第10話 陽だまりの薬草園
辺境に戻った朝、薬草園の月見草が満開だった。
淡い黄色の花が、朝露を纏って揺れている。留守の間、フィオナが丁寧に世話をしてくれていた。一つも枯れていない。
「おかえりなさい、薬師さん!」
フィオナが駆け寄ってきて、勢いよく私の手を取った。その手は、少し荒れて、薬草の匂いがする。薬師の手になりつつある。
「ただいま。……よく頑張ったね」
「はい! でも、やっぱり薬師さんがいないと心配で。調合の量が微妙にわからなくなって、マルタさんに三回怒られました」
「三回で済んだなら上出来よ」
フィオナが笑った。屈託のない笑顔。この子がいてくれたから、安心して王都に行けた。
◇
公認薬師の資格授与の知らせは、辺境の村々に瞬く間に広がった。
王都の宮廷が認めた薬師がいる。その事実は、これまで以上に多くの患者を呼び寄せた。近隣の村だけでなく、馬で二日かかる集落からも人が訪ねてくるようになった。
薬草園の拡張が急務だった。フィオナに加え、村の若者が二人、手伝いを申し出てくれた。トーマスが土地の整備を指揮し、マルタが薬草の管理を監督する。小さな組織が、自然に出来上がっていった。一人で始めたものが、いつの間にか人の手を借りて回っている。信頼の輪が、少しずつ広がった結果だ。
鉱山が停止してから一月。川の水質は、目に見えて改善していた。指標草の反応は正常に近づき、下流域の住民から新たな熱病の報告は途絶えた。川に魚が戻り始めたと、トーマスが嬉しそうに報告してくれた日、村に笑い声が増えた。
ある日の昼下がり。マルタが薬草の束を抱えて小屋に来た。
「あんたに渡しておきたいものがある」
マルタが差し出したのは、一冊の古びた手帳だった。革の表紙が擦り切れ、角が丸くなっている。
「私が宮廷にいた頃に書き溜めた、薬草の記録だ。この辺りの自生種の全リストと、先代の薬草師たちが残した知恵が入っている」
「マルタさん、これは……」
「もう私には必要ない。あんたの方が、ずっとうまく使える」
手帳を受け取る手が震えた。これは、マルタの半生そのものだ。宮廷を離れ、辺境で一人薬草を摘んで暮らしてきた年月の重みが、この革表紙に詰まっている。
「大切にします」
「当たり前だ。粗末にしたら化けて出るよ」
ぶっきらぼうな声。けれど、マルタの目元が少しだけ緩んでいるのを見逃さなかった。
日々は穏やかに流れた。
朝は薬草園の手入れ。昼はフィオナへの指導と患者の診察。夕方は記録の整理と、新しい薬の研究。忙しいが充実した日々。前世の研究室にいた頃も忙しかったが、あの頃の記憶はどこか灰色がかっている。ここでの毎日は、色が濃い。土の匂い、薬草の香り、人の声。すべてが鮮やかだ。
そして夜は——アルヴィンが来る。
毎晩ではない。けれど、三日に一度は必ず。薪を持って、時には焼きたてのパンを持って。以前のように黙って置いていくのではなく、今は小屋の前で少しだけ話をしていく。
「今日は何人診た」
「七人。そのうち三人は経過観察の再診です」
「記録は」
「もちろん」
たわいない会話。けれど、その中に流れる時間が、静かに二人の距離を縮めていた。
肩が触れても、もう避けなくなった。隣を歩く時の歩幅が、自然と揃うようになった。
ある雨の夜。小屋の庇の下で、二人で雨音を聞いていた。薬草の匂いが、雨に濡れて一段と強くなっている。
「リゼット」
「なに」
「隣にいてもいいか。もう少し」
「……いいよ」
それだけの会話。けれど、彼の外套の端が、私の肩にかかっていた。かけてくれたのだと気づいた時には、もう温かくなっていて。
日が経つにつれて、辺境の薬草園の評判は広がり続けた。ヴェルデン公爵領との正式な医療協力の話も持ち上がった。アルヴィンの領地と、フローレンスの辺境。国境を越えた薬草の流通と、薬師の育成。
大きな話だ。けれど、始まりはたった一つの種だった。
フローレンスの宮廷からも、変化の兆しが届いた。
ジルベールの解任後、宮廷薬師の座は空席が続いていた。エドガーから、非公式の書簡が届いた。
「薬師リゼットに、宮廷薬師の職を打診したい」
……笑ってしまった。追放した相手に、今度は宮廷に戻れと。人生は、時として冗談のような展開を見せる。
返事を書いた。丁寧に、けれどはっきりと。
「ご厚意には感謝いたします。しかし、私の居場所は辺境の薬草園です。宮廷薬師の職は辞退いたしますが、辺境と王都の医療連携には協力いたします」
王都に戻るつもりはなかった。あそこは私の場所ではない。
私の場所は、ここだ。
セレーナについては、その後、聖女としての活動範囲が縮小されたと風の便りに聞いた。治癒魔法の限界が公になり、薬師との連携が制度として推奨されるようになったことで、彼女の「唯一の救い手」としての地位は静かに崩れていった。
派手な断罪はなかった。劇的な没落もなかった。ただ、嘘で塗り固めた権威が、事実の積み重ねによって少しずつ剥がれていっただけだ。
それでいい。過度な報復は、新たな歪みを生むだけだから。
フィオナの腕も上がった。基本的な煎じ薬なら、もう一人で作れる。村の子供たちに薬草の見分け方を教えている姿を見ると、自分が蒔いた種が次の世代に芽を出し始めたのだと実感する。
ある朝。薬草園で月見草の種を採取していると、アルヴィンがやってきた。いつもの外套。いつもの、まっすぐな足取り。
「リゼット」
「おはよう」
「一つ、聞きたいことがある」
珍しく、彼の声がわずかに硬かった。
「なに」
「……俺の隣は、居心地が悪くないか」
不器用な問いかけに、思わず笑いそうになった。堪えて、種を籠に入れてから、立ち上がって彼の方を向いた。
「悪くないよ」
「そうか」
「うん」
アルヴィンが、小さく——本当に小さく——笑った。目尻に皺が寄って、いつもの鋭い目が少しだけ柔らかくなる。この笑顔を見られるのは、きっと私だけだ。
そしてアルヴィンは、何も言わずに、私の隣にしゃがんだ。月見草の種を、一緒に摘み始めた。不慣れな手つきで、けれど丁寧に。
「そっちの実は、まだ熟していないから採らないで」
「わかった」
「その手つきだと潰れるから、もう少し優しく」
「……こうか」
「そう。上手」
並んで土に触れる。薬草の匂いに包まれて。朝日が、二人の影を長く伸ばしていた。
——王都で得られなかったものが、全部ここにある。
信頼できる師。慕ってくれる弟子。守りたい場所。そして、隣にいてくれる人。
追放された日、私は鎖を失った。代わりに手に入れたのは、この土と、この空と、自分の力で生きるという自由だった。
風が吹いた。薬草園の花が揺れる。
その花の向こうに、フィオナが村の子供たちに薬草の見分け方を教えている姿が見えた。マルタが腕を組んでそれを見守っている。トーマスが畑に水を引いている。
小さな世界だ。けれど、私の手が届く、確かな世界。
アルヴィンの肩が、私の肩に触れた。温かい。
陽だまりの中で、月見草の種が、私たちの手のひらの上で金色に光っていた。
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