第3話 薬草は嘘をつかない
芽が出てから十日で、薬草園は小さな緑の絨毯に変わった。
月見草は予想以上に根付きが良く、石灰で調整した土壌との相性も悪くなかった。前世の知識と、この世界の植生を照らし合わせながら、私は毎日記録をつけている。朝の気温、土の湿り具合、葉の色と茎の太さ。記録を続けると小さな変化にも気づけるようになる。
◇
最初の「患者」が来たのは、十五日目の朝だった。
トーマスが、青い顔をした子供を抱えて小屋に駆け込んできた。
「高熱だ。三日、下がらない」
声は落ち着いていたが、額に浮いた汗が焦りを物語っていた。この人は村長として冷静でいようとしている。けれど、子供を抱く腕にかかる力の入り方が、内側の不安を語っていた。
子供を寝台に横たえ、額に手を当てる。熱い。脈を取り、舌の色を見て、喉を確認する。前世の臨床知識が、自動的に動き出す。呼吸は浅く、頻脈。扁桃腺の腫れも見られる。
典型的な上気道の炎症。この世界では「風の熱病」と呼ばれている。放っておけば治ることも多いが、体力のない子供は危険だ。
「解熱の煎じ薬を作ります。少し時間をください」
月見草はまだ収穫には早い。けれど、マルタからもらった乾燥薬草の中に、解熱に使えるものがいくつかある。前世の知識で言えば、柳の樹皮に含まれるサリチル酸に似た成分を持つ草。この世界では「銀葉草」と呼ばれている。
配合を頭の中で組み立てる。銀葉草を基剤にして、胃への負担を和らげる甘草に似た根を加える。水で煎じ、濾す。
手が動く。迷いなく。乾燥薬草の量を目で測り、すり鉢で砕き、湯を注ぐ。前世で何百回と繰り返した調合の動作が、この世界の道具でも自然と出てくる。
この感覚を、どれほど待ち望んでいたか。王都では、この手を「毒を作る手」と呼ばれた。聖女の治癒魔法こそが正しい医療であり、薬を調合する行為は「旧時代の邪法」だと。
できあがった煎じ薬を、慎重に子供の口に含ませる。トーマスが不安そうに見守る中、私は子供の額に濡れた布を当てながら、静かに待った。布を替えるたびに湯気が立つ。それほどの高熱だった。
一刻ほどして、子供の呼吸が穏やかになった。
「……熱が、下がってきた」
トーマスの声が、わずかに震えた。私は頷いて、次の分量を計る。
「明日の朝と夕方に、同じものを飲ませてください。三日で熱は引くはずです」
トーマスは子供を抱き上げ、一度だけ深く頭を下げて小屋を出ていった。言葉はなかった。けれど、その背中の力の抜け方が、信頼の始まりを告げていた。
その日から、少しずつ村人が訪ねてくるようになった。
腰が痛いという老人。手の荒れが治らないという女性。咳が長引く若者。最初は半信半疑の顔で来る。元令嬢の薬なんぞ信用できるか、と陰で言う声も聞こえた。けれど、一人、また一人と症状が良くなるにつれ、噂の色は変わっていった。
一人ひとりの症状を観察し、仮説を立て、薬を調合する。効果が出れば記録し、出なければ原因を探って処方を変える。前世の研究と同じだ。観察、仮説、検証、記録。地道だが、これが一番確実な道だ。
薬草園も拡張が必要になった。月見草だけでは対応できる症状が限られる。マルタに相談すると、彼女は黙ってこの辺りに自生する薬草の地図を描いてくれた。
「全部は教えないよ。自分の目で確かめな」
口は相変わらず素っ気ないが、地図の書き込みは細かく、正確だった。山の南斜面にどの薬草が群生しているか、季節ごとの採取時期まで記されている。この情報は何年もかけて蓄積されたものだろう。
薬草園を広げるには土地がいる。今使っている小屋の裏の空き地だけでは足りない。
そのことをトーマスに相談した翌日、思いがけない人物が小屋を訪ねてきた。
戸口に立っていたのは、黒髪に深い緑の瞳の男だった。長身で、姿勢がまっすぐ。あの夜、月明かりの中で見た影と、体格が重なる。
「薬草園を広げたいと聞いた」
声は低く、穏やかだった。けれど、まとう空気が村人たちとは明らかに違う。仕立ての良い外套。手入れされた長靴。そして何より、人の上に立つ者特有の、迷いのない視線。
「この辺境の領地を預かっている。アルヴィンだ」
領主。この名も知れぬ辺境の村に、領主が自ら足を運んでいる。しかも「預かっている」という言い方。領地を「所有している」ではなく「預かっている」。その言葉の選び方に、この人の姿勢が見て取れた。
「土地を提供する用意がある。ただし、条件がひとつ」
「条件……」
「この村だけでなく、周辺の集落の病人も診てほしい。ここ数年、原因不明の熱病が広がっている。宮廷に薬師の派遣を要請したが、辺境には誰も来ない」
その言葉に、私の胸の奥で何かが動いた。宮廷は辺境を見捨てている。聖女の治癒魔法は王都にしかない。つまり、ここにいる人々は、ずっと助けを待ち続けていた。
「……引き受けます」
声が自分で思ったよりも強く出た。アルヴィンはわずかに目を見開き、それから小さく頷いた。
「明日、土地の境界を案内する。朝は早いが、構わないか」
「慣れています」
アルヴィンが去った後、マルタが背後から声をかけてきた。
「公爵様じゃないか。珍しいこともあるもんだ」
「公爵?」
「隣国ヴェルデンの公爵家の当主だよ。この辺境は、フローレンス王国の領地だが、ヴェルデンとの国境沿いでね。事実上、あの人が面倒を見ている」
隣国の公爵が、敵国とまではいかないが、別の国の辺境の村を。
マルタは薬草を束ねる手を止めずに続けた。
「宮廷はこの村なんぞ気にもしていない。けれどあの若い公爵は、二年前から何度もここに足を運んでいる。偉ぶりもせずにね」
その言葉を聞きながら、私はアルヴィンの目を思い出していた。あの視線には、権力者特有の上からの憐れみがなかった。ただ、問題を解決したいという意志だけがあった。
翌朝。アルヴィンは約束通り、夜明け前に現れた。
案内された土地は、小屋の裏手から川沿いに広がる緩やかな斜面だった。日当たりが良く、水の便もいい。薬草園にはこれ以上ない立地だ。南向きの斜面は日照時間が長く、川からの灌水も容易。前世の農学の知識が、この風景を設計図に変換していく。
「ここを、自由に使っていい」
私は土を掬い、匂いを確かめ、指の間で質感を探った。その様子を、アルヴィンは黙って見ていた。
「……いい土です」
「そうか」
それだけ。けれど、彼の口元がほんのわずかに緩んだのを、私は見逃さなかった。
薬草園の拡張を始めた。マルタの地図を頼りに、この地域の自生薬草を集め、計画的に植え付けていく。銀葉草、月見草、甘根草。それから、前世の記憶にある薬効を持つ植物に似たこの世界の薬草を、一つずつ試していく。
日が暮れて作業を終え、小屋に戻ると、入り口の脇に薪の束と、布に包まれた焼きたてのパンが置いてあった。
誰が置いたかは、聞かなくてもわかった。足跡が、まっすぐに森の方へ続いている。軍人のような、迷いのない歩幅で。
パンはまだ、ほんのり温かかった。




