄と妹なのだ。出会うはずのなかった私たちを引き合わせ、20年も結びつけているのは、血も戸籍もつながらなくても、私たちはきょうだいであるという意志だけだった。それは一種、共犯関係にも似ていた。たとえ世間に理解されなくても、私と兄だけは、こっそり目配せしてわかり合える。

 逆に言えば、その意志に少しでも不純なものが混じれば、あっという間に崩れ得るだろう。

「勘弁してよ」

 湿ったバスルームに、独り言が滲んだ。

 15歳と23歳ならばありえなかった。でも35歳と43歳なら許されるというのか。そんな恐ろしいことは、1mmも考えたくなかった。私が兄を、兄以外の存在として見つめてもいいなんてことは。

 だってそれは兄と、そして姉への、完璧な裏切りじゃないか。


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