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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第八章:聖女エルセリア

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第88話 箱の中の心臓

 アッシュは道すがら周囲に鋭く目を配り、いくつか路地を回り込んで尾を断ち切ったのを確かめてから、ようやく宿へとリゼリアを連れ戻した。


 扉を押し開けるやいなや、リメアが弾かれたように飛びついてくる。瞳はぱっと光を帯びた。


 〈リゼ、戻ってきた!〉

 声は抑えきれない喜びに弾み、尾はぱたぱたと忙しく揺れる。


 リゼリアは一瞬きょとんとし、すぐに胸の奥が温かくなった。身をかがめて小さな頭を撫で、やわらかく応える。

「……ええ、ただいま。」


 リメアはきらきらした目で、甘えるように額を彼女の掌へ押しつける。

 〈また、いっしょ?〉


「……いいわ。」リゼリアは小さく答え、指先で鱗をそっと撫で下ろした。


 アッシュはその様子を黙って見ていた。何をやり取りしているのかは分からないが、口を挟むことはしない。椅子を引き、水の入った木杯を満たして彼女の前へ押しやり、座るよう促した。


「これから――状況を詰める。」

 声音は冷静だが、先ほどまでの突き放す冷たさは薄い。


 リゼリアは腰を下ろし、指先で杯を包み、一口含んでからゆっくり視線を上げた。

「……じゃあ、聖女のこと、話してくれる?」


 アッシュは一拍の沈黙ののち、うなずく。

「午後……確かに会った。」


 リゼリアの指が小さく止まり、視線は彼を追い続ける。

「ふたりは……前から知り合い?」


 アッシュは眉根を寄せ、あまり語りたくなさそうに低く答える。

「……一年前だ。北境の戦場で。偶然の邂逅にすぎない。」


 リゼリアは退かず、さらに問う。

「戦場で? どうして、そんな場所で?」


 アッシュは短く黙し、無意識に剣柄を指でなぞる。やがて口を開いた。

「……ほんの一瞬だ。俺も、あいつも、自分の陣から抜け出していた。――盗んだ自由みたいなものだ。」


 杯を置き、低く続ける。

「……知っているだろう。教国は竜を退ける。本来なら、彼女と俺が顔を合わせる可能性はゼロに等しい。あの後、再び会うとは思っていなかった。」


 リゼリアの指が強張り、鋭く見上げる。

「つまり、今日も――ひとりだった? 護衛も、セイフィナもいなかった?」


 アッシュはわずかに目を瞬かせ、眉をひそめる。図星を刺された顔だ。

「……ああ。どうして分かった?」


 リゼリアは息を詰め、なお食い下がる。

「じゃあ――何をしていたの? どうして夜まで戻らなかったの?」


 アッシュは短く黙し、さらに声を落とす。

「……寝ていた。」


 リゼリアの瞳が大きく揺れ、息を呑む。口もとを手で覆い、思わず零す。

「ふたりで……何をしたら、寝ちゃうの……?」


「何もしていない。」アッシュは視線を逸らし、ぶっきらぼうに――しかしどこかぎこちなく。


 気まずい空気が一瞬流れる。リゼリアは頬に熱を覚え、無理やり気持ちを押し込めて問いを変えた。

「……何か話した? 例えば、魔女を捕らえるつもりとか。」


 アッシュは彼女を見返し、沈んだ色で言う。

「お前のことは口にしなかった。むしろ……子どもの頃の話を。」


「子どもの頃?」


 アッシュは眉間を揉み、言い表せない重さを滲ませる。

「……俺たちは幼い頃に、もう会っていた、と。だがその時、俺は彼女だと知らなかった。」


 リゼリアは唇を噛み、すぐには言葉を継がない。


 アッシュはなお何か言いかけ、言葉に詰まると、低く吐き出した。

「……妙に違和感がある。だがうまく言えない。」


 リゼリアは小首を傾げ、訝しむ。

「どういう違和感?」


 アッシュは陰を落としたまま、ゆっくりと。

「子どものときに会ったのは、彼女じゃない気がする。――だが、本題はそこじゃない。」


 顔を上げ、声を冷やす。

「今回は目的があって来たと睨んでる。目を覚ました時、彼女はいなくて、夜になるとセイフィナが現れた。エルセリア……それにお前の行方を聞かれた。」


 リゼリアは息を呑み、声が自然と高くなる。

「でも、夜になっても聖女を探していたなら……心配じゃないの?」


 アッシュは長い沈黙ののち、指先を固く握り、低く洩らす。

「そこが変だ。あいつは少しも焦っていなかった。本当に失踪なら、もっと切迫しているはずだし、街も騒がしくなる。――そうは見えなかった。」


 リゼリアはしばし思案し、ふっと探るように落とす。

「……それで、あなたは抱きしめられたの?」


 アッシュの表情が固まり、ゆっくり横を向く。


「見ていたのか。」

 間を置き、さらに冷える。

「それだけじゃない。抱きつかれて、身体を探られた。……眠っていた時にも、指先が触れている気配があった。」


 リゼリアは目を剥き、思わず叫ぶ。

「任せるって――触らせてたの?」


 アッシュは眉間に皺を寄せ、さらに低く。

「そういう意味じゃない。……何かを探していた。」


 空気が一段落ちる。

 リゼリアは言い過ぎたと気づき、咳払いして視線をそらす。ふと寝台に目を遣れば、リメアが丸くなって眠っている。胸のハーネスの下、箱が鱗に沿って静かに収まっている。


 アッシュもその視線を追い、掠れた声で言う。

「……俺もそう思う。狙いはこの箱だ。」


 リゼリアの顔に一瞬、強い色が走り、苦く笑って落とす。

「――まるで、大陸じゅうがこの箱を狙ってるみたい。」


 アッシュも薄く笑い、すぐに目を冷やした。

「しかも、みんな知っている。――それが俺の手にあると。」


 短い沈黙ののち、リゼリアが低く切り出す。

「……アッシュ、やっぱり箱とリメアを連れて東へ行って。たとえ逃げる形でもいい……少しは、安らげるかもしれない。」


 アッシュの目元が陰り、夜風のように硬くなる。

「いまの状況じゃ、俺が箱を手放さない限り、どこへ行っても安全はない。」


 強く握られた指が、低く言葉を継ぐ。

「――だが、手放せない。」


 リゼリアは彼を見据え、憂いを宿す。

「それは……血を染めた符釘以上のものだから? もっと、渡してはいけないもの?」


 アッシュは短く黙し、ゆっくりとうなずいた。

「……おおよそ、見当はついている。」


 視線はリメアの胸元――小さな箱へ落ち、沈黙ののち、かすれた声で告げる。

「――竜の心臓だ。」


「心臓……?」リゼリアは硬直し、眉間を深く寄せる。「でも、この大きさじゃ……。」


 アッシュはゆるく首を振り、暗い眼差しで続ける。

「竜は死ねば、心臓が結晶化する。核のように小さく縮み、他の竜――とりわけ竜王は、それを至宝として守る。」


 思わず指先が強くなる。

「アエクセリオンの遺骸は葬られず、北へ運ばれ、符釘に利用された。ならば、心臓の結晶が元の場所に残っているはずがない。」


 目を閉じ、胸奥の疼きを押し潰すように――。

「……ここにあると、俺は確信している。」


 部屋に重い沈黙が降りた。

 リゼリアは、何の変哲もない小箱を見つめ、呼吸が早くなるのを自覚する。


 ――もしそれが竜王の心臓なら。

 その力が、大陸中の狂気を呼ぶのも道理だ。


 アッシュが低く添える。

「……誰がこの箱を造ったのかも、どうしてヘルンの手に渡ったのかも分からない。本来の目的は王国へ戻すことだった。――そこに潜む思惑が見えない。」

 唇を引き結び、底に渦巻く不安を押し沈める。


 リゼリアは目を伏せ、杯縁をそっと指で撫で、探るように問う。

「……これから、どうするの?」


 アッシュは息を吐き、低くまとめる。

「確かなのは、教国は聖女まで動員してでもこの箱を奪いに来るってことだ。そして――お前も標的だ。最悪だ。」


 リゼリアの指先がわずかに止まり、目がきらりと揺れる。否定はしない。ただ曖昧に「……そうだね」と返す。

 感情は読ませず、考えを隠しているようでもあった。


 アッシュは唇を固く結び、目を細める。

「――メリッサとフィリシアに援護を頼むしかない。符釘の件は……いったん置く。」


 リゼリアは強く唇を噛む。反論はしない――だが、瞳の奥がそれを拒んでいるのは明らかだった。


 彼は彼女の執念を分かっている。だが追いすがる言葉は選ばず、静かに告げる。


「……休め。」

 そう言って、杯を片づけ、窓辺へ歩む。


 夜気を読むように外へ目を凝らし、静かな闇に、ひたすら警戒の視線を注ぎ続けた。

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