第89話 聖堂の光と影
朝の光が小さな窓から差し、灰白の筋が木の床に落ちていた。
リゼリアは身じろぎして目をこすり、起き上がる。向かいの寝台では、リメアが背を向け、尾をくるくる巻きつけては解き、また巻きつけて――熱心に遊んでいる。
〈……なにしてるの?〉
思わず微笑ましく声をかける。
リメアは見つかった子どもみたいにびくっと止まり、尾がぴたっと固まる。
〈な、なにも!〉
慌てて尾をお腹の下に隠すと、何事もなかったふりでぴょんと床へ降りた。
リゼリアはくすりと笑い、なお言葉を継ごうとして――空いた寝台に目が留まる。
笑みがすっと引いた。
〈……アッシュは?〉
声を落として問う。
リメアはぱちりと瞬き、素直に答えた。
〈朝ごはんを置いて、すぐ出ていったよ。〉
首をかしげ、尾を小さく振って補う。
〈あたしの分はもう食べたの。机のはリゼのぶん。〉
リゼリアは卓へ行き、木皿のパンと野菜を見つめる。胸の奥に、名のない不安がかすかに灯る。
〈どこへ行くって、言ってた?〉
〈言ってない。〉リメアは正直に首を振る。
そして、ふと思い出したように小声で付け加えた。
〈朝起きたら、箱がなくてびっくりした……アッシュに聞いたら、自分が持っていくって。〉
リゼリアの胸がきゅっと強張る。
――なにをするつもり?
深く息を吸い、しゃがんでリメアの頭を撫でる。
〈ここでおとなしく待ってて。勝手に出ちゃだめ。いい?〉
リメアは不満げに見えながらも、こくりとうなずき、寝台の脇に身を丸めた。
不安を抱えたまま階下へ。宿の帳場は彼女を見るなり声をかけた。
「お嬢さん、例の旦那から伝言ですよ。ここで待っててくださいって。午後、工房まで迎えが来るそうで。」
「……他には?」
「いえ。あの方、真夜中にも一度出て、今朝戻って朝食を受け取ると、また急いで出ていかれましたね。」
リゼリアはマントの裾を指でつまみ、さらに胸のざわめきが募る。
――どこへ行ったの。
部屋へ戻る。
木皿のパンはまだわずかに温かい。椅子に腰を下ろし、機械のようにひとかけら口へ運ぶ。
咀嚼は遅く、心はここにない。
視線の端で、リメアが寝台の脇で身を小さく丸め、尾を身体の下にしまい、耳がそわそわと震えているのが見える。
彼女の気配を感じ取り、いつものように甘えては来ず、ただじっと見守っていた。
「……本当に、一人で調べに行ったのね。」
低くこぼし、パンを握る指に白い力がこもる。
さっき並び立つと決めたばかりなのに――どうして、また独りで背負うの。
窓明かりが卓上を白く延ばし、木皿の影を細長く引いた。
長く座り、結局半分のパンを飲み込んでも、満たされるものはない。
――待つ。
せめて、午後までは。
胸のざわめきを押さえ、空の杯を脇へやり、答えを探すように、ただ木皿を見つめ続けた。
◇
リュミエラ大聖堂。高い薔薇窓から射す朝光が、石床に色硝子の紋を落とす。
アッシュは最後列の長椅子に身を沈め、フードを目深にかぶって静かに座っていた。
今日は人が多い――日々の朝課に来る信徒だけでなく、普段は顔を見せぬ市民までが大殿に詰めかけている。
耳元に、さざめき。
「今日は聖女さまが直々に祈りを……」
「めったにないぞ。拝んでおかねば。」
「北の疫村を癒やされたとか……まさに聖なる方だ。」
アッシュは視線を落とし、膝上で指先を小さく打つ。
――やはり、戻っている。
白衣の聖職者が講壇に立ち、定型の祈りを数句読み上げてから、脇へ下がった。
「――この後は、聖女殿下自ら祈祷を導かれる。」
薄紗の冠を戴く聖女が、人々の視線を受けて杖を掲げる。
セイフィナは銀鎧のまま、その側に立ち、厳しい目で周囲を警戒していた。
一斉に人々が頭を垂れる。長椅子がぎしりと鳴り、膝の触れる乾いた音が床に伝う。
アッシュはすぐには頭を下げず、ただ細い影を見上げていた。
聖女の声が澄んで広がる。感情を乗せず、大理石を流れる清水のようだ。
「主の光がこの地を照らし、塵世の闇を洗い流さんことを。」
経文が穹窿に反響し、低い祈りが潮のように満ち引きする。
アッシュは瞼を閉じ、心拍が思った以上に重いのを感じた。
――昨日、警戒を解かせ、眠らせたのは、この人。
いまは高座にあり、遠い。
息を吐き、ようやく頭を垂れて群衆に紛れた。
祈りののち、ざわめきと足音が満ち、やがて薄れていく。
アッシュは立ち上がり、人の流れに紛れて側廊へ。陰に溶けるように柱の影へ背を預け、待つ。
やがて主祭壇前の列がはけ、聖女は侍者に囲まれて段を降りる。
歩みは乱れず、表情は常。セイフィナが手を柄に添え、鋭い目で左右を掃いた。
アッシュの指が柄頭を撫で、呼吸を底へ落とす。
人影が去り、大殿は静けさを取り戻す。
柱影から一歩、石床に靴音を静かに刻んで進み出た。
セイフィナが反射的に向き直り、柄に力を込める。
「お前――」
アッシュは片手を上げ、低く押さえる。
「落ち着け。騒ぎに来たわけじゃない。」
ひと呼吸置き、視線を彼女の肩越しにエルセリアへ。調子を和らげる。
「昨夜、戻っていないと言ったな。心配で、確かめに来た。」
悪意はない――それを先に置く、短い言い方だった。
エルセリアはわずかに瞬き、かすかな笑みを浮かべて伏し目になる。
「……ありがとう。」
祈壇より柔らかな、その声音。安堵の色が淡く混じる。
セイフィナはなお緩めず、身をわずかに乗せて厳しく問う。
「何をするつもりだ。大聖堂は、お前のような者の出入り口ではない。」
アッシュは表情を沈め、真っ直ぐに視線を返した。
「昨夜の付き纏いの件を、まだ聞いていない。」
声は大きくないが、わずかな圧が空気を張らせる。
白衣の聖職者が数名、気配を察して歩み寄る。止めるべきかと目で伺う。
エルセリアは軽く手を上げ、彼らを下がらせると、アッシュへ視線を戻し、穏やかに言う。
「彼はわたくしの友人です。静かな部屋を。――少し話をします。」
聖者たちは顔を見合わせ、従順に一礼して退いた。
セイフィナは露骨に不満げに眉を寄せる。「聖下――」
エルセリアは柔らかく、しかし反駁を許さぬ一瞥を与える。
「構いません。彼の話を聞きたいの。」
セイフィナは渋々と柄から手を離し、半歩退いた。




