3.制服時代
恋人ごっこ2日目。
今日は日曜日。晴天。気温も良好。
最高の一日になる、はずだった。
あのメッセージが来るまでは。
画面に浮かんだ名前――光。
「ねえ。今日さ、高校の制服で来てよ」
……は?
お昼に作っていたカレーの湯気が、ふわっと白く揺れた。
その白さが、脳内を消毒してくれてる。消毒されても、言葉の意味が理解ができなかった。
制服って、あの制服?
高校の、あの、黒い、短い――え、あれ?
頭の中で“常識”がプラカードを掲げて抗議デモを始める。
「それはきついです」「社会的に死にます」「そもそも需要ないです」
うるさい。全部わかってる。わかってるのに――指が、もう返信欄に触れていた。
断ろう。
断れ。断る。断……。
「……冗談でしょ?」
送信。
秒針が一回進む音が、妙に耳に刺さった。
三十秒もしないうちに、返事が来る。
「楽しみにしてる」
……楽しみに、してる。
その文字が、胸の奥でじわっと熱に変わる。
やめて。楽しみにしないで。
考えれば考えるほど頭が熱くなって、目の前が真っ白になる。
「……おい、沸騰してるよ」
夫の声で現実に引き戻された。
鍋に目線を落とすと、沸騰したカレーが縁から少しこぼれている。慌てて火を弱める。
「考え事? 料理中はほどほどにね」
「ごめん」
スマホを伏せて、鍋をかき混ぜた。
“制服で来てよ”の文字が、湯気の中でずっと浮いている。
カレーはなんとか完成した。
夫と向かい合って食べながらも、頭の中では制服のことばかり考えてしまう。
断るべき。絶対に。
でも、高校時代できなかった“制服デート”ができると考えたら、胸の中がソワソワする。
特に会話もなく、食べ終えた夫は食器を片付け、午後からのバスケの支度を始めた。
「じゃ、行ってくるね。夜までかかるから」
「うん、いってらっしゃい」
声が普通すぎて、自分が怖い。
嘘はついてない。確かに、嘘はついてない。
でも、言ってないことが多すぎる。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
夫が角を曲がったのを確認してから、私はまるで泥棒みたいに自室へ向かった。
クローゼットの前で深呼吸をひとつ。
奥。さらに奥。普段触らない引き出し。
防虫剤の匂いが、記憶の蓋を無理やりこじ開ける。
黒いブレザー。
白いシャツ。
スカート。
まだ残っていた。
実家からいつか着ようと思って持ってきた懐かしの制服。
結局一度も着用せずにここに封印してたわけだけど。
手が震える。でも止まれない。
制服を抱え、寝室へ移動する。
カーテンを閉める。念のため鍵もかける。
夫はいない。なのに、私は隠れてる。
隠れてるってことは、やましいってことで――。
やめよう。今なら戻れる。
布を戻して、引き出しを閉めて、なかったことに――。
引き返そうとした、その瞬間。
ピコン、と通知。
光だ。
「駅前、19時。着て来ないと罰ゲームね」
……罰ゲームって何。
もう罰は十分受けてるんですけど。
私は――制服を着た。
ブレザーの袖を通した瞬間、肩がひくっと跳ねる。
身体が「やめろ」と言ってる。
でも、身体のどこかが「やった」とも言ってる。
シャツのボタンを留める。……きつい。
高校時代の私、どんな体型してたの。妖精?
スカートを履く。……短い。短すぎる。太ももが現実を主張してくる。
鏡の前に立った。
「………………」
声が出ない。
鏡の中には制服を着た“私”がいた。
でもそれは、高校生の私じゃない。
昔より明らかに活気のない肌。運動不足のせいで、サイズも結構ぎりぎり。
二十代後半に差し掛かった私に、制服はあまりにも容赦がない。
時間って残酷だ。メンタルがヘラる。
せめてあと三年。いや五年若ければ――
なのに制服だけが、時間を巻き戻してみせる。
やばい。死にたい。通報案件。夫に見られたら人生終了。
なのに、胸の奥がほんの少しだけ軽い。
なにこれ。制服って麻薬?
思わずスカートの裾を引っ張った。意味はない。
引っ張ったところで、現実が長くなるわけじゃない。
スマホを見る。14:32。まだ時間はある。
化粧台の前へ座り、動画サイトを開いた。
再生したのは高校生向けの今どきメイク動画。
一歳でも若く見られるなら、なんだってやってやる。
結局、納得できる顔ができたころには日が傾いていた。
慌てて洗濯物を取り込み、ひと段落してから改めて鏡を見る。
……よし。さっきよりはJKっぽい。たぶん。知らないけど。
19時が近づき、私は夜の街へ出た。
人の視線が怖い。
見られてる気がする。……実際たぶん見られてる。
日曜日の夜に制服は、どう考えても浮いている。
私は何をしてるんだろう。人妻が制服で夜道を歩く。
職質されたら終わりだな。
頭では拒絶してるはずなのに、身体だけが嬉しそうに目的地へ向かう。
ドーピングって、たぶんこんな感じなのかな。
駅前。19:00。ぴったり。
そして――いた。
光。
制服姿の光は、ずるい。
ずるいの一言で済ませたいくらい、ずるい。
スカートは私より自然に短くて、当時みたいな着崩し方。髪も表情も大人で。
それなのにコスプレ感がない。むしろ“正解”として成立している。
過去と現在のいいとこ取りセットみたいで、視界が一瞬眩しくなる。
見惚れるな。
見惚れないなら苦労しない。
光は私を見るなり、口元だけで笑った。
「……やっぱ着て来たんだ」
“来ると思ってた”じゃない。“来るよね”の確信。
私の意志が、私のものじゃないみたいで腹が立つ。
「ば、ばかじゃないの」
「それ、私のセリフ」
「……やめて。ほんと、死ぬから」
「制服で? 今さら?」
光が近づく。
距離が一歩縮むたび、理性が一枚ずつ剥がれていく。
何もできないまま立っていると、光の指が顎に触れて、少し顔を上げられた。
そのまま耳元に唇が寄る。
「似合ってる」
言葉ひとつで、耳を中心に顔が痛いくらい熱くなる。
なんてチョロいんだ、私。
「似合ってない。無理。犯罪」
「ヘーキヘーキ。共犯だから」
「うっさい……」
指先が耳たぶに触れた。
やわらかくつままれると、びくりと体が反応する。口では抵抗してるのに、体が正直すぎる。
からかわれてるのはわかってる。
でも「やめて」と言うほど嫌じゃなくて、むしろもう少し――なんて。
制服を着た時点で、頭のどこかがやられているのかもしれない。
「懐かしい。こうやって花恋で遊んだっけ」
くすくす笑う光に、少し腹が立つ。
「私で遊ぶな」
「あは、怒った?」
「怒ってないけど、人が多いから」
「はーい」
光はぱっと離れて歩き出す。私もついていく。
熱は驚くほどすっと冷めていた。
制服のスカートが揺れるたび、罪悪感が揺れる。
「どう? 私のJK姿。可愛いでしょ」
恥じらいゼロの余裕顔。そんなの反則だ。
否定はできない。でも肯定したら、見透かされる気がして悔しい。
「……ノーコメント」
「認めるってことでいいのかな?」
「ノーコメントって言ってるでしょ」
他愛のない会話をしながら、懐かしの公園に入る。
放課後、よくだべっていた場所。
ブランコがかすかに揺れている。誰もいないのに。
風のせいか、私の罪のせいか。
光がベンチに腰を下ろす。
私も隣に座る。近い。近すぎる。
でも離れたら終わってしまいそうで、動けない。
「花恋」
「なに」
「あの頃に戻りたい?」
「……戻れたらいいのにって、思う」
「そっか」
吐息が白くならない季節なのに、言葉だけが重い。
「戻れたら、私は壊さないで済む」
「戻れても、たぶん何もしないよ。花恋」
「……」
「だって花恋、優しいから。正しいから。壊さないほうを選べるから」
褒められてるのに、胸が痛い。
正しいって、なんでこんなに苦しいんだろう。
光が手を差し出した。恋人繋ぎの形。
指先が、私の指先のすぐ手前で止まる。
私は反射的に、自分の薬指を見た。
指輪がそこにある。金属の重さじゃない。約束の重さ。
「どした?」
「あ……いや」
声が小さくなる。
光は察したのか、恋人繋ぎをしなかった。
代わりに小指だけ。
私の小指に、光の小指がそっと絡まる。
指輪を避けた場所。境界線の上で、ギリギリの“今”。
光が笑った。
「これなら、セーフ?」
「……セーフって何」
「五分の一恋人繋ぎ」
「アホらし」
「知ってる」
夜風が公園の葉を揺らす。
遠くで車が走る音。どこかの家のテレビの音。
世界は普通のままなのに、私だけが制服で、小指で、恋をしている。
ふとスマホを見る。19:18。
秒針が淡々と進む。止められない。
光が空を見上げる。
「ねえ花恋」
「なに」
「今日、楽しい?」
「……楽しくないって言ったら?」
「じゃあ、帰す」
「……」
帰したくない。帰りたい。
帰したくない。帰りたい。
頭の中が観覧車みたいに回る。
「……少しだけ。昔に戻れたみたいで、楽しかった」
小指に力が入る。離したら終わってしまいそうで。
「そっか。なら良かった」
しばらく、手を繋いだまま黙っていた。
「……そろそろ帰ろっか」
沈黙を破って光が立ち上がり、駅の方向へ向かう。
離れた小指を名残惜しそうに撫でながら、私は黙ってついていく。
「そうだ、明日暇なら、また家こない?」
突然の提案に、体がびくりと跳ねた。
「え、そんな悪いよ。ほら、私とばっかりじゃ彼氏さんにも悪いし」
その場しのぎの言い訳を並べる。
本当は行きたくてたまらないのに、行ってしまったら理性が崩壊しそうで怖い。
「大丈夫だよ。彼氏、今週出張だし。それにせっかくの連休じゃん?」
あっけなく言い訳の牙城が崩れ、退路が断たれる。
「花恋だって、ホントは期待してるくせに」
ダメだ。私の考えは、彼女には筒抜けだ。
断ることもできず、ただ首を縦に振る。
「明日の夕方、私の家に来てよ。昼間に片付けしとくからさ」
「うん」
「じゃ、また明日」
そう言って光は駅のホームに消えていった。
彼女と別れた途端、ふっと現実に戻る。
さっきまでの時間は、遊園地みたいに甘くて楽しくて、夢みたいだった。
でも現実に残るのは、制服を着て夜に歩いている私という事実だけだ。
ギャップで風邪ひきそう。
……夫が帰ってくる前に帰ろう。こんな恥ずかしい格好を見られないためにも。
この醜態を隠すため、いつもより早足で家に向かった。




