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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第九章:背中を預ける敵

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第90話 揺らぐ理由

 部屋の中で、蝋燭の火がかすかに揺れる。

 静けさは深く、そこにあるのは三人分の息遣いだけだった。


 エルセリアが先に腰掛ける。動作は優雅で、肩から落ちたベールを整えながら、張り詰めた空気を和らげようとするように微笑む。


「どうぞ、お掛けになって。」

 柔らかな声で促し、まっすぐアッシュを見つめた。

「いらしたということは……お聞きになりたいことがあるのでしょう?」


 アッシュは座らず、壁に背を預けたまま立っていた。視線だけを二人の間に往復させ、口を開く。

「昨夜、セイフィナは『聖堂には戻っていない』と言った。」


 エルセリアはそっと睫毛を伏せ、穏やかに答える。

「私が、あなたの様子を見てきてほしいと頼みました。どうしてもあなたと出会ってしまったら――そう言うように、と。」


 アッシュの眉間に皺が寄る。

「じゃあ、なんであんなふうに俺にまとわりついた?」


 セイフィナがすぐさま言葉を挟む。声は冷たく硬い。

「それは、私の独断です。聖下とは関係ありません。」


 アッシュは彼女を一瞥しただけで追及せず、低く問いを変える。

「……お前たちの本当の目的は、なんだ。」


 室内に沈黙が落ちた。蝋がはぜる小さな音だけが、静けさをかき混ぜる。

 エルセリアはすぐには答えず、アッシュの瞳をただ見つめ返す。その様子は、彼がさらに踏み込んでくるのを待っているようにも見えた。


 アッシュは細く目を細め、正面からぶつけても本音は出ないと悟り、別の角度から切り込む。

「――符釘のこと、どこまで知ってる。」


 セイフィナの眉がぴくりと跳ね、反射的に手が腰の柄に触れる。明らかに警戒の色。

 エルセリアは逆に、驚いたように目を見開いた。

「……符釘?」


 セイフィナが低く補う。

「魔獣に打ち込むと、制御不能になるって代物です。凶暴化させる、とも。」


 エルセリアは悲しげに目を伏せる。

「そんなものが……。その魔獣たちは、どれほど苦しむでしょう。」


 アッシュは息を深く吸い、さらに声を落とした。

「アエクセリオンの骸は弔われず、北へ送られた。――あの符釘は、あいつの骨から作られたものじゃないかと疑っている。」


 指先が握り込まれる。抑え込んだ怒りが声に滲む。

「セラフィア教国も噛んでいるんだろう。」


 今度はエルセリアだけでなく、セイフィナも一瞬言葉をなくす。

「……そのような話、私は一度も聞いたことがありません。」


 エルセリアはゆっくりと首を振り、その声音に珍しく深い哀しみを滲ませる。

「アエクセリオンの御身が弔われなかっただけでなく……魂の安息まで奪われているとしたら。」

 彼女は顔を上げ、アッシュを真っすぐ見つめる。

「ノアディス殿下――誰よりもお辛いのは、あなたでしょう。」


 アッシュは黙り込んだまま、視線を床に落とす。握りしめた拳の節が白く浮き出る。

 言葉に偽りはない――少なくとも、彼女が今聞かされたことに本気で衝撃を受けているのは、アッシュにも分かった。


(じゃあ――なぜ箱を探っていた?)

 胸中に疑念が渦巻くが、すぐには口に出さず、唇を固く結ぶ。


 エルセリアはそんな迷いを見透かしたように、静かに続けた。

「……殿下は、その者たちを追っておられるのでしょう? 本当にそのような罪があるのなら、私も止めたい。」

 その声に、静かな強さが宿る。

「もし今もこの街に潜んでいるのなら――セイフィナに協力させます。」


 セイフィナが顔をしかめる。

「聖下、この男は――」


 エルセリアは軽く微笑んで言葉を遮る。

「行ってきて。……真相を確かめましょう。」


 アッシュはエルセリアを見上げ、しばし視線を交えたのち、深く息を吐き出す。

「……考えておく。」


 沈黙が落ちた。迷いが胸の内側で重く軋む。

 やがてアッシュは決意したように顔を上げ、声をさらに落とした。

「もう一つ、聞きたいことがある。」


 視線をセイフィナの上をかすめ、エルセリアへと据える。


「セラウィンの城下町で――お前の騎士は、リゼリアに明確な敵意を向けた。お前たちが彼女を追っていることも分かっている。」


 空気が一気に張り詰める。

 セイフィナは即座に表情を険しくし、吐き捨てるように言った。

「聖下の前で、その『魔女』の名を口にするな。あいつはその資格もない。」


 エルセリアは片手を上げて彼女を制し、自らは目を伏せる。組んだ指先に力がこもる。

「……それは、わたくしたちの国の事情です。軽々しく口にできることではありません。」


 アッシュの眉間の皺がさらに深くなる。

「だから連れ戻して、広場で民衆の前に括り出すのか。火炙りにして見せしめにするつもりか。」


 エルセリアの肩がびくりと震えた。

 ぱっと顔を上げた彼女の緑の瞳が、大きく見開かれる。


「処刑……? 火あぶりに……?」

 震えた唇を、白い指が思わず覆う。

「……ごめんなさい。取り乱しました。」


 アッシュはその反応に、別種の違和感を覚える。

 ――本気で、知らなかった?


 セイフィナが冷ややかに付け足す。

「それは民衆が魔女をどう扱うかという話だ。我が国があいつを連れ帰るのは、『裁き』を受けさせるため。それだけだ。」


「何の『裁き』だ。」

 アッシュの声はさらに冷たく沈む。

「彼女が何の罪を犯した。」


 セイフィナの視線は一層鋭くなり、押し殺した怒りが滲む。

「お前には関係ない。」


 アッシュの表情がさっと険しくなる。

「誰も教える気がないなら――俺はお前たちに、リゼリアを渡さない。」


 エルセリアは静かに彼を見つめ、ほんのかすかな痛みを帯びた目をした。

「どうして……そこまで庇うのですか。」


 アッシュの指がわずかに震え、拳に力がこもる。

 それでも声は、驚くほど平坦だった。


「俺には、あいつが必要だからだ。」


 空気が、ぴたりと止まった。

 エルセリアの睫毛が震え、小さく息を呑む。胸元の指先が、ぎゅっと布をつまむ。


 アッシュはほんの一瞬黙り、第二の言葉を絞り出す。

「……それに、あいつはまだ俺に答えを返していない。」


 短い沈黙ののち、エルセリアはゆっくりと顔を上げる。

 そこには言葉にできない色が揺れていたが、声はささやきのように静かだった。


「……分かりました。」

 かすかに息を整え、付け加える。

「まずは――符釘のことを片づけましょう。他のことは、そのあとで。」


 彼女はセイフィナへ視線を向け、柔らかく、しかし拒むことを許さぬ口調で告げる。

「それまでは、あの人には手を出さないで。」


「聖下――そんな勝手な……!」

 セイフィナは明らかに動揺し、声を荒げる。


 エルセリアはただ微笑んだ。蝋燭の火よりも穏やかな声で続ける。

「これは、私の決定です。……ノアディス殿下のお力になりたいの。」


 アッシュは長く黙り込み、やがてゆっくりと視線を上げる。

「どうして、そこまでする。どうして俺を優遇する。」


 エルセリアは逃げずにその問いを受け止め、ほんの少しだけ唇を弧にして答えた。

「理由なんて、ありません。」


 セイフィナが鼻を鳴らす。

「聖下が甘いからだ。勝手に情けをかけてくれてるだけだ。変な勘違いはするな。」


 アッシュは何も返さず、ただ小さく息を吐いた。

 胸の内には、言葉にしがたい重さだけが残る。



 小部屋の扉が閉まると、すぐに甲冑のこすれる音が回廊に響いた。


「聖下は、あなたを手伝えと仰った。」

 セイフィナは早足で追いつき、不満を隠さない声で言う。

「それで、どうするつもりだ。」


 アッシュは横目で彼女を見て、しばし視線を交わす。

「急に言われても決められない。必要になったら、またお前を呼ぶ。」


 セイフィナは眉を吊り上げ、冷たく鼻を鳴らす。

「私は、そんな都合よく呼びつけられる道具じゃない。」


 一瞬の沈黙のあと、アッシュは低く呟いた。

「……悪かった。」


 その一言に、セイフィナの表情が一瞬固まる。

 彼女はそっぽを向き、何かをごまかすように短く吐き捨てた。


「……もういい。」

 それだけ言うと、小部屋へと踵を返す。鎧と剣が、かすかな金属音を残した。


 回廊には、アッシュ一人だけが残る。


(理由なんて、ありません。)

 エルセリアの言葉が、まだ耳に残っていた。

 条件も見返りも示さない、あの微笑み。

 心を掴むようでいて、その奥は霧のように見えない。


 アッシュは眉間を指先で押さえ、きつく目を閉じる。

 あの温かな言葉ほど、なぜか不安を掻き立てるものはなかった。


 ――本気で助けたいと思っているのか。

 ――それとも、別の狙いがあるのか。


 靴音が回廊に響く。歩調は自然と遅くなり、その一歩ごとに胸のざわめきを押し込めていく。


 少なくとも、一つははっきりした。

 リゼリアは、少なくとも今すぐ教国の手に落ちることはない。


 だが同時に、これまで以上の警戒が必要になった。

 エルセリア。セイフィナ。そして、あの箱。


 すべてが、彼をどこか見えない地点へと追い立てている――そんな感覚だけが、確かに残っていた。

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