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水際で待っている  作者: 佐井 識
第1章 紫野
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第2話 突然の訪問者

 39℃台の熱が2日間続き、熱と痛みに苦悶する時間が流れた。そのあいまに、断続的な短い眠り。少しはなにか食べなくてはと、なんとか起き上がって枕もとのビニール袋を漁る。中には兄が買ってきてくれたペットボトルやおにぎり、ヨーグルトなどが入っていた。グレープフルーツ味のゼリー飲料の封を切り、吸い込む力がないので、袋部分を押しながら口内に流し込む。酸っぱさを感じて安心した。今のところ味覚障害は起きていなさそうだ。

 体は丈夫なほうだと思っていた。特に学生の頃は、兄に弱みを見せたくなかったから、絶対に風邪を引かなかった。それなのに、こんな最悪な形で世話になってしまうなんて。

 食事すると少しだけ元気が出て、トイレに行くために立ち上がった。部屋を出ると、新しいビニール袋が置かれていた。中には、額に貼る熱冷ましシート、汗拭きシート、はちみつのど飴、そして「冷凍庫にハーゲンダッツあります」と書かれたメモ。

 実家かよ、と思った。あまりにも実家すぎる。そう、実家だった。私は実家に帰ってきたのだ。

 その晩、寝ているあいだにものすごい汗をかいた。同時に憑き物が落ちる感覚がして、明け方に目が覚めたら熱と大半の痛みが去っていた。

 次に起きたとき、1階に行くと兄は不在だった。職場に出勤したのだろう。冷凍庫を開けると、ハーゲンダッツのバニラ、グリーンティー、キャラメルナッツクッキーが入っていた。キャラメルナッツクッキーは期間限定味らしい。冷たくておいしくて、気がつくと完食していた。

 こうして1週間弱で私は全快したが、入れ替わりに今度は兄がコロナウイルスに感染した。

 兄は体温計を手に「だめだったか……」としょげていたが、私は「まあ、やっぱりそうなるよね」とつぶやいた。

「隔離期間が終わったから、紫野ちゃんは福島に帰りなよ」

「そしたら、誰がお兄さんの面倒を見るんですか」

「いないけど、ひとりでなんとか」

「私がそう言ったとき、反対したのはあなたでしょ」

 兄はしまったという顔をしたが、なおも食い下がる。

「でも、紫野ちゃんは仕事も溜まっているだろうし」

「リモートでやれるよう調整します。幸い、仕事道具一式持ってきているので」

 病床にいるときから想定していた展開だったので、私の腹は決まっていた。より正確に言えば、もしこうなったらちょっと面白いかもしれない、私にはそう思っていた節があった。感染させてしまった兄には申し訳ないけれど。

 元気づけるように、私はあえて軽く言った。

「諦めてください。私たち一蓮托生ですよ」


 兄は私ほどの激しい症状は出なかったが、微熱と咳が長引いた。私は間に合わせの調理道具をAmazonで買いそろえ、毎日喉と胃にやさしそうな料理をつくった。洗濯機が家にないので、早朝ほかの人と会わなさそうな時間帯を狙って、洗濯物をコインランドリーに持っていった。衣類が絡み合いながら回転するのを見ながら、その日やるべき仕事や献立について考える。高熱で寝込んだことで体力自体は消耗していたが、コロナウイルスから回復した今、不思議と脱皮したかのような充足感に満ちていた。

 晴れて兄の体調も快方に向かい、隔離期間が明けることになった。最終日の夜、快癒祝いにデリバリーした寿司桶を囲んで、ビールで乾杯した。私も兄も久々のアルコールだった。

「いや~、コロナコロナって騒いでいるけど、まさか自分たちがかかるとは思わなかったね。しんどかったけど、免疫がついてくれるならいいかな」

「巻き込んでしまって、本当にご迷惑おかけしました」

 改めて頭を下げると、兄はかぶりを振った。

「そんなことより、頼ってくれて嬉しかった」

 聞いていて少し照れてしまうような言葉も、嫌味なく口にする。香田製薬という大企業の一族に生まれた兄は、私と違って本当に育ちがいい。

「それに、僕はごはんをつくるとかは全然やれなかったから。結局、後半は紫野ちゃんにたくさん家事をしてもらって、料理本当においしかったし、むしろ僕は助かったというか」彼は微笑んで「懐かしいね。あの頃を思い出したよ」

 15歳と23歳。姉という存在を失って見切り発車で始めた二人暮らし。最初は距離を伺い合いながら、時にはひと悶着ありながら、少しずつ暮らしの形を整えていった。それはつまり、大事な人をなくした私たちが、少しずつ呼吸を楽にしていく過程でもあった。期間限定の関係と割り切っていたつもりだったけど、今振り返れば、不器用で精一杯だった日々。

 そんな幼い自分を思い出すのがこそばゆくて、話題を変える。

「私、ひとり暮らしが長くなって、もう誰かと一緒になんて住めないと思っていたけど。でもやってみたら、案外平気だったかも」

 嘘偽りない感想だった。突発的だったにもかかわらず、今回の同居はスムーズだった。ひとつ屋根の下で看病するといっても、健康な人間は日中普通に仕事をして、病気の人間は隔離されたスペースにいて己の力で回復せざるを得ないという状況が、余計にそう感じさせたのかもしれない。

「僕も思った。なんというか、お互い大人になったよねえ」

 もうすぐ40歳を迎える兄が言った。出会った頃は赤ちゃんみたいな男性だと思っていたのに、そんな齢になるなんて本当に信じられない。

「お兄さんはさ」なるべく自然に聞こえるように切り出した。「同棲する予定とかないの」

「ないねえ。もうそういうのは、ないんじゃないかな」

「まだ付き合えるでしょ、お兄さんなら」

「してなさすぎて、恋愛の仕方も忘れちゃったよ」

 兄はホタテの握りを飲み込むと、「それを言うなら君はどうなの」とこちらに水を向けてきた。

「ないですよ、私も」

 昔も今も、私に交際相手はいなかった。色恋沙汰というのを経験したことがないわけではない。ただ私は、この人生で誰とも付き合うつもりがなかった。

「それこそ32歳なら、まだ余裕でチャンスあるじゃない」

「ひとりがラクなんですよ」

「それはわかる。本当そう」

 でも、と兄が続けた。

「緊急事態宣言とか、テレワークとか。ずっと人に会ってなかったから、誰かと一緒に暮らすのもやっぱりいいものだなって思ったよ」

「私たぶん、次の異動で東京に戻る」

 反射的に私は尋ねていた。

「そしたら、ここで暮らさない?」

 兄が目をしばたかせた。

「35歳で住宅補助が出なくなるから、どうしようかと前から考えてて。都心だと狭い部屋しか借りられないけど、ここなら広いし、プライバシーも確保できる。会社へも電車で一本だし……。あ、もちろん家賃も払います。お兄さんにってか、お兄さんの親に払えばいいのか。いや私が住むの、ご両親からしたら意味わかんないか」

 話しながら、勝手なことを言っていると気づいた。思わず早口になる。

「ごめん、よく考えたら無理だよね。私なに言ってるんだろ。もう酔ってるのかな」

 なぜいきなりこんな提案をしてしまったのか、自分でもわからなかった。いたたまれなくて兄の表情が見られない。

「忘れて」

「いいよ」

 私たちの言葉は同時だった。私は顔を上げた。

「いいよ」と兄はもう一度言った。妹の突拍子もない我儘を面白がるような、慈しむような目つきをしていた。

「お互い独り身のままだったら、そうしよう」

 2023年春、東京異動の辞令が出た。私と兄はこうして再びの共同生活を始めたのだった。


 早いもので、カレンダーはもう7月だ。梅雨明け宣言はまだ出ていないけれど、夏本番といっていいほど、容赦ない暑さが続いている。

 日曜日だった。午前中、私はピラティスに行き、カフェでランチを食べて戻ってきた。兄はちょうど外出するところで、夜は飲み会だという。

「終電前に帰ると思うけど、気にしないで先に寝て」

「はい、了解」

「あとこれ、さっき届いた。悪いんだけど、つけといてくれる?」

 兄が小さくて重い板のようなものを渡してきた。香田と三崎という名字が縦に並んだ、シンプルな表札だった。

「このご時世に必要ですかねえ」

「宅配便を置き配指定にしてても、表札がないと結局ピンポンされちゃうんだよ。こないだも紫野ちゃん宛ての荷物、テレワークしてた僕が対応したんだから」

「マンションのときは表札なしで平気だったんだけど」

「こういう住宅地の一軒家だと違うんじゃない。届くはずのものも届かなくなっちゃうよ」

 というわけであとはよろしくと言い残し、兄は出かけていった。

 少しして、サンダルを履いて玄関を出る。表札なんて初めて買ったけど、今時はネットで注文できるうえ、取り付けも両面テープで簡単だった。

 道路側に下がって、白い一軒家を眺めた。取り付けた表札の上のほうに、もともとついていた表札の跡が残っていた。前回の二人暮らしの際には、明朝体で「香田」と書かれた表札がかかっていたことを覚えている。

 この家はもともと兄の親が本宅と別に持っていた物件で、それまで賃貸に出して運用していたのを、結婚する息子夫婦の新居とした。反対を押しきって結婚するという末っ子に音を上げた両親が、せめてここに住んでくれと譲歩したらしい。それなのに婚約者がいなくなったうえ、その残った妹を引き取った兄に、両親が頭を抱えていただろうことは想像に難くない。

 私が大学を卒業して家を出、兄も去り、再び賃貸に出されたこの家に、回りまわってもう一度住んでいる。こんな未来がくることを、どうやって予想しただろう。

 そのとき、背後から「紫野、さん?」と声をかけられた。

 振り返ると、黒い日傘を差した老齢の女性が立っていた。傘を持っていないほうの手には紙袋が握られている。

「はい。香田さん……ですよね」

 ほとんど話したことはないが、すぐにわかった。兄の母だった。

 割と近くに住んでいるとはいえ、きっと向こうが避けていたのだろう、今までこんなふうに会ったことなどなかったのに。

「突然ごめんなさいね。お中元をね、たくさんいただいたから、おすそ分けしようと思って。ゼリーと素麺、お好きかしら?」

 戸惑いながら「それは、ありがとうございます。兄は……隆之介さんは、今出かけていて不在なんですけど」と告げると、彼女は「そう。むしろ、ちょうどいいわ」と答えた。

「あなたにお話があって。お時間、大丈夫かしら?」

 私の首筋に汗がつたった。暑いからか、それとも緊張のせいか。

 炎天下のなか老人と立ち話するわけにもいかず、私は彼女を家に招き入れた。

 グラスに麦茶を注ぎながら、これから何を言われるのかと気が気ではなかった。ろくに挨拶もせずに、この家に引っ越してきたことを責められるのだろうか。

 ダイニングテーブル越しに、私と香田夫人は向き合った。

「きれいにしていらっしゃるのね」

「いえ、単にものが少ないほうで。あの、お話とは」

 単刀直入に彼女は言った。

「紫野さん。あなた、隆之介と結婚してくれない?」


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