第5話 雨の日に届く沈黙
王都からの使者は、二人の騎士を伴っていた。
村の広場に馬を止めた男は、宮廷の紋章が入った書簡を掲げて声を張った。甲冑の胸当てが午後の日差しを反射して、目に痛い。
「フローレンス王国宮廷の命により、元フローレンス伯爵家令嬢リゼットに出頭を命じる。鉱山事業への妨害、および追放者の規定違反の容疑である」
◇
村人たちの視線が、私に集まった。不安と、怒りと、困惑が入り混じっている。
容疑が「鉱山事業への妨害」。つまり、私が川の汚染を調べていることが、王都に伝わったのだ。しかも「追放者の規定違反」という曖昧な罪まで付け加えて。
背筋が冷たくなる。けれど、足は震えなかった。断罪の日に、散々震えた。二度目の断罪を、同じように受けるつもりはない。もう同じ恐怖に膝を折らない。
「失礼ですが、書簡を確認させていただけますか」
使者は苛立った顔で書簡を差し出した。私は一字一字、丁寧に読む。前世で身についた、契約書や報告書を読む習慣が役に立つ。文面の裏にある意図を読み取る力は、研究者としてではなく社会人として鍛えられたものだ。
——やはり。この書簡には、宰相の署名がない。宮廷薬師ジルベールの進言に基づく、王太子エドガーの命令書。正式な司法手続きを経ていない。
「この命令書には、宰相閣下の副署がありません。辺境の追放者の召喚には、慣例として宰相の副署が必要なはずですが」
使者の表情が、一瞬固まった。
「……それは」
「さらに、追放者の規定には『追放先での生業を妨げてはならない』という条項があります。私は薬師として村の許可を得て活動しています。規定違反には該当しません」
前世の法律知識そのものではないが、論理的に権利を主張する方法は同じだ。この世界の法律は、マルタから借りた古い法令集で確認済みだった。あの分厚い書物を夜ごと蝋燭の光で読んだ日々が、今ここで報われる。
使者は口を開きかけて、閉じた。背後の騎士と目を交わす。
その時、広場の反対側から、低い声が割り込んだ。
「その書簡、俺にも見せてもらえるか」
アルヴィンだった。いつもの外套ではなく、公爵家の紋章が入った正装。肩章が日光を受けて金色に光っている。村人たちの間にざわめきが走る。これまで「時々来る親切な旅人」としか認識されていなかった男の正体に、誰もが息を呑んだ。
「ヴェルデン公爵家のアルヴィンだ。この辺境の実質的な保護者として、発言する権利がある」
使者の顔色が変わった。辺境の追放者を連行するつもりが、隣国の公爵が出てくるとは思っていなかったのだろう。
「公爵閣下、これはフローレンス王国の内政問題でございまして——」
「この村はフローレンス王国の領地だが、住民にはヴェルデン公爵領との交易で生計を立てている者も多い。住民の生活に関わる以上、無関係とは言えない」
アルヴィンの声は静かだったが、有無を言わせない重みがあった。普段の寡黙な青年とは、纏う空気がまるで違う。
これが、領主の顔か。
「この書簡は正式な手続きを踏んでいない。俺からフローレンス宮廷に、正式な照会を行う。それまでは、この村の薬師に手を出すことは認めない」
使者は唇を噛み、しばらく動かなかった。公爵相手に強行すれば、外交問題になる。その計算が、彼の目に見て取れた。
「……宮廷に持ち帰ります」
それだけ言い残して、使者たちは馬を返した。土埃を巻き上げて遠ざかる蹄の音を聞きながら、私はようやく息を吐いた。
肩の力が抜けた途端、膝が震えた。怖くなかったと言えば嘘になる。また、全てを奪われるかもしれないという恐怖は、体の奥に染みついている。断罪の記憶は、ふとした瞬間に蘇って呼吸を浅くする。
「大丈夫か」
アルヴィンの声が、すぐ横から聞こえた。振り返ると、彼は私の顔を覗き込んでいた。近い。いつもの距離より、ずっと。眉がわずかに寄っている。心配しているのだ。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「礼はいい」
いつもの台詞。けれど今日は、その後に言葉が続いた。
「あんたが一人で立ち向かう必要はない」
その声が、思いのほか胸の深い場所に届いた。目頭が熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。
「……すみません。少し、驚いただけです」
「驚いたのは俺の方だ。使者の前で法律を持ち出す追放者は初めて見た」
ほんのわずかに、アルヴィンの口元が動いた。笑みとは呼べないほど小さな変化。けれど確かに、そこに温かいものがあった。
村人たちが少しずつ集まってきた。トーマスが声を上げる。
「リゼット殿を、この村は守る。薬で俺たちを助けてくれた恩は、忘れていない」
マルタが腕を組んで頷く。母親たちが、子供の手を引きながら頷く。老人が、痛みの取れた腰をさすりながら頷く。
この人たちが、私の味方だ。
肩書きではなく、実際に手を動かして得た信頼。それが、今の私を支えている。
「ありがとうございます。私は——この村の薬師として、やるべきことを続けます」
声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
夕刻。小屋に戻ると、マルタが待っていた。
「あの使者は、また来るよ。今度はもっと手強い手で」
「わかっています」
「ジルベールは小物だが、その後ろにいるのはあの聖女だ。あの女は頭がいい。正面からは来ない」
マルタの目が、一瞬だけ遠くを見た。宮廷にいた頃の記憶が、過ぎったのかもしれない。
「あんたの薬がこれ以上の実績を作れば、宮廷の立場が揺らぐ。治癒魔法がなくても病は治ると証明されれば、聖女の存在意義がなくなる」
なるほど。セレーナが私を排除した本当の理由は、そこにあるのか。婚約者を奪ったとか、令嬢としての礼を欠いたとか、断罪の理由は表面上のもの。本質は、自分の「聖女」としての権威が脅かされることへの恐怖。
「私は聖女の座を狙っているわけではないのに」
「関係ないさ。あの手の人間は、自分以外が認められること自体が許せないんだ」
マルタの言葉に、私は黙って頷いた。
戦うつもりはなかった。ただ、ここで静かに薬を作って暮らしたかっただけだ。けれど、相手がそれを許さないなら。
薬草園を見る。月見草は花をつけ始めていた。銀葉草も、甘根草も、順調に育っている。この小さな緑が、確実に人を救っている。
私の手には、剣もなければ魔法もない。あるのは知識と、この薬草園と、信頼してくれる人たち。
それで十分だ。
窓の外、村の明かりが一つ、また一つと灯っていく。その光の中に、あの背の高い影が見えた。見回りをしているのだろう。毎晩、欠かさず。
——あの人に、いつか聞いてみたい。なぜそこまで、この村のために動くのかを。
けれどそれは、もう少し先の話だ。
今夜も、記録帳を開く。明日の調合の準備がある。汚染の証拠を、もっと確実なものにしなければ。
ペンを走らせる指先に、迷いはなかった。
翌朝、フィオナと名乗るそばかすの少女が小屋の前に立っていた。両手に摘みたての薬草を抱えて。
「薬師さん、あたしに薬の作り方を教えてください」




