太陽
「天都美月よろしくね」
「こちらこそよろしく」
スポットライトの光は私を照らしていました。天都美月。珍しい名前でしたが、珍しい名前だね、だなんてありふれた台詞は言いません。
「なんて名前?」
「緒方太陽。周りからは太陽って呼ばれてる」
「太陽君。美月って気軽に呼んで」
今思えばそれはありふれた会話でした。お互いが出会い、お互いを知り、お互いに会話をする。そんな自然な流れに逆らうこともなく私たちはお互いの好奇心を刺激し合いました。
「お、二人いい感じじゃん。じゃっ、頑張って」
そう言って杉田は私の背中を軽く叩いあと、仲間の元へ戻って行きました。
なあ杉田、ちょっと格好良過ぎないかな。さぞかし順風満帆なストーリーを描いているんでしょう。あれくらいのアクションを起こさなければ、反動は起こらないものなのでしょうか。不安ばかりが募るスタートとなりましたが、うかうかしてられる暇もありません。なんとかしないと始まらない。そのとき、
「太陽君は何になりたいの?」という唐突な難問をぶつけられました。何になりたいのか。と問われても、はっきりとした未来のビジョンは全くありませんでした。なので、いずれ就くであろう職業について答えました。
「医学部だし、医師になれたらいいなあとは思ってる。でも何科っていうのはまだ決めてないけど」
「へえ、医学部。ってことはよっぽど頭いいんだね」
彼女は上目遣いでこちらを見てきました。少しぎくっとしましたが、それは極自然な動作に思えました。
「そんなことないよ。君は?」
「私はなんにもないの。なーんにも」
彼女は真っ直ぐな目でそう答えました。
「じゃあ、学部は?」
「美術専攻の文学部。呑気なもんでしょ?」
私はそのとき首を横に振りました。
芸術とはある種の自己表現であり、自己の薄い私にとってはあくまでも享受するものであって、決してこちらから提供できるものではありませんでした。笑いながら語りかける彼女は続けて言いました。
「私、絵を描くのが好きでね、絵を描いてると自分の輪郭が掴めそうな気持ちになるの。私ってこういう絵描けるんだあ、って」
「ふーん、俺の場合はこんなのしか描けないのか、って情けなくなるけどなあ」
思っていたことがそのまま言葉になっていました。どうしてでしょうか。出会ってまだ間もないのにも関わらず、気の置けない存在として認めつつありました。
「今日さ、よかったら私の描いた絵見てくれない?」
「いいの?」
「いいよ」
彼女がどういった人間なのかはまだ定かではありませんでしたが、どこか透明な雰囲気。友人の日村にも通ずる色。いや、それだけではありません。汚れのない、何からにも染められない全くもって透明な純色。
そんな特異な存在に私みたいな雑色が少しでも混ざってしまうことによる弊害を何よりも恐れていました。それなのに私は彼女に導かれることを選びました。その本能的な選択は、自分が如何に卑しい存在なのかを如実に表していました。
夕方になり、私は美月から指示された場所に一人で待っていました。すると、手を振りながらゆったりとした足運びでやってくる彼女。
「ちゃんと来てくれたんだ」
「そりゃあそうでしょ。で、どこ行くつもり?」
「家。家に置いてあるの」
私は言われるがままに彼女の後ろをついて行きました。これといった会話をするわけでもなく、真夏の綺麗な夕焼け空を見たり見なかったりしながら、ただ淡々と歩き続けました。
長い坂を上った先の高台には高級住宅街が立ち並んでいて、東京人でありながら、こんなところがあったのかと私は疎外感を覚えました。
「本当に大丈夫? 来てよかったの?」
私は途中で場違いな気がして美月に訊きました。
「いいのいいの」
彼女はあっけらかんとした声で答えました。
それにしても、こんなに歩かされるだなんて聞いていませんでしたが、文句を言うよりも疲れ、同時に期待していました。
三十分ほど止まることなく歩いたところで、ようやく目的地らしい大きなお屋敷が見えてきました。
「着いたよ」
何気なく美月が呟くと、そこには立派な庭と門を兼ね備え、開かれた車庫には新車のようにピカピカとした白のロールスロイスが止められており、見るからに豪壮な構えの邸宅がありました。
「ここに住んでるの?」
「うん。入って」
「お邪魔します」
なんだか畏れ多い気持ちを抱きながらも、玄関に迎えられた私は靴を脱ぎ、いつもは気にもしない靴の並びをきちんと整理して廊下に上がりました。
豪華な家具に高そうな雑貨があちこちに置かれている中、螺旋状の階段を上ると、いくつもの部屋が並んでいました。
「ここが私の部屋」
そう言われて案内された部屋には何枚かの絵画が飾られており、その中でも私の目を引いたのは、イーゼルに飾られた一枚のキャンバスでした。
そこに描かれていたのは、山や海や風や雷などの地球上のありとあらゆる自然が、真っ赤に焼けた太陽と明るい満月の光に照らされている絵でした。そこには昼や夜の概念はなく、自然科学の理論も存在しません。時間や空間を超越して、混在しながらひとつの枠に収まっているのです。それはある種の理想でもありました。美月は絵を通して理想を描き、表現していました。
「うわ、凄っ」
ボソッと漏れた私の心の声を、彼女が聞き逃すことはありませんでした。
「凄いって言った? どこどこ? 具体的に」
「うん……、なんだろう。概念とか規則性のない感じ」
この返答に対して、美月は私の顔からその絵に視線を移し、しばらくじーっと見ていました。
「んー、実はさ、書きたいから書いたってだけなんだよねえ。だからあ、もし誰かに聞かれたらそうやって答えるようにしよっかな」
その返事と美月の表情は実に自然で穏やかな顔でした。確かに私の考えすぎだったのかもしれません。ですが、彼女が本当に意図せず、あの絵を自然に描いていたのだとしたら……
理想は常に支離滅裂で抽象度が高く漠然としています。何からにも囚われず、果てしなく自由。全てを超越しているのです。そして人間をいつも苦しめます。具体的に描けば描くほど、縛り付けた縄がきつく締め付けられるように苦しくなるのです。そんなものをここまで繊細に描くことができるのでしょうか。やはり彼女には「主」が存在しないのでしょうか。
だとしたら、彼女は常に現在と向き合い、現在を更新し続けているということになります。そんな無秩序の世界の住人は、言葉が過去と未来の概念を生み出したのと同様に、絵を描くことによって絶対的な現在を生み出しました。
私にとってその絵は聖書であり、天都美月という女性はキリストのような存在になりつつありました。
「それにしても、絵上手いね」
「本当に? そんなこと言われたの初めてかもなあ。あんまり友達とかいないからさ、私」
そう言う彼女の雰囲気は、特別それに悩んでいる様子でもありませんでした。
そんなときに玄関で鍵を開ける音がしました。
「ただいま。誰か来てるのか?」
どうやらその野太い声の男性は美月の父親でした。
「そうだよ、彼氏」
心臓が止まりそうになりました。そのとき美月は笑っていましたが、私はすました顔をするでもなく、訂正させるでもなく、動揺しぱなっしでいました。
「今なんて言った?」
「あ、ごめん。まあでもお父さんの前ではそういうことにしといて」
そういうことにしといて、と言われてもどうしていいのか分からないし、冷静ではいられません。
私があたふたすると同時に階段を上ってこちらの部屋に近づいてくる音がしました。
「すいません、お邪魔してます」
「ああ、それは構わないんだが、いつの間にお前男なんて」
美月の父親は部屋のドアを開けると、娘の顔を見てほっとした安堵の表情を浮かべていました。「優しそうなお父さんで良かった」とそう思えたのも束の間、キャンバスに描かれた絵を見るとたちまち彼は表情を曇らせました。
「またこんなの描いてたのか。大学は?」
「ちゃんと行ってるって」
「そうか。だからといってこの……、懲りないな。それともそんなに大学へ行きたくないのか?」
彼はキャンバスを片手に取ると、目を細めて小刻みにうんうんと頷きながら、何も言わずにそっと元の場所に戻しました。
「そう言うんじゃなくてさ」
「文学部だって妥協してやってるんだぞ。そこの君も同じ学部かね?」
「僕は医学部ですけど……」
「それは立派だな。それに比べて……」
険悪な雰囲気が漂っていました。美月は俯いたまま何も言葉を発さず、黙り込んでいました。私はなんとか彼女を擁護しようとしました。
「比べる必要なんてないんじゃないですか? 少なくとも僕はこの絵を見て感銘を受けました」
美月の父親は少し呆れ笑いをしてこう言いました。
「君の親御さんは間違いなく立派だよ。だけどね、こんな天才気取りのちっぽけな絵で感銘を受けた、だなんて笑わせてくれるな。感受性が豊かなんだか馬鹿になってんだか。それとも理解者のつもりか?」
天才気取りだなんて。彼女はそんなマスクを被ったピエロなんかじゃない。それに、気取って描けるものなんかでもない。それがなぜわからない? 親子なのにどうしてこんなにも齟齬をきたす?
「いつか理解者になれるはずです」
「まあ好きにしてくれ。熱心なファンができて良かったな。これで満足か?」
そう聞かれると美月はもじもじとしながら慎重に答えました。
「いや……。実は今度開かれるコンテストに応募しようかと思ってて……」
それを聞くと彼女の父親は肩を落として大きなため息をつきました。
「ダメだ。あのな、才能がある奴なんて腐るほどいるんだ。なにもお前だけじゃない。これを評価したのは誰だ? この子だけだろ?」
「いや、それは……」
「ファンだったらな、作品の善し悪しなんて関係なく褒めるに決まってるじゃないか」
「だって……」
「だってじゃない。それになんのためにあの大学に入れてやったと思ってる? お前には将来安定した豊かな生活を送ってほしいからだよ」
「エゴイスト」。その言葉を思い浮かべるのに時間は掛かりませんでした。私と美月は出会ってまだ間もないし、お互いのことも殆ど何も知らないような未熟な関係。それでも彼女の自己表現の手段を奪われつつある現状に、私は干渉せずにはいられませんでした。
「好きにさせてあげたらどうですか?」
思いがけない外野の声に、美月の父親は少し顔をしかめて言いました。
「偉そうに。君ね、これは親子の問題なんだよ」
「親子の問題だからですよ」
「小生意気な。あとね、もし誰からも評価されなかったらどうするんだ? 今まで目を背けてきた現実を突きつけられて、それでも絵が好きだなんて言えると思うか? 自分には才能がないと烙印を押されても絵を描けると思うか? 子どもの遊びじゃないんだぞ」
「美月さんはきちんと現実を見てます」
「だったらまずはやることをやったらどうなんだ」
「わっかんないかなあ」
丁々発止のやり合いもままならない状況でした。お互いがお互いの言葉を牽制し合う中で、口火を切ったのは美月でした。
「もういいよ」
美月はうんざりしたのか、暗い面持ちで、震えた声でそう言いました。
いやダメだ。よくなんかない。わがままなのは承知ですが、もういいよ。だなんて疲れないでください。
美月の言葉に追撃するように、彼は依然父親としての態度を覆すことはありませんでした。
「それと、この男にはこれ以上近づくな。君も医学部なんだったらそれくらいわかるだろ? やることちゃんとやって。自分のためにも弁えるべきだよ」
せっかく出会ったというのにもう終わりですか? どうして? どうしてそれを貴方が勝手に決めるのですか? 私たちの物語なのに。
貴方がいると彼女は変わってしまう。まるで別人。どこにでもいる悲劇のヒロイン。辛いね。可哀想だねって。違う。そうじゃない。彼女は決してそうじゃない。
「美月、わかったら返事は?」
「はい」
なるほど。彼女にとっての「主」は父親でした。
そこで私は思い立って宣戦布告しました。
「自由にさせてください」
それを聞いた彼は失笑していましたが、私は大真面目でした。
「やれやれだな。君は責任を知らないのかね」
確かに今までの人生の中で大きな責任など背負ってきた経験はないし、感じたことすらありません。ですが、今こそ背負わなければならない。そう思ったのです。この理不尽な始末にはもう耐えられなかったのです。
秀逸な物語というのはどれもこれもあまりにも理屈が通り過ぎているため、所詮はフィクション。虚構でしかないのですが、それに対して人生というのは理不尽の連続。とても物語としては成立し得ないような現実。少なくとも私の人生はそうです。今だって変わりはしません。
それでも劇は終わりません。死ぬまでずっと終わりません。心の内がボロボロになっても、そんな死体に鞭打って、ときには蹴らなければならないのです。
そう考えると、私はやはり主役には向いていないのかもしれません。裏方の人間なのかもしれません。ところが、もしそうだとしても私はこのとき主役にさせるべき人を見つけました。
スポットライトの光はこの私に照らされているのではない。この私が照らすのです。なぜなら私は太陽なのだから。




