舞台
その日は一人でした。手加減を知らない太陽が燃え盛る夏。そんな炎天下の中、あちこちで蝉が自分たちの一生を謳歌するかの如く鳴き散らしていました。もしくは自らの運命に嘆いているのでしょうか。
赤ちゃんだってそうです。彼らは泣きながらやってくる。しかしその涙はこの世に生まれてきたことへの希望か絶望か。どうやったって思い出せません。この世に慣れ始め、生まれたときの記憶などとうの昔に忘れてしまった私は、冷房の効いた食堂で文明人を気取りながら呑気に一人涼んでいました。
心做しか重い枷が取れたかのように心が身軽に感じられ、とにかく気分が良かったのです。一人で居座る食堂から見える景色は、周りが異様に愉しそうに映りました。いつも食べていたランチセットだってあまり美味しいとは思えません。
そのときに懐かしい感覚を思い出しました。この孤独感。虚無感。悲壮感。最近まですっかり忘れていた感情が蘇ってきたのです。それまでは手懐けて、可愛がってやるくらいの身近な存在であったのに。一人でいることは全然平気でありましたし、むしろ好んでいたというのにそれがどうでしょう。私は確実に恐れていました。
そんなときに出逢ったのが一閃の光芒だったのです。それはそれは可憐で美しい光でした。そんな輝かしい女神はこちらにフフっと微笑んで、一瞬のうちに過ぎ去って行きました。私はあたかも運命に恵まれているような気がして、非常に喜ばしい気持ちになりました。そして、あの全てを悟ったかのような独特のオーラがこの私を魅了しました。まるで時間が止まったみたいに、一瞬の静寂と緊張が訪れて来るのがわかりました。私はそれらを遮ることなく快く迎え入れることにしました。どこか奇妙な既視感と共に。
さあ、始めましょう、喜劇を。準備は万端。憂いなし。主演は私。ヒロインは貴女。人生におけるプロローグはこれでおしまい。これからやっと人生の第一話が始まるのです。私は胸を張って堂々と舞台の壇上に登りました。愛と友情。笑いと涙。感動と希望に満ち溢れた超大作喜劇の幕が上がりました。
まずどうすればいい? 自分から動いた方がいいのか、待った方がいいのか。幕が上がった途端に不安と焦燥感が追いかけて来ました。
今回主演を務める緒方太陽という役は「主」を出し抜かなければ務まりません。下克上を果たすのです。
それなのにどうでしょうか。私は彼女のことをじっと見たままで何もできませんでした。物語が進まない。このままでは打ち切りもやむを得ません。そこで声を掛けてきたのが大学の友人、杉田でした。
「お前何じっと見てんだよ」
最悪でした。私の行動が彼を呼び、彼が私の心境を推測する。ズバリ的中。違うんです。こんな展開は理想の展開ではないのです。理想というものはいつも私を苦しめます。「ああしたら」とか「こうなれば」の結末は現在には存在しないのです。つまり、理想とは現在を超越して、過去と未来にのみ存在するものなのです。ついさっきまで私が抱いていた理想の展開は過去に吸い込まれ、叶わぬものとなってしまいました。
「ん?」
こんな短い台詞を言うのにどれだけ苦労したか。今すぐにでも巻き戻したい。できることなら一回舞台を降りたいとまで思いました。ですが、理想は現在には存在しません。何か行動を起こさない限り未来は透けて見えるものとなってしまいます。このままでいいのでしょうか。いいはずがありません。私は私の人生の主人公なのだから。
「お前、あいつのこと気になってんの?」
杉田は笑って言ったあと、食堂で一人昼食をとる彼女の元へ向かいました。
「良かったらこっち来ない?」
彼女はうん、と頷きました。そのときふと思いました。この物語の主人公は私ではないかもしれない、と。私は私の人生の中ですら脇役に過ぎないのでしょうか。
だとしたら、今までのプロローグはなんだったのでしょうか。ふと気づくと私は爪を噛んでいました。下克上は失敗。あまりにも呆気なく返り討ちに遭い、私はすぐさま膝をついて降参しました。
「いつも一人?」
「うん、なかなか友達できなくて……」
舞台の上で、私は彼らの劇を特等席で見ていました。彼女の情報が杉田を介して間接的に伝わってきます。
「そっかあ。でも大丈夫。こいつさ、すっげえ良い奴なんだよ、多分すぐに友達になれると思う」
杉田には行動力がありました。やはり主人公はこうでなくてはなりません。友達から始まる関係。私は何度打ちのめされても蘇り、反旗を翻す。そして再びマスクを被り、華麗に演じるのです。まずは、
「名前はなんて言うの?」




