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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第八章:聖女エルセリア

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第87話 闇に交わる手

 夜の帳が降り、リュミエラの街路は一層冷え冷えとしていた。

 リゼリアはマントをきつく引き寄せ、それでも歩みを止めない。


 彼女の傍らには、一頭の馴染みの魔獣。低く喉を鳴らしながら、主の足音に合わせて進む。


 ――一週間も待てない。

 もし符釘が本当に「竜」を材料として作られているのなら、被害は魔獣に留まらない。


 竜族までもが、再び鎖に繋がれる。

 それだけは、絶対に許せなかった。


 前方の倉庫。半開きの扉の隙間から、低い人声が漏れてくる。

 リゼリアは息を潜め、壁伝いに陰へと身を寄せた。


 「……次の符釘は、まもなくこっちに届く。」


 その声に、身体がびくりと震えた。――聞き覚えがある。

 月光が差し込み、長身の女が現れる。

 セイラ。混乱の夜、グロインの部下として彼女を捕らえた女だ。


 ――やっぱり、ここね。


 胸が強張る。さらに壁際へと身を沈め、耳を澄ます。

 だが次の瞬間、足元の魔獣が枯れ枝を踏み折った。

 ぱき、と乾いた音。

 夜の静寂に、やけに鋭く響いた。


 「誰だ!」

 怒号が飛び、数本の刃が閃く。


 リゼリアの心臓が跳ね上がる。

 即座に身を翻すと、魔獣が前へ躍り出た。

 金属の刃と鋭い爪がぶつかり、火花が飛ぶ。


 「行って!」

 リゼリアは歯を食いしばり、魔獣を引きながら後退する。

 だが細い路地では退路がすぐに塞がる。


 魔獣は唸り、敵を噛み砕くように跳ねた。

 リゼリアの胸が痛む――このままでは、傷つく。

 ――捕まるわけにはいかない。いや、絶対に。


 それでも、出口はもう塞がれていた。

 刃が煌めき、闇市の男たちの笑い声が闇に響く。


 「もう逃げられねえぞ。」


 リゼリアは荒い息を吐き、魔獣を抱き寄せた。

 この子をこれ以上戦わせるくらいなら、自分が残る。


 心の奥で、ひとりの影が浮かぶ。

 ――もし、彼がここにいたら。


 風を裂く音。反射的に目を閉じた。

 だが、冷たい痛みは訪れなかった。


 鋭い剣光が闇を裂き、敵の攻勢を一瞬で弾き飛ばす。


 「――退け。」

 低く響く声が、喧騒を切り裂いた。


 目を開ける。

 アッシュがそこにいた。

 長剣の刃先から滴る冷気が、男たちの動きを止める。

 彼はリゼリアを見ず、闇市の者たちを冷然と睨み据えた。


 その姿を見た途端、張り詰めた糸がぷつりと切れた。

 リゼリアの膝が崩れそうになる。


 ――来てくれた。


 アッシュは一歩踏み出し、剣を構え直す。


 「下がれ。」


 刃が閃き、敵を押し退ける。

 そして振り返り、リゼリアに手を差し伸べた。


 「行くぞ。」


 リゼリアは一瞬だけ迷い、息を詰める。

 それでも手を伸ばした。


 掌が掴まれ、力強く引き上げられる。


 「――あの子も。」

 アッシュの短い言葉に、魔獣が跳ねて背後へつく。


 彼は剣を振るい、狭い路地を切り開く。

 二人と一頭は夜霧の中を駆け抜け、いくつもの路地を曲がり続けた。

 背後の喧騒が遠ざかり、ようやく壁際に身を預けて足を止める。


 アッシュは周囲を見回し、敵影がないのを確かめてから剣を下ろした。

 リゼリアは荒く息を吐き、胸の鼓動を抑えきれない。


「……どうして、私の居場所が分かったの?」


 アッシュは視線を巡らせたまま答える。

「魔獣の痕跡を追った。……代用とはいえ、俺も一応『魔物使い』だ。」


 リゼリアは唇を噛み、反射的に返す。

「嘘ばっかり。あなたはただの野生児でしょ。」


 一瞬、アッシュの表情が止まり、やがて自嘲の笑みが零れた。


 「……何よ、笑って。」

 リゼリアの声がわずかに震える。

 思い出したのは、彼の言葉――『お互い様だ』。

 「もう別れたんじゃなかったの? 今さら何しに来たのよ。」


 アッシュは口を開きかけ、しかし言葉を失う。

 喉の奥で言葉が渦を巻き、沈黙に変わる。


 リゼリアはまっすぐ彼を見上げ、答えを求めるように目を細める。

 傍らの魔獣はすでに緊張を解き、彼女の手を舐めるように鼻を擦り寄せた。


 「……ありがと。さっき守ってくれて。」

 優しく撫でると、魔獣は小さく鳴いて応えた。


 アッシュが問う。

「……怪我は? 必要なら俺が――」


「大丈夫。」

 リゼリアは小さく首を振り、柔らかに微笑んだ。

 魔獣は一声吠えて背を向け、霧の向こうへと消える。


 再び、静寂。

 ふたりは同時に口を開き、そして同時に黙った。


 一瞬、視線が絡み――胸の奥に懐かしい記憶が灯る。

 リゼリアが先に口を開いた。


「……前にも、こんなことがあったね。」

 その笑みはかすかに寂しげだった。


 アッシュの目が深く沈み、やがて低く呟く。

「……リメアに言われた。」


「え?」


「残るよ。」

 彼の表情は冷たいまま、しかし声音には確かな意志が宿っていた。

「教国の連中も動いてる。お前ひとりじゃ危険だ。……俺も大差ないが。」


 彼は一拍置き、真っすぐに彼女を見る。

「それでも――一緒に動いたほうがいい。」


 リゼリアは息を呑む。

 その眼差しの強さに、何かが解けるような感覚が走った。


 だが次の瞬間、彼女は小さく鼻を鳴らす。

「……誰も、あなたに頼んでない。」

 言葉とは裏腹に、袖の中で指先が小さく震えていた。


 アッシュは静かに息をつき、手を差し出す。


 リゼリアはわずかに迷い、そしてその手を取る。

 無言のまま、アッシュはその手をしっかり握り、歩き出した。


 夜風が二人の外套を撫で、石畳に落ちる影が重なり合う。

 言葉はない。

 それでも、確かなものがあった。


 ――かつてアエクセリオンと共に歩いた日々のように。

 言葉などなくても、互いの存在を感じられる。


 そうして、ふたりは静かな闇の中を、ただ並んで歩き続けた。

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