第86話 霧の街にて
工房には炉の微かな明かりだけが残り、壁の時計の振り子が「カチ、カチ」と刻む音が、やけに耳に刺さるほど響いていた。
リゼリアは扉を押し開ける。マントの裾には夜露の冷たさがまだ残っている。
机のそばではメリッサが帳簿を広げたまま、もう文字も読めないのに眠る気配もない。
物音に顔を上げ、眉をひそめた。
「……どこへ行ってたの?」
リゼリアは一瞬立ち止まり、扉を閉めて背をもたせる。胸が縮み、しばしの沈黙の後、掠れる声を絞り出した。
「……彼を、探しに。」
メリッサの視線が鋭く光る。すべてを見抜くような眼差し。
「それで――どうだったの?」
「見たの。」リゼリアの声は震え、「……教国の聖女騎士と、一緒にいるところを。」
短い一言が、胸の奥で鉄槌のように響いた。
メリッサは一瞬口を開きかけたが、軽々しく言葉を挟まなかった。
現実的な彼女には、その一言が何を意味するか分かっている。
ただ、わずかに目を伏せ、静かに問う。
「――だから、もう彼に頼れないと思ったのね?」
炉の火がぱちぱちとはぜ、リゼリアの横顔を明滅させる。
「……宿には戻れなかった。」
瞼を落とし、かすれ声で続ける。
「同じ光景を、もう一度見るのが怖くて。」
メリッサは長く息を吐き、椅子の背にもたれた。
慰めることはしない。ただ黙って見つめ、彼女が言葉を継ぐのを待つ。
沈黙の中で、リゼリアはマントの端をぎゅっと握りしめた。
「……でも、何もしないわけにはいかないの。」
顔を上げると、瞳に頑なな光が宿る。
「符釘の出所、手がかりを掴んだの。放っておけば、もっと多くの魔獣が縛られ、苦しむ。」
メリッサの眉が動く。
「まさか、一人で調べに行くつもり?」
声には苛立ちが滲んだ。
「夜のリュミエラは、あなたが一人で歩けるような場所じゃない。」
「他に方法がないの。」リゼリアはきっぱり遮る。その声は意外なほど強い。
「アッシュが東へ行くなら、私はせめてここのことを終わらせたい。」
炉火が弾け、小さな火の粉が宙を舞う。
メリッサはしばし目を閉じ、最後には小さくため息を落とした。それ以上は何も言わない。
リゼリアは机に歩み寄り、小刀と小さな鞄を手に取る。動作は冷徹なまでに手慣れていた。
「魔獣と話すだけ。人とは争わないわ。」
それは自分への言い聞かせでもあり、メリッサへの説得でもあった。
マントの留め金を留め、フードを深くかぶる。
扉を押すと、夜風が刃のように吹き込んだ。
外は静まり返り、酔漢の叫びと闇商人の靴音だけが遠くに響く。
――『お互い様だ』。
アッシュの冷たい言葉が、胸の奥で逆刺のように疼く。
危険を案じての痛みではない。ただ、息が詰まるほどに苦しかった。
理由など分からない。ただ、その痛みを押し込めるように、さらに歩を速める。
夜のリュミエラが、静かに闇の網を広げていた。
夜は深く、霧が石畳を薄く覆っていた。
リゼリアは足音を殺し、マントに身を包む。露出しているのは集中した双眸だけ。
いくつもの裏路地を抜け、彼女は立ち止まる。
遠くに見える朽ちた給水塔――そこには、街外れを縄張りにする魔獣たちが潜んでいる。
低く呪調を紡ぐと、空気が震え、潜む気配が応えた。
灰白の猟犬型の魔獣が影から現れる。双眸は青く光り、襲う気配はない。低く喉を鳴らし、挨拶のように嗥えた。
リゼリアは膝を折り、冷たい石に手を当て、囁くように問う。
「……符釘のこと、教えて。」
魔獣の喉が鳴り、ざらついた声が響く。
龍語を理解できる者だけが聞き取れる言葉。
――闇市の者たちが鉄箱を持ち、符釘を魔物使いにばらまいている。
――その背後には、さらに別の供給者がいる。
リゼリアは息を止め、眉を寄せる。
供給者……カロスだけじゃない?
その時、魔獣の体毛が逆立ち、唸り声を上げた。
リゼリアは胸を詰まらせ、素早く振り向く。
路地の入口に、人影がひとつ。
灯りがちらりと揺れた瞬間、その影はすぐに駆け去り、足音が霧の奥へ消える。
冷たい汗が掌に滲む。
――闇市の者? それとも教国?
誰であれ、見つかるわけにはいかない。
「行くよ。」低く命じる。
魔獣は彼女の脇につき、二つの影が霧の中に溶けた。
工房の扉が開き、冷風が吹き込む。
アッシュが険しい顔で入ってきた。視線が薄暗い室内を走る。
――探す姿はない。
炉の火のそばで、メリッサが大きなあくびをしながら帳簿をめくっていた。
彼女はちらりと見上げ、皮肉な笑みを浮かべる。
「へえ、ずいぶん早いお帰りね。聖女騎士って案外、満足させるのが簡単?」
アッシュの足が止まり、眉間が鋭く寄る。
「……どうして俺がセイフィナと会ったと分かる。」
「惚けないでよ。」メリッサは肩をすくめ、白い目を向けた。
「リゼリアが言ってたわ。あなたとその女が街角で――いちゃついてたって。」
「……いちゃついてた?」
アッシュの顔色がみるみる暗くなり、喉が動く。反論しかけて、言葉を飲み込む。
セイフィナが腕を掴み、あの距離……傍から見れば、確かにそう見えたかもしれない。
胸の奥がざらつく。苦々しく息を飲み込んだ。
「――リゼは?」低い声で問う。
メリッサは肩を竦め、扉のほうを指す。
「残念。さっき戻ってきたけど、一言だけ残してまた出てったわ。魔獣を探しに行くって。」
言葉が終わるより早く、アッシュは身を翻して外へ駆け出した。
胸の奥がひどくざわつく。
――誤解なら、耐えればいい。
だが、彼女がひとりで危険に踏み込むことだけは、絶対に許せなかった。
メリッサは、勢いよく去っていく背中を見送り、大きく息を吐く。
「……まったく、この二人。どうなってんのよ。」




