1-1 ただの同窓会
金曜日の朝。カーテンのすき間からこぼれる光がテーブルクロスの格子を白く洗い、湯気の立たないマグカップの表面に私の顔が薄く揺れた。
結婚して二年。新婚からは卒業したけれど、円熟には程遠い。
喧嘩はしない。ただ、よく舗装された道路を並んで歩いているみたいで、段差のない滑らかさが、いつの間にか心の起伏まで削ってしまった気がする。
夫との「当たり前」は肌に馴染む。歯ブラシの置き場、洗濯の曜日、スーパーの通路。
子どもはまだいない。
お金のこと、最近すこし距離のある夜のこと、いろいろ理由はあるけれど――いちばん大きいのは、私が自分の腕に赤ん坊を抱く姿をどうしても想像できないことだ。
「……今日、夜、同窓会でしょ」
トーストをかじる夫が、ニュースの音量を下げずに言う。
「うん。高校のやつ」
返事をしながら、胸の奥で細かな泡が静かに立つ。連休前の朝は、空気が軽い。袖口の糸が少しだけ肌に触れるたび、何かを思い出しそうになる。
男の人も来るし、既婚を理由に断ろうか迷った。
それでも行くと決めたのは――初恋相手の光に会えるかもしれないから。淡い、ほんとうに淡い期待。
「へぇ。俺、夜はバスケのサークルあるから。たぶん飲みも」
「そっか」
「遅くなるかも」
それで会話は終わった。嫌いじゃない。別れたいと思ったこともない。
ただ、目の前の人が「いちばん近い人」じゃなくなって久しい。
シンクに皿を置く音が思ったより大きく響き、私は笑ってごまかす。
「楽しんできなよ」
夫はリュックのファスナーを上まで引き、玄関で靴ひもを固く結ぶ。
「うん。行ってきます」
「いってらっしゃい」
口に出した瞬間、胸の中に指先ほどの空洞ができた。
夫を見送ってから、私も身支度を始める。
鏡の前で前髪を整え、薄く口紅を引く。会社へ向かう支度は、もう身体が覚えている。舗装路の上を歩く足は迷わない――それでも今日は、靴が少しだけよく鳴る。
階段を下りる踵のリズムが、いつもより半拍前に出る。
朝の光は白く、廊下の壁紙まで明るい。ドアノブの金属が指に冷たく残り、鍵を回す音が胸骨に届く。
連休前の金曜日、薄い膜のような期待が空気に混ざっている。名前のついていない“もしも”が、交差点の向こうで揺れて見えた。
深く息を吸い、そのまま歩き出した。
*
金曜日の朝を抜けて、私はいつも通りの駅で、いつも通りの改札を抜けた。
スーツの群れに混ざってICカードをタッチすると、「ピッ」という軽い音が胸骨の奥でワンクッション遅れて響く。
ホームに吹き込む風は、線路の鉄くささとコーヒーショップの甘い香りを半々で運んできていた。
電車の中は、連休前のせいかいつもより少しざわついている。スマホで旅行サイトを開いている人、キャリーケースを足元に置いて立っている人。
私はつり革を握りながら、窓ガラスに映る自分の姿を確認した。
ガラスに映る自分は、昨日と同じはずなのに、口紅の線だけが気持ち濃い気がした。
オフィス最寄りの駅で降り、ビル街へと流される。信号待ちの列、コンビニの袋、パン屋から漏れるバターの匂い。
ガラス張りの自社ビルに入ると、いつもの自動ドアの風がタイツ越しに脚を撫でた。
カードリーダーに社員証をかざす。「ピッ」。さっきの改札より少し低い音がして、表示が緑に変わる。
その小さな光が、今日もちゃんと“労働”が始まることを告げていた。
「花恋先輩、おはようございます!」
フロアに入って自席にたどり着く前に、後輩の美咲がデスクの島の角から飛び出してきた。
私より少し背が高く、すらりとした体つき。高い位置で結んだポニーテールが、歩くたびにリズムよく弾む。白いシャツの袖はいつも肘までまくれていて、手首には安物っぽいカラフルなゴムが何本も巻かれている。
「おはよう」
「今夜、同窓会でしたよね」
待ってましたと言わんばかりのテンションで、美咲が顔を近づけてくる。
「いいなあ、映画みたいな展開、絶対起きますよ」
「ただ居酒屋で飲むだけよ。それに、映画は上映時間が決まってるからきれいに終わるの。現実は、翌日が来る」
「名言っぽい!」
「茶化す暇あるなら、さっさと自分の仕事してきなさい」
「はーい」
美咲は大げさに回れ右して自分の席に戻っていく。
本当に嵐みたいな子だ。
PCを立ち上げる。起動画面がゆっくり色を変えるあいだに、今日のタスクの紙を確認する。
未読メールの数字は、連休前サービスでいつもより盛り盛りだった。
受信トレイを開く。件名がきれいに縦に並ぶ。
〈本日中のご対応お願いします〉
〈至急ご確認ください〉
〈ご相談〉
一つひとつクリックしていく。取引先からの依頼、社内調整の連絡、会議の議題。タスク表のセルが、淡い色でじわじわと埋まっていく。
指はちゃんと仕事モードで動いているのに、視線だけが、ふとした拍子にモニター右下の時計を拾ってしまう。
九時、十時、十一時。
――時間だけが真面目に進む。
今日はただの金曜日。ただの、はず。
“はず”が、勝手に斜体になる。
***
昼。ビル一階のテナントに入っているカフェは、連休前の浮つきと、期末の疲れと、いろんな種類のため息でほどよくにぎわっていた。
レジ前のショーケースには、ラップサンドとパスタサラダと、カロリーを反省している風のスイーツが並んでいる。
日替わりのパスタを頼んでトレイを受け取ると、案の定という顔で美咲が向かいに座る。
「ご一緒しまーす」なんて、形式上のワンクッションを挟むこともしない。
ポニーテールが椅子の背でふわりと揺れ、彼女のトレイには山盛りのポテトと照り焼きチキンのサンド。サラダ的なものは見当たらない。
若いって強い。
「で、先輩。質問です」
「いやな前置き」
フォークをサラダに向けようとした瞬間だった。
「“恋愛、してますか”」
フォークが皿の縁をかすり、カトンと妙に大きい音が出た。
カフェのBGM――洋楽カバーのイントロにすら一瞬勝った気がする。
「結婚はしてる」
「それ、質問の答えじゃないやつです」
ですよねー、という顔で、美咲はフライドポテトを一本つまみ上げる。油で光る表面がやけに眩しい。
「同窓会って、“いま”の自分を点検する儀式らしいですよ」
「誰の説?」
「昨日、ネットの記事で見ました。たぶんバズり狙いのブログ」
「情報源が軽い」
そう言いつつ、ちょっと興味はある。
美咲は続ける。
「なんでも、バレるんですよね」
「なにが」
「“もう好きじゃない”と“まだ好き”が、です」
心臓がひと歩き、内側で前に出る。
さっきまで普通にしていた鼓動が、半歩だけ前のめりになる感じ。
私は水を一口飲む。
冷たさが、喉の形をなぞって食道を落ちていく。
紙コップの縁にうっすらついた口紅の色が、さっきの鏡の前の私とつながる。
「……私はただ、昔の友達に会うだけ」
「なら、いつもより口紅が濃いのは偶然ですね?」
なんでわかるの。
「その観察力、仕事に使ってほしいわね」
「使ってますよ〜。先輩が午前中、何回も時計見てたのも把握してます」
「怖いんだけど?」
美咲は「えへ」と笑ってから、ポテトをもぐもぐしつつ首をかしげる。
「じゃ、最後に優しい質問」
「さっきのがぜんぶ優しくないのは自覚あるんだ」
「“いまの先輩が、いちばん会いたい人は誰ですか”」
サラダの上のブロッコリーが、一瞬だけピントの合う被写体になる。
答えの輪郭だけが、テーブルの木目みたいにじわっと浮いてくるのに、言葉にならない。
いちばん会いたい人。
夫って即答できたら、どれだけ楽なんだろう。
でも今の私の喉は、違う名前の形をしてしまっている。
その名前を出した瞬間、この昼休みはラブコメどころか昼ドラになる。
フォークの先でレタスを押しつぶしながら、私は無理やり話題を切った。
「午後、会議あるでしょ。戻るよ」
「逃げた」
「昼休みもう終わるでしょ」
「了解です。じゃ、連休明け――」
美咲はフォークをくるりと回して、ちょっといたずらっぽく笑う。
「期待してますからね」
「圧がある」
「応援です」
応援してほしい対象が、仕事なのか、同窓会なのか、自分自身なのか。たぶん全部なんだろう。
***
午後はいつも通り仕事を片付ける。
集中して仕事をすると時間の進みは早いもので、気が付けば定時を少し過ぎていた。
帰り支度のざわめきがフロアを満たす。椅子のきしむ音、コピー機の最後の一枚、エレベーターを呼ぶ電子音。
そんな音に紛れて、美咲がニヤニヤしながらパーティションの向こうから顔を出した。
ポニーテールが、さっきより元気よく跳ねている。そのエネルギーどこから来てるの。
「先輩」
「なにその顔」
「連休明け、顔で全部わかるんで」
やっぱり怖いん、この子。
「勘の良さは仕事で使って」
「使ってますって。じゃ、とりあえず“いってらっしゃい”だけ言っときますね」
「ただの同窓会って言ってるでしょ」
「ま、応援してます」
ウインクまでつけてくるサービス精神。
私はそれを見なかったことにして、PCに最終確認をしてから、フロアを後にした。
自動ドアがセンサーに反応し、夜の匂いを連れて開く。
オフィス街特有の、冷えたアスファルトとタバコとラーメン屋のスープが混ざった空気。
ビル風が、書類の角で頬を撫でたみたいに掠める。
舗装路を知っている足取りのまま、ほんの少しだけ速くなる。
パンプスのヒールが、アスファルトにいつもより軽いリズムを刻む。
ただの同窓会。ただの再会。ただ――それだけ。
そう何度も念押ししながら、信じきれない自分を胸の奥に畳んで、約束の居酒屋へ向かった。




