第8話 証拠は土の中に眠っている
聖女の慰問。それは、誰も表立って反対できない完璧な一手だった。
疫病に苦しむ辺境の民を、聖女が自ら救いに行く。美しい物語だ。そしてその裏にある意図は、私の存在を「不要」にすること。聖女の治癒魔法があれば薬師は要らない。そう宮廷に印象づければ、薬草園を閉じる口実が完成する。
「三日後に到着する、と書いてある」
マルタが書簡を読み上げる声は、淡々としていた。けれどその目には、かつて宮廷で見てきた権力闘争の記憶が光っている。
「マルタさん、一つ教えてください。聖女の治癒魔法は、本当に万能ですか」
◇
マルタの手が止まった。長い沈黙の後、小さな声で答える。
「……万能ではないよ。怪我や急性の病には効く。けれど慢性の症状や、原因が環境にある病は、その場では治せても再発する。魔法は原因を取り除けない」
やはり。前世の知識に照らせば当然のことだ。対症療法は根本治療ではない。痛み止めは痛みの原因を取り除かない。解熱剤は感染源を殺さない。
「つまり、セレーナが来て治癒魔法を使っても、鉱山の汚染が続く限り、患者はまた病気になる」
「そういうことだ。けれど、その時には聖女は王都に戻っている。再発したところで、『辺境の環境が悪い』で片づけられる」
構造が見えてきた。セレーナの目的は、患者を治すことではない。「治した」という事実を作り、私の薬草園の価値を否定すること。
では、どうするか。
正面からの対立は避ける。聖女に逆らえば、また「悪役令嬢」のレッテルを貼られるだけだ。
考える。前世の研究者としての思考回路を、全力で回す。
答えは、意外なほどシンプルだった。
「——協力するんです」
「はあ?」
マルタとフィオナが同時に声を上げた。
「聖女の慰問に、薬師として全面的に協力する。患者の情報を提供し、回復後のケアを引き受ける。対立するのではなく、補完関係を作るんです」
「……あんた、正気かい」
「聖女の魔法で症状を抑え、私の薬で再発を防ぐ。それが患者にとって最善です。そして、その事実そのものが、薬草園の必要性の証明になる」
マルタが目を見開いた。それから、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。長年の宮廷経験で培った直感が、この策の有効性を認めたのだろう。
「……なるほどね。敵が差し出した手を握り返して、その手で自分の正しさを証明するってわけかい」
「ええ。感情では動きません。患者のために最善を尽くす。それだけです」
フィオナが「かっこいい」と呟いたが、聞こえなかったことにした。
三日後。セレーナが辺境に到着した。
白い馬車に金の装飾。車輪の一つひとつまで磨き上げられ、辺境の土の道に似つかわしくない輝きを放っている。聖女の衣装を纏った彼女は、降り立つだけで村の空気を一変させた。金髪が風にたなびき、青い瞳が慈しみに満ちている。村人たちが思わず跪く。完璧な演出だった。
「皆さん、長い苦しみでしたね。私が治して差し上げます」
声も表情も、一分の隙もない。
私はその後ろに控え、静かに頭を下げた。
「聖女様、薬師として患者の情報をお伝えしたく存じます。お役に立てれば幸いです」
セレーナの目が、一瞬だけ鋭くなった。抵抗を予想していたのだろう。協力を申し出られるとは思っていなかったはずだ。その一瞬の動揺を、慈悲深い微笑みで即座に覆い隠す。さすがだ。この人は表情を武器として使いこなしている。
「……ありがとう。助かりますわ」
微笑みの裏で、計算が回っているのがわかった。けれど、公衆の面前で協力を断ることはできない。
治癒の儀式が始まった。セレーナの手から白い光が溢れ、患者たちの体を包む。確かに、急性の症状は劇的に回復した。咳が止まり、熱が下がり、顔色が戻っていく。
村人たちから歓声が上がる。「聖女様の奇跡だ」と。子供たちが目を輝かせ、母親たちが涙を流す。劇的な効果は人の心を掴む。これが治癒魔法の力であり、聖女の権威の源泉だ。
けれど私は、観察を続けていた。治癒魔法の直後、患者の体内で何が起きているか。前世の知識で推測する。
魔法は炎症を抑え、免疫反応を促進しているようだ。素晴らしい即効性。けれど、体内に蓄積された有害物質は除去されていない。症状の原因は残ったまま。
翌日。予想通り、治癒を受けた患者の一人が、再び軽い咳を始めた。
「お体の経過を見させてください」
私は患者のもとを訪ね、解毒の煎じ薬を処方した。同時に、治癒魔法後の回復記録もつけ始めた。
セレーナが三日間の滞在を終える頃には、パターンが明確になっていた。治癒魔法で急性症状は消えるが、三日から五日で軽い症状が再発する。私の煎じ薬を併用した患者は、再発率が大幅に低い。
最終日。セレーナが王都へ発つ前に、調査団の団長——前回と同じ男だ——が、私のもとを訪ねてきた。
「薬師殿。聖女様の治癒後の経過記録を、提出してもらえるか」
「もちろんです」
記録を手渡した。団長は目を通し、深く息を吐いた。
「……これは、宰相閣下に直接報告する」
「お願いします。追加で、鉱山の水質汚染報告書もお渡しします。これが根本原因である以上、治癒魔法だけでは解決しません」
団長は黙って頷き、書類を受け取った。その目に、追放者への侮りはもうなかった。
セレーナの馬車が去っていく。窓越しに、彼女がこちらを見た気がした。
見送りの後、村に戻ると、アルヴィンが小屋の前で待っていた。
「上手くやったな」
「正面からは戦っていません。データを見せただけです」
「それが一番強い」
アルヴィンの声に、温かさがあった。
二人で薬草園を歩いた。日が傾き始めて、影が長く伸びている。歩幅を合わせて、ゆっくりと。
「アルヴィン」
「ん」
「なぜ、ここまでこの村のために動いてくれるんですか。あなたの領地でもないのに」
長い沈黙があった。アルヴィンは足を止め、薬草園の向こうに広がる森を見つめた。
「……子供の頃、俺の母が病で倒れた。治癒魔法が届かない田舎だった。薬師もいなかった」
声は淡々としていた。けれど、その淡々さの下に、深い水のような感情が見えた。
「助けを求めても、誰も来なかった。母は——助からなかった」
「……」
「だから、同じ思いをする人間を減らしたい。それだけだ」
シンプルで、誠実な言葉だった。この人がなぜ自分の領地でもない辺境に通い続けるのか。なぜ身分も国も関係なく人を助けようとするのか。その答えが、ここにあった。
私は何も言えなかった。ただ、隣を歩いた。肩が触れるか触れないかの距離で。
小屋の前で足を止めた時、アルヴィンの手が——ほんの一瞬だけ、私の手に触れた。指先が触れただけ。すぐに離れた。
それが「ありがとう」なのか、別の何かなのか。
聞けなかった。聞かなくてよかった。
けれど、触れた指先の温度は、夜になっても消えなかった。
翌朝。一通の書簡が届いた。宰相ヴィクトルの紋章入り。
「辺境の薬師リゼットに対し、宰相府への出頭を求める。鉱山事業の是非について、証人としての聴取を行いたい」
攻守が、逆転し始めていた。




