第91話 それぞれのやり方
午後の光が工房の窓の隙間から斜めに差し込み、ほのかに木屑の匂いが漂っていた。
メリッサはマントを脱いで、入口脇のフックにぞんざいに掛けながら、気の抜けた声で言う。
「殿下なら今朝方に一度来たわよ。言うべきことは一通り、ちゃんと置いていったわけ。」
そう言って、引き出しから数枚の紙束を引っぱり出す。
「あなたたちを迎えに行けって話と、フィリシアに連絡してくれって話ね。自分が何か掴んだら、あとは彼女に任せるって。」
リゼリアは小さく目を見張った。
アッシュがここまで筋道立てて物事を整えたことを聞くのは、これが初めてだった。
ただ冷たく「俺には関係ない」と突き放すだけだった男が――。
いつから、こんなふうに自分から動くようになったんだろう。
リメアがベンチにぴょんと飛び乗り、尾をぱしんと振る。
〈アッシュが言ってたよ。悪い人たちを見つけたら、東の方に行けるって。〉
小さな体をぐっと乗り出し、前脚を机にかける。鼻先がリゼリアの顔に触れそうなほど近い。嬉しさをそのまま押しつけてこようとしているみたいだった。
リゼリアは唇をきゅっと結び、指先で机の縁をなぞる。
「……ちゃんと考えてたのね、あの人。」
低く呟いた声からは、はっきりした感情は読み取れない。
メリッサが片眉を上げ、じろりと彼女を見る。
「……なんだか、あんまり嬉しそうじゃないわね?」
「そんなことないわ。」
リゼリアは首を振る。だが胸の奥でじわりと広がる微妙な酸っぱさまで、否定することはできなかった。
――嬉しくない? 違う。
むしろ、不意打ちのように突きつけられた距離感に、心を乱されているのだ。
彼には彼の考えがあって、ちゃんと手を打っていて、他人に託す段取りまで整えて――
そこに、彼女の入り込む余地は一つもないのかもしれない。
自分はただここで座って、彼が「結果」を持ってくるのを待っていればいい――?
……そんなの、性に合わない。
元々、符釘の出所を追うつもりだったのは自分だ。アッシュが動くなら、自分は――別の角度から動けばいい。
「……資料を見てくる。」
リゼリアは立ち上がり、外したばかりのマントをまた肩に掛け直す。
その手際は、どこか容赦なくきびきびしている。
メリッサは机に片肘をつき、口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「殿下は勝手に出歩くなって釘刺してたけど?」
「本を読むな、とは言ってなかったと思うけど?」
リゼリアはさらりと言い返し、淡々とした声に、ほんのわずかな挑発の棘を混ぜる。
リメアが小首をかしげた。
〈また出かけるの?〉
「街の図書館に行くだけ。すぐ戻るわ。」
リゼリアはしゃがみ込み、小さな頭を撫でる。
「あなたはここで留守番。お菓子、しっかり見張っててね。」
リメアはぱちぱちと瞬きをしてから、なんとなく分かったような顔でこくりとうなずいた。
◆
午後の陽射しは、倉庫街の高い塀によって細かく切り取られ、地面にまだらな影を落としていた。
人通りはほとんどなく、異様なほどの静けさがあたりを支配している。
アッシュは、いくつかの倉庫を繋ぐ細い路地を抜け、足を止めた。
ここまで来れば、繁華な通りとは完全に隔絶される。昼間だというのに、ひとの気配は薄い。
重々しい倉庫の扉は半ば開き、暗い口を開けている。
内部に溜まった影が、そこから先の様子をすべて飲みこんでいた。
アッシュは手を伸ばし、扉に触れる。
軋みを最小限に抑えながら、ゆっくりと押し開けた。
倉庫の中は、麻袋と木箱の匂いが入り混じった、乾いた空気。
差し込む光の筋の中を、細かな埃がふわふわと漂っている。
アッシュは身をかがめて木箱の中身を確かめた。
蓋を開ければ、きちんと畳まれた衣類、乾物、ありふれた日用品――
怪しげな物資は、少なくとも目に見える範囲にはない。
符釘も、彼が探している何かも。
アッシュは唇を引き結んだ。
――まだ運び込まれていないのか。それとも……すでに別の場所へ移されたのか。
思考を巡らせていると、背後で小石を踏む靴音がした。
「……誰だ。」
アッシュはとっさに振り返り、腰の剣に手をかける。
木箱の影から、セイラが姿を現した。
手には奇妙な武器――細い金属の鞭が握られている。地面を引きずるように伸びた鞭の先端には、四つの鉤爪が鈍い光を放っていた。
女は口元をつり上げ、獲物を捉えた獣のような、飢えた眼差しを向ける。
「前に会ったときは、あんたが何者か分かってなかったけどね。今ははっきりしてるよ――ノアディス王子様。」
わざとらしく肩をすくめる。
「自分からノコノコ出てきてくれるとはね。手間が省けて助かるわ。」
アッシュは眉間に皺を寄せ、わずかに身をひねって背後の退路を確保しながら、低く言った。
「……退け。」
セイラはくつくつと笑みを深め、手首を軽く振る。
鎖爪鞭がぴん、と音を立てて伸び、甲高い風切り音を上げた。
「退く? 御冗談。」
一歩一歩、間合いを詰めてくる足取りは、じわじわと神経を締め上げてくるようだ。
「今のあんた、いくらの値がついてるか知ってる? 王都で一生遊んで暮らせるくらいにはね。」
アッシュの指が静かに力をこめ、長剣が鞘から抜かれる。冷たい光が一閃した。
「……やってみろ。」
次の瞬間、鎖爪鞭が生き物のように走った。
空中で軌跡を描きながらしなり、鉤爪がアッシュの顔面めがけて飛ぶ。
アッシュは剣を横に払って受け止める。
火花が散り、鞭の身がそのまま刃に絡みつく。セイラはすかさず手首を返し、一気に引き絞った。狙いは剣ごと奪うことだ。
アッシュは肩を落として逆に力を込め、引き合いに持ち込む。
足が半歩後ろに滑り、倉庫の床に散っていた木片が押し潰された。
「さすがは竜王の坊やってところか。」
セイラは冷ややかに笑い、鞭をすっと引き戻す。
そして次の一撃を、鋭く振り抜いた。
鞭の爪先がアッシュの頬をかすめ、背後の壁に深く爪痕を刻む。
アッシュは反撃とばかりに剣を振り上げ、ぎらりと光る刃を叩きつける。
セイラが一歩引く。だが鎖爪鞭は蛇のように空中を舞い、すぐにその軌道を変えて彼の足を絡め取ろうとした。
アッシュは身を低くして跳び、着地と同時に手首を返し、切っ先を鞭の金属鎖に叩きつける。
甲高い音とともに火花が散った。
セイラの口元から、僅かに笑みが消える。
彼女が指先をくいと動かすと、物陰からさらに数人が現れた。短剣や弩を構え、アッシュを囲むように陣を取る。
アッシュは剣先を床に向け、呼吸を整えながら、氷のような眼差しで周囲を見回した。
「――一歩でも踏み込んだら、二度と立てないと思え。」
セイラは鎖爪鞭を掲げ、残酷な笑みを戻す。
「生きてりゃいい。手も足も何本かなくなってても構わないよ。」
宣告のような声で、淡々と付け加える。
「死なれたら、値打ちが落ちるからね。」
合図とともに、手下たちが一斉に飛びかかる。
刃が閃き、弩弓の弦が鳴り、矢が空気を裂いた。
アッシュは身体をひねって矢を避け、一番に飛び込んできた男の短剣を、斜めからの一撃で叩き折る。
そのまま足を払うように蹴り飛ばし、一人を地面に転がした。
側面から迫る影。アッシュは腰を反らせるようにしてかろうじて刃をかわし、
返す刀で横薙ぎに斬りつけた。
刃は相手の腿を浅く裂き、赤い飛沫が床に散る。
頭上で鎖爪鞭が唸りを上げる。鉤爪が耳のすぐ近くを掠め、焼けるような痛みが頬に走った。
アッシュは短く息を呑み、踏み込んで剣を突き上げる。セイラは鞭を巻き取るようにして身を引き、間合いを取り直した。
「厄介な……」
アッシュは低く唸り、左手で腰の魔導銃を抜いた。
引き金を絞る。
――轟音。
青白い光を帯びた魔導弾が前方の木箱をえぐり、圧縮された衝撃波が爆ぜる。
至近距離にいた数人の体勢が崩れ、よろめきながら床に倒れ込んだ。
乱れた包囲に、アッシュが一気に切り込む。
剣光が走り、道を塞ぐ男の武器を弾き飛ばしながら、二人、三人と弾き飛ばす。
再び襲いかかる鎖爪鞭。アッシュは辛うじて剣で軌道を逸らしたものの、勢いを殺しきれない爪先が上腕を裂いた。
熱いものが一気に袖を濡らす。
「捕まえろ!」
セイラの声が高く響き、鞭影がまた走る。
アッシュは腕の痛みをかみ殺し、魔導銃を地面に向けて撃ち込んだ。
足元の石畳が爆ぜ、破片と砂埃が一斉に吹き上がる。
生まれた一瞬の死角。
アッシュは木箱の上に跳び乗り、そのまま影へと身を投げた。
一つ向こう側の通路へ消える。
「ちっ……!」
セイラは舌打ちし、鎖爪鞭を乱暴に振り払って巻き取る。
倒れて呻く部下たちを見下ろし、冷たく吐き捨てた。
「引き上げるよ。――ここはさっさと片づけな。」
アッシュはしばらくのあいだ全力で走り続け、背後の気配が薄くなったところでようやく足を止めた。
建物の陰に身を預け、荒い息を整える。
血の滲む腕を押さえ、鈍く疼く傷を確かめる。深手ではないが、出血が早い。指先に痺れが広がる。
「……厄介なのは、あの武器か。」
さきほどまで耳を裂いていた、鞭の風切り音と金属の軋みが、まだ頭の奥に残っている。
止血しようと魔法を使おうとするが、指先に宿した光はぐらつき、すぐに消えてしまった。
先ほどの高出力の魔導弾で、大量の魔力を一度に燃やした。
セイラとの斬り結びでも、一瞬たりとも気を抜けず、剣で受けるたびに腕が軋むほどの反動が乗ってきた。
張り詰めていたものが緩むと同時に、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
視界の端が白くかすみ、膝が笑いそうになる。
アッシュは奥歯を噛みしめ、深く息を吸い込んだ。
「……まだ倒れるわけにはいかない。」
上着の裾を裂き、手早く腕に巻きつける。
血管が抗議するように跳ねるほどきつく縛り上げて、ようやく血が滲むのを押さえ込んだ。
吐いた息が、冷たい空気の中でふるふると揺れる。
しばし壁にもたれてじっとしてから、ようやく再び歩き出す。
遠く西の空に目を向けると、太陽はすでに傾き、雲に飲み込まれつつあった。
倉庫の中からは、符釘を示す証拠は何ひとつ得られなかった。
だが、ひとつだけはっきりした。
――自分はもう、はっきりと狙われている。
ここから先の一手一手は、今まで以上に早く、そして慎重でなければならない。




