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2.恋人ごっこ

明瞭に声が聞こえたのは、そのあたりまでだった。

三次会だ。そう、二次会のバーについて行って、光たちと楽しく話して――。


でも、テキーラ観覧車がテーブルに届いたころから、私の記憶はぷつりと切れている。


「花恋の家も知らないし、外で放置するわけにもいかないから、家に泊めちゃった」


シャッ、とカーテンが開く。

私の罪を咎めるみたいに、初夏の白い日差しが容赦なく目に差し込んだ。

布の波に合わせて舞い上がった微かな埃が、光の柱の中でゆっくりと演舞している。


目の奥に鈍い痛み。

顔を上げると、歯の間から漏れる息がひどい。お酒臭さと、胃の奥からあふれ出るような腐敗臭。

それが、昨夜の私をすべて物語っていた。


「記憶が飛ぶまで飲んで、そのまま、ここへ……?」

「正確には、駅で“これはダメだ”って思って。連れてきた。花恋、うち来たとき自分の家と勘違いしてたよ」


思い出したように笑う光を見た瞬間、肘から先が震えた。


「あの、私って……ごみカス……?」


裏返った声は、どういうわけか妙に明るかった。明るくしないと、今すぐ泣きそうだったからだ。


目がぐるぐる回る。眼球が痛い。

現状を把握していくにつれて、絶望が混じったため息がこぼれた。


「まあまあ、水のみな」


光に肩を抱かれて、ベッドの背に体を預ける。

好きな人に。初恋相手に。そんな相手に介抱されながら、呻きつつ受け取ったペットボトルを勢いよく飲んだ。酒浸りの体に水分が行き渡っていくのがわかる。

それでも視界の回転はしぶとく続く。


朝だ。朝じゃん。

夫になんの連絡もせずに外泊してしまった。

連絡は来ていたのか。来ていたとして、返信できているのか。


不安と後悔と罪悪感が、観覧車みたいにぐるぐる回っている。

同時に、光の顔を見ても落ち着かない。なにもしていないはずなのに、ひどく落ち着かない。

なにか悪さ……した? いや、してない。してない、はず。


「落ち着いた?」

「あー、まあ……少しは」


失意の中でうずくまっている状態を「落ち着いた」と呼んでいいなら。


半分ほど飲んだペットボトルを持つ手から、力が抜けていく。

帰らないと。今すぐに。光にお礼と謝罪をして、他の友達にも迷惑をかけただろうし、謝らなきゃ。

やることは山積み――なのに、体が重くて動かない。普段なら一つずつ片付けられるのに。頭の重さが、全身の判断を鈍らせる。


「あ、あと服、洗っておいたから。はい」

「え……?」


ぽん、と手渡されたのは、昨日着ていたスーツのシャツとズボン。

そして、身に覚えのある柄の下着――。


「ん……? ええぇ!?」


ベッドから跳ね起きる。事の重大さに戦慄して、服の上から体を確かめた。指先の手触りに血の気が引く。

今さらながら、着ているのが可愛らしいパジャマだと気づいた。


「それ、わ、私の!」

「そだよ。これは花恋が――」


聞くのが怖い。怖すぎる。

今すぐ飛び出して逃げ出そうと膝が勝手に動きかけたとき、光が口元を引きつらせた笑みで続けた。


「トイレで盛大に吐いて、服にもかかって。子どもみたいに“着替えたい”って駄々こねたから、一緒に服脱がしてお風呂に……」

「殺して」


ベッドから転げ落ちるみたいに床へ落ち、深々と頭をこすりつけて謝罪した。


「強く生きようよ」


光は肩をすくめ、私の肩をぽん、と叩いた。


「大丈夫。なるべく身体は見ないようにしたから」

「ああああああ」


悲鳴が、部屋の白に反射して弾む。


「まあまあ、とりあえず着替えよう。後ろ向いてるから」

「ああ……もう、あぁ……」


情けなくて、言葉にならない。

半泣きで洗い立ての服と下着を受け取り、もたつきながら身につける。

初恋相手の家にお邪魔しただけでなく、服まで洗ってもらった。私は人として何段階か落ちた気がする。


うつむくと頭が重く、また吐き気がせり上がる。

下半身の風通しが少し悪くなるのを感じつつ、泣き崩れそうになりながら振り向くと、光が少し真剣な顔でこちらを見つめていた。


「見てるじゃん……」

「あ……ごめん、ごめん。花恋が綺麗だから、つい」


すぐに、いつものニコッとした笑顔。

なにか変だ、と感じる。でも今は考える余裕がない。


――そういえば、夫に連絡。


手探りでバッグを探り、スマホをつかむ。黒い。電源が落ちてる。

「充電器、いる?」

差し出された白いコードにうなずき、震える指で挿した。りんごのマークが、胸に悪い鼓動みたいに立ち上がる。


起動した瞬間、通知の雨。未読七。夫から三。


――「今日はバスケの後飲み行ってくる」19:12

――「遅くなる、先に寝てて」22:01

――「どこ?」3:12


最後の一行が胃の底に沈む錘になった。

打ちかけた「ごめん、同窓会で――」を消して、また打って、また消す。

正直に言うって、何をどこまでのことだろう。何もしてない。してない、はず。……はず。


「先に、水、もう一口」


光の声は柔らかい。私はうなずいて、ペットボトルを傾ける。

喉を通る冷たさが、罪悪感の温度だけをくっきりさせた。


「……私、昨日なにか、言ってなかった?」


聞いた瞬間、心臓がひとつ強く跳ねる。

光は少しだけ目を細め、窓のほうへ一度視線を逃がした。


「後で話そ。まずは回復。トースト焼く? 無理ならゼリーでも」

「ゼリー……が、いい……」


返信欄に短く打つ。

――「ごめん。二日酔い。あとで話す」


送信音が小さく鳴り、部屋の白に吸い込まれていった。



その後、光に手を引かれてリビングへ。

昨日のテキーラ観覧車は、まだ脳内を回り続けている。今度は、不安と後悔と罪悪感を順番に乗せ替えながら。


少し食べて落ち着いたころ、光はスプーンを置いてこちらを見る。


「ね、花恋。昨日のこと、少しだけ回収するね」

「……はい」

「駅で手すりに抱きついて、私が止めた。『ナマケモノのまねー』って言ってた」

「やだ……」

「で、タクシー。鍵穴に鍵が刺さらない遊びを五分くらいやって、うちに来た。トイレで吐いて、お風呂入って、水飲んで、寝た」

「……ありがとう」

「それと」


光は一呼吸置いて、声をやわらげた。


「『ダメ元で言うけど、好きだったんだよ』って、三回言った。最後は――『いまも』」


世界が一拍、静かになる。

冷蔵庫のモーター音、遠くを走る車の音、外から入る初夏の鳥の声――全部が遠のいた。

頭が理解したころには、手の中のペットボトルがくしゃくしゃになっていた。


「……過去形?」と口が勝手に動く。

自分の声がやけに遠い。耳の奥で、心臓だけがドンドンしている。


光は指でテーブルの節をなぞりながら、丁寧に並べるみたいに言った。


「一回は“だった”。二回目は“です”。三回目は“いまも”」

「三部活……いや、三部作……」

「最終章が“いまも”。で、今はシラフの特別篇。――変わってない?」


喉が一気に乾く。

何を言えばいいのかわからず、金魚みたいに口をぱくぱくさせた。


「わ、私は、その、ちが……いや、ちがわない! ちがえない! ていうか、えっと……」


語彙が逃げ、膝がくっつく。目が泳ぎ切っているのが自分でもわかる。


ここで言ったら終わる? 言わないほうが終わる?

スマホの画面に残る「どこ?」が、まぶたの裏で点滅する。

薬指の輪がわずかに重い。金属の重さじゃない。約束の重さだ。


いま口を開くのは、約束に刃を当てること。わかってる。ちゃんと、わかってる。


でも、黙ったまま飲み込むたび、胸の中で何かが痩せていく。

声にならなかった気持ちは沈殿して、腐る。

言えばこの関係が壊れるかもしれない。

でも言わなければ、私の中の何かが死ぬ。


唇が乾いた音を立てる。小さく息を吸った。


「……変わって、ないです」


言い終えた瞬間、胸の奥で何かが跳ねて、すぐ沈んだ。

光の喉が、ごくりと小さく鳴る。


一瞬だけ目を伏せ、まぶたをゆっくり閉じた。長いまつげの影が頬に線を作る。

伏せたまま、口角だけが小さく上がった。嬉しいときにだけ増える、目尻の細い皺がひと筋。昔から知っている。


「じゃあさ、その気持ちが変わっていないなら――一週間だけ、恋人ごっこしよっか」


言葉は柔らかい。ただ、光の声にほんの少しだけ力が入った。

言い終えたあと、彼女は私の方へ上体をほんのわずか傾け、すぐ戻した。

指先をこすり合わせる癖が出て、小刻みに震える影がテーブルに揺れる。


「え……?」


予想外の答えに頭が真っ白になる。

常識と衝動が両腕を引っぱって、どちらにも進めない。心臓が騒ぐ。心がうるさい。嬉しくて、唇が震えそうだ。


初恋が叶うなんて、痛いほど嬉しい。


でも、ダメだ。

私は既婚者で、帰る家があって、不倫で。

光は彼氏がいて、来月には結婚予定で、浮気で。


「ダメだよ。私、既婚者だし。光だって、彼氏さんがいて、来月結婚するわけだし」


言うたび声が小さく震える。

光は俯いて、私の薬指に指先をそっと触れた。少し冷たい指が指輪の位置をなぞり、すぐ離れる。

視線が戻ってきたとき、彼女の目はふっと潤んでいた。涙が落ちるほどではない。内側の水分をぎりぎりでこらえている感じ。


「うん。だから『ごっこ』。本当に恋人同士にはならないし、なれない」


「待って待って待って! まだ理解できていないから!」


喉がきゅっと細くなって、空気が足りない。


「やっぱりダメだよ。こういうのは好きな人じゃないと」


否定したい。正したい。

たぶん私が望んだから、光はこう言ってくれている――そんな気がして、なおさら怖い。


「なら、いいじゃん。私の好きな人なんだから」

「え……」

「待って待って! さらに理解できていないから!」

「待たない。理由とかは一旦置いといてさ」


光は続けた。


「一週間の“ごっこ”だから。結婚する前の思い出作り。花恋の返事は?」


笑みを浮かべているのに、目は笑っていなかった。

瞳の奥に薄い翳りが差したまま、揺れている。


言えば破滅に向かう。

でも言わなければ、私の中の何かが死ぬ。


薬指の輪が、また重くなる。金属じゃない重さ。約束の重さだ。


「……今決めないと、だめ?」

「うん。今ここで決めて」


光の声はやわらかいのに、逃げ場は用意してくれない。


断れ、私。断らないと。

なのに、喉から出たのは反対の言葉だった。


「……お願いします。でも、絶対一週間だけ。延長しない。約束」


じゃないと、私の欲望は止まることを知らない。

そうなったら本当に人として終わる。今の時点でもう大概だけど。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


光がぺこりとお辞儀をする。つられて私も体が斜体になる。


「ま、とりあえず今日は朝ごはん食べて帰りなよ。旦那さんも心配してるでしょ?」

「あ、うん」


その後はさっきの話が嘘みたいに、世間話をして帰り支度を始めた。



立ち上がると、足取りはまだふわふわしているのに、さっきより地面が近い。

玄関で靴を履く私を、光がみつめている。


「そういえば、明日って夜なら空いてる?」

「うん」

「じゃ、明日の夜会おうか。また連絡するね」

「わかった。……あと、今回は本当にお世話になりました」


人として最低な部分をお見せして。

ごっこ遊びとはいえ一週間、こんな彼女ですがよろしくお願いします。

そんな思いを込めて頭を下げた。


「花恋」


声が優しいものだから、下げた頭もゆっくり上がる。

目が合った光は、口パクで「約束」と告げた。


小さくうなずき、ドアを閉める。


エレベーターの鏡に映る私は、目の下にまだ影を残しながら、ほんの少しだけ血色が戻っていた。

外はまぶしい。初夏の光は分け隔てなく降りる。


ふらつきながら深く呼吸をする。喉の奥あたりから昨日のお酒の匂いと不快な腐敗臭が鼻に抜けた。

それから髪からだろうか、少し澄んだ香りが混じる。


光の匂いだ。たぶん。

集中してその匂いだけを嗅ぎ取る。シャンプーだろうか。いつもの私とは違う匂いを纏って朝帰り。

私が逆の立場なら絶対不倫を疑ってるだろうなと乾いた笑いがこぼれた。


「同窓会で楽しくなって調子に乗って三次会まで飲みまくり、前後不覚になって友達の家に運ばれて朝帰り」


私の説明を黙って聞き終えた夫が要約する。


「その通りです」

「うん……まあ楽しかったならいいんじゃない?」


半ば呆れたような口ぶり。そりゃそうだ。私だって夫がそんな一晩を過ごして帰ってきたら呆れる。


「ごめんなさい」

「いや無事ならよかったよ。帰ってきても寝室にはいないし、連絡もないし」

「すみません」

「もう謝罪は十分だよ。君が反省してるのはよく分かったし」


これで話はおしまい、というふうに夫は椅子から立ち上がって洗い物に向かった。


「あ、最後に。泊まった家って、男子じゃないよね?」

「違う違う。女の子」


「ならいいけど」と安堵する。

当然だけど、夫はそこに何も疑問を抱かない。私が女の子と不倫するなんて、発想自体存在しないらしい。


「とりあえず、シャワー浴びて今日は寝なよ。家のことは僕がやっておくから」


ありがとう、とお礼を言ってのろのろ立ち上がる。

夫との悩みがひとつ終わり、頭が少し軽くなった気がした。その隙間を埋めるように頭痛と吐き気がなだれ込んできて、まだまともに歩けない。


それでも、夢と悪夢とのシャトルランが、ようやく終わった気がした。


無気力に服を脱ぎ、下着を見たところでまた悪夢を思い出してぐらつく。

鏡に映ったくたびれた顔を見て、泣きそうになる。いや、少し泣いた。


人生の汚点が、他の人とは少し違う気がした。

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