第9話 断罪は二度鳴る
王都に戻る日が来るとは、思っていなかった。
追放された門を、今度は証人として通る。因果なものだと思いながら、馬車の窓から見慣れた城壁を見上げた。あの日と同じ石造りの壁。同じ空の色。けれど、私の目には、違うものが映っていた。あの日はこの壁が世界の終わりに見えた。今は、ただの壁だ。
「緊張しているか」
隣に座るアルヴィンの声。彼は公爵として正式な随行を申し出て、宰相府もそれを拒否できなかった。
「少しだけ」
嘘だった。心臓は早鐘を打っている。けれど、手は震えていない。馬車を降りる時、アルヴィンが先に降りて手を差し出した。深く考えず、その手を取った。大きくて温かい手だった。一瞬だけ、指に力が込められた。
◇
宰相府の聴取室は、断罪の広間よりずっと小さかった。長い机の向こうに、宰相ヴィクトルが座っている。銀縁の眼鏡の奥の目は、何の感情も映していない。机上には書類が整然と並べられ、インク壺の位置まで左右対称だった。この人の性格が、そのまま現れている。
その隣に、ジルベール。そしてもう一方の端に、王太子エドガー。
エドガーの目が、一瞬だけ私を見て、すぐに逸れた。あの日から何も変わっていない。この人は、まだ自分の判断と向き合えないでいる。
「では、聴取を始める」
ヴィクトルの声は事務的だった。
「元フローレンス伯爵家令嬢リゼット。辺境における薬師としての活動内容、および上流鉱山の水質汚染との関連について、証言を求める」
私は立ち上がり、用意した資料を順に提示した。
患者の記録。三冊分の詳細なデータ。治療前後の症状変化。使用した薬草と配合。
水質調査の結果。自分の検査とヴェルデンの測量士の調査、二つの独立したデータ。
聖女の治癒後の経過記録。治癒魔法のみの患者と、煎じ薬を併用した患者の回復率の差。
そして、鉱山の採掘許可に関する書類。ジルベールの推薦状。
すべてを、感情を交えずに、淡々と説明した。観察、仮説、検証、証拠。前世の研究発表と同じ手順で。
「以上が、私の証言と提出資料です」
聴取室に、重い沈黙が落ちた。
ジルベールの白手袋が、机の下で震えている。
「こ……これは、捏造です! 辺境の追放者の言葉を、どうして信用できるのですか」
「データは捏造できません。そして、ヴェルデン公爵領の測量士の調査結果は、第三者の証拠です」
ジルベールがアルヴィンを睨む。アルヴィンは腕を組んだまま、微動だにしなかった。
「宰相閣下」
ヴィクトルが手を上げて、ジルベールの反論を遮った。
「薬師リゼットの記録は、極めて精密だ。宮廷の薬師にも、これほどの記録を残す者は少ない」
それから、ジルベールに目を向けた。
「ジルベール殿。この鉱山の推薦状について、説明を」
「あ、あれは……薬の原料を採掘するための正当な事業で——」
「採掘された鉱石の用途と、具体的にどの薬に使用されたのか、記録はあるか」
「それは……今は手元に……」
「ないのだな」
ヴィクトルの声に、温度はなかった。けれど、それが逆に冷酷だった。この人は善悪で判断しない。合理性で動く。そして今、ジルベールのデータの不在と、私のデータの存在。天秤はどちらに傾いているか、明白だった。
「王太子殿下」
ヴィクトルがエドガーに目を向けた。
「この鉱山事業の許可書には、殿下のご署名があります。経緯をお聞かせいただきたい」
エドガーの顔が強張った。視線が泳ぐ。隣を見る——セレーナはいない。この場にいるのは、ヴィクトルと、ジルベールと、私と、アルヴィン。彼が頼れる「強い者」は、ここにはいなかった。
「……セレーナが、ジルベールの推薦があるから問題ないと。私は、それを信じて署名した」
ようやく、自分の言葉で語り始めた。震える声で、けれど確かに。
「私は……確認を怠った。それは、私の責任だ」
その言葉を聞いた時、私の中で何かが静かに解けた。怒りでも、復讐の快感でもなかった。ただ——ようやく、この人が自分の目で現実を見たのだという、静かな安堵。完全な謝罪ではない。断罪の非を認めたわけでもない。けれど、少なくとも自分の判断の誤りを口にした。それだけで、私の中の何かが変わった。
ヴィクトルは三日待つ。彼は決断する前に必ず三日待つ人間だと、マルタから聞いていた。
「本日の聴取はここまでとする。三日後に、宰相府の判断を通達する」
聴取室を出ると、廊下でアルヴィンが待っていた。壁に背を預けて腕を組んでいたが、私が出てくると体勢を起こした。
「よくやった」
「まだ終わっていません。ヴィクトル閣下の判断次第です」
「ああ。だが、あの男はデータを無視できない。あんたの記録が、一番雄弁だった」
並んで廊下を歩く。王都の建物は、辺境の森よりも冷たい空気がする。けれど、隣を歩くこの人の存在が、不思議と心を温かくした。
「リゼット」
初めて、名前を呼ばれた。
「ん……はい」
「聴取の間、ずっと背筋がまっすぐだった。あの日——断罪の日もそうだったのか」
「……覚えていませんよ、そんなこと」
「俺は覚えている。あの日、広間の端で見ていた。外交の席で、たまたま」
足が止まった。
「見て……いた?」
呼吸が止まる。あの日、あの広間に、この人がいた。私が一番みじめで、一番孤独だった場所に。
「ああ。何も知らずに断罪される女がいた。誰も味方がいなかった。それなのに、背筋だけはまっすぐだった。あの姿が——ずっと、頭から離れなかった」
声が静かすぎて、心臓がうるさいのがわかった。
「だから辺境に……」
「言い訳はしない。最初は、ただ気になっただけだった。けれど今は——」
アルヴィンが言葉を切った。それから、小さく息を吐いて、私の手を取った。
指が触れた。今度は、離れなかった。
「今は、この手を離したくない」
短い言葉。けれど、その手の温度が、言葉の何倍もの重さを持っていた。
涙が出そうになった。堪えた。ここは宮廷の廊下だ。泣く場所ではない。
代わりに、握り返した。ほんの少しだけ、力を込めて。
三日後。宰相ヴィクトルの判断が下された。
鉱山の即時操業停止。ジルベールの宮廷薬師の職の解任。そして——辺境の薬師リゼットに対する、フローレンス王国公認薬師の資格授与。
判断は、合理的だった。感情を排した、純粋な国益の計算。辺境の医療を安定させることが国の利益になる。その判断を、ヴィクトルは下した。
公正でも温情でもない。けれど、結果として正しい方向に動いた。それで、十分だった。
セレーナについては、直接の処分は下されなかった。けれど、ジルベールの解任と鉱山の停止は、彼女の影響力に大きな亀裂を入れた。聖女の権威は、少しずつ、静かに揺らぎ始めていた。
報告書の最後に、一文が添えられていた。ヴィクトルの筆跡で。
「今後の辺境医療の発展に期待する」
たった一文。けれど、追放者の仕事を国が認めたという事実は、何よりも重かった。
王都を発つ朝。馬車の中で、アルヴィンの手はまだ私の手を握っていた。
辺境に帰る。私の薬草園に。
握られた手の温もりが、馬車の揺れと一緒に、ゆっくりと胸の奥に沁みていった。




