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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第八章:聖女エルセリア

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第86話 霧の街にて

 工房には炉の微かな明かりだけが残り、壁の時計の振り子が「カチ、カチ」と刻む音が、やけに耳に刺さるほど響いていた。

 リゼリアは扉を押し開ける。マントの裾には夜露の冷たさがまだ残っている。


 机のそばではメリッサが帳簿を広げたまま、もう文字も読めないのに眠る気配もない。

 物音に顔を上げ、眉をひそめた。

「……どこへ行ってたの?」


 リゼリアは一瞬立ち止まり、扉を閉めて背をもたせる。胸が縮み、しばしの沈黙の後、掠れる声を絞り出した。

「……彼を、探しに。」


 メリッサの視線が鋭く光る。すべてを見抜くような眼差し。

「それで――どうだったの?」


「見たの。」リゼリアの声は震え、「……教国の聖女騎士と、一緒にいるところを。」


 短い一言が、胸の奥で鉄槌のように響いた。

 メリッサは一瞬口を開きかけたが、軽々しく言葉を挟まなかった。

 現実的な彼女には、その一言が何を意味するか分かっている。

 ただ、わずかに目を伏せ、静かに問う。

「――だから、もう彼に頼れないと思ったのね?」


 炉の火がぱちぱちとはぜ、リゼリアの横顔を明滅させる。


「……宿には戻れなかった。」

 瞼を落とし、かすれ声で続ける。

「同じ光景を、もう一度見るのが怖くて。」


 メリッサは長く息を吐き、椅子の背にもたれた。

 慰めることはしない。ただ黙って見つめ、彼女が言葉を継ぐのを待つ。


 沈黙の中で、リゼリアはマントの端をぎゅっと握りしめた。

「……でも、何もしないわけにはいかないの。」


 顔を上げると、瞳に頑なな光が宿る。

「符釘の出所、手がかりを掴んだの。放っておけば、もっと多くの魔獣が縛られ、苦しむ。」


 メリッサの眉が動く。

「まさか、一人で調べに行くつもり?」

 声には苛立ちが滲んだ。

「夜のリュミエラは、あなたが一人で歩けるような場所じゃない。」


「他に方法がないの。」リゼリアはきっぱり遮る。その声は意外なほど強い。

「アッシュが東へ行くなら、私はせめてここのことを終わらせたい。」


 炉火が弾け、小さな火の粉が宙を舞う。

 メリッサはしばし目を閉じ、最後には小さくため息を落とした。それ以上は何も言わない。


 リゼリアは机に歩み寄り、小刀と小さな鞄を手に取る。動作は冷徹なまでに手慣れていた。


「魔獣と話すだけ。人とは争わないわ。」

 それは自分への言い聞かせでもあり、メリッサへの説得でもあった。


 マントの留め金を留め、フードを深くかぶる。

 扉を押すと、夜風が刃のように吹き込んだ。

 外は静まり返り、酔漢の叫びと闇商人の靴音だけが遠くに響く。


 ――『お互い様だ』。

 アッシュの冷たい言葉が、胸の奥で逆刺のように疼く。

 危険を案じての痛みではない。ただ、息が詰まるほどに苦しかった。

 理由など分からない。ただ、その痛みを押し込めるように、さらに歩を速める。


 夜のリュミエラが、静かに闇の網を広げていた。

 



 夜は深く、霧が石畳を薄く覆っていた。

 リゼリアは足音を殺し、マントに身を包む。露出しているのは集中した双眸だけ。


 いくつもの裏路地を抜け、彼女は立ち止まる。

 遠くに見える朽ちた給水塔――そこには、街外れを縄張りにする魔獣たちが潜んでいる。


 低く呪調を紡ぐと、空気が震え、潜む気配が応えた。

 灰白の猟犬型の魔獣が影から現れる。双眸は青く光り、襲う気配はない。低く喉を鳴らし、挨拶のように嗥えた。


 リゼリアは膝を折り、冷たい石に手を当て、囁くように問う。

「……符釘のこと、教えて。」


 魔獣の喉が鳴り、ざらついた声が響く。

 龍語を理解できる者だけが聞き取れる言葉。


 ――闇市の者たちが鉄箱を持ち、符釘を魔物使いにばらまいている。

 ――その背後には、さらに別の供給者がいる。


 リゼリアは息を止め、眉を寄せる。

 供給者……カロスだけじゃない?


 その時、魔獣の体毛が逆立ち、唸り声を上げた。

 リゼリアは胸を詰まらせ、素早く振り向く。


 路地の入口に、人影がひとつ。

 灯りがちらりと揺れた瞬間、その影はすぐに駆け去り、足音が霧の奥へ消える。


 冷たい汗が掌に滲む。

 ――闇市の者? それとも教国?

 誰であれ、見つかるわけにはいかない。


「行くよ。」低く命じる。

 魔獣は彼女の脇につき、二つの影が霧の中に溶けた。

 



 工房の扉が開き、冷風が吹き込む。

 アッシュが険しい顔で入ってきた。視線が薄暗い室内を走る。


 ――探す姿はない。

 炉の火のそばで、メリッサが大きなあくびをしながら帳簿をめくっていた。


 彼女はちらりと見上げ、皮肉な笑みを浮かべる。

「へえ、ずいぶん早いお帰りね。聖女騎士って案外、満足させるのが簡単?」


 アッシュの足が止まり、眉間が鋭く寄る。

「……どうして俺がセイフィナと会ったと分かる。」


「惚けないでよ。」メリッサは肩をすくめ、白い目を向けた。

「リゼリアが言ってたわ。あなたとその女が街角で――いちゃついてたって。」


「……いちゃついてた?」

 アッシュの顔色がみるみる暗くなり、喉が動く。反論しかけて、言葉を飲み込む。


 セイフィナが腕を掴み、あの距離……傍から見れば、確かにそう見えたかもしれない。

 胸の奥がざらつく。苦々しく息を飲み込んだ。

「――リゼは?」低い声で問う。


 メリッサは肩を竦め、扉のほうを指す。

「残念。さっき戻ってきたけど、一言だけ残してまた出てったわ。魔獣を探しに行くって。」


 言葉が終わるより早く、アッシュは身を翻して外へ駆け出した。


 胸の奥がひどくざわつく。

 ――誤解なら、耐えればいい。

 だが、彼女がひとりで危険に踏み込むことだけは、絶対に許せなかった。


 メリッサは、勢いよく去っていく背中を見送り、大きく息を吐く。

「……まったく、この二人。どうなってんのよ。」

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