第85話 夜街、擦れ違う影
夜風が街灯をかすかに揺らし、石畳は鈍い光を返していた。
工房へ向かい、リゼリアを迎えに行く――はずの足取りは、アッシュの意思に反して次第に重くなる。
――さっきあれほど言い合って、もう一緒には行かないと決めた。互いの足枷になるだけだから。
だというのに、どうしても落ち着かない。
守れる力など持たぬと分かっているくせに、結局……手放せない。
けれど、あの頑なな眼差しと声音。
説き伏せられるか、分からない。
唇の端が自嘲に歪む。
「……あれだけ言い切っておいて、悩んでいるのは俺のほうか」
脳裏に、リメアの素朴な声が反響する――
『あたし、リゼが大好き。やさしいし、いっしょだと嬉しいの』
「やさしい、ね……」
アッシュは低く呟き、胸の奥で不意のざわめきが広がる。
浮かんだのは、リゼリアの姿ではなかった。
――エルセリア。
黄昏の聖堂。彼女の指先が髪に触れ、子守歌のような調べが耳許で揺れた。あの瞬間、深く眠り、安心すら覚えた。
だが、心の底に違和が滲む。
目覚め際の記憶が滲み出る。
――薄暗い蝋燭の灯りに壁が揺れ、自分は長椅子に横たわり、肩には自分の外套。
はっと目を開けたときには、彼女の気配はもうない。そこまで深く眠った自分に、胸がざわついた。
身の回りを確かめる。剣、魔導銃――すべてある。失せ物もない。
それでも拭えない感覚――
朧な意識のなか、指先が自分の身体をなぞった気がした。
……何を探していた?
祭壇に歩み寄る。蝋燭が揺れて燃えている。
入ったとき、何も考えずに火を点けた。今、改めて見ると、何本かは新しく、古い蝋燭とは違っている。
一本取り上げ、鼻先でかすかに嗅ぐ。
微かな香が鼻へ――眠る直前に感じた、あの匂い。
そのとき、夜を断つ冷たい声が現実に引き戻した。
「……聖女殿下はどこだ。ついでに、あの魔女も」
影の底からセイフィナが歩み出る。月光を受けて甲冑が冷たく光る。
金褐色の髪を束ね、鋭い眼がまっすぐ刺してきた。
アッシュの表情が沈む。――エルセリアはまだ大聖堂へ戻っていないのか?
胸裏を掠めた思いを押し込み、冷ややかに答える。
「聖女なら、会っていない。……魔女なら、もう縁は切った。お互い様だ」
街角の淡い灯影の奥、ひとつの影が佇んでいた。
リゼリアは、ただ音に引かれて視線をやった――その瞬間、身体が強張る。
呼吸が詰まり、指先が無意識に握り込まれる。胸がきゅっと縮む。
――縁は切った?
――お互い様?
周囲の喧噪は遠のき、ただその言葉だけが何度も頭の内側で反響する。
セイフィナが手を伸ばし、アッシュの腕を掴む。
嘲りにも似た圧で、押しつけるように言う。
「――ならば案内して。宿でも、当座の寝床でもいい」
その一言が、刃のようにリゼリアの胸へ突き刺さった。
アッシュは眉根を深く寄せ、冷たく吐き捨てる。
「……俺に纏わりつくな」
腕を乱暴に振りほどき、踵を返す。
だが次の瞬間――
セイフィナが踏み込み、彼を抱きとめた。
強すぎる力に、アッシュは一瞬虚を突かれる。
反射で身を捌こうとした刹那、彼女の手が素早くまさぐる。――何かを確かめるように。
暗がりのリゼリアからは判然としない。
月下、二つの影が、あり得ぬほど近い。まるで言い訳のきかない関わりのように。
胸がきゅっと痛む。もう見ていられない。
踵を返し、足元がおぼつかないまま背を向ける。
アッシュの目に冷光が走る。
「……何をしている」
セイフィナは唇を固く結び、なおも硬い声音で返す。
「こうしたくはない。けれど、聖女殿下のためなら他に選べない」
冷静を装った顔に、わずかな紅が差す。
――理由がどうあれ、唐突に男を抱いたことに、彼女自身も戸惑いはあるのだ。
アッシュは彼女の手を払うと、夜闇へと足を早めた。
背で、甲冑が擦れる音。――簡単には引かない女だ。
エルセリアと共に、リゼリアだけでなく、自分からも何かを引き出そうとしている。
胸元の鱗へ、無意識に手が触れる。
このまま工房へ行けば、彼女の視線をリゼリアへ導く。
宿へ戻れば――リメアを巻き込む。
足が止まり、眉間に深い影が落ちる。
まずは、尾を切るしかない。
石畳の影が灯火で長く伸びる。アッシュはわざと歩調を緩め、不意に横路地へ。
重い外套が翻り、闇の奥へ身を沈める。
耳に、甲冑の摩擦音が近づいたり遠のいたり――目に見えない狩り縄のようだ。
剣柄を握りつつも呼吸は浅く、細い路地を幾つも抜け、足音が遠のくのを待つ。
ほど遠くない闇に、リゼリアは立ち尽くしていた。
さきほど、セイフィナが腕を取った。抱き寄せた。
揺れる灯に、その近さが胸に刺さる。――しかも、アッシュはすぐには突き放さなかった……
胸が軋み、呼吸の調子が崩れる。
唇を噛み、去ろうとしたとき、甲冑の微かな擦過音を拾う――女はまだ追っている。
指先がきゅっと縮む。
出ていくべきだ――理性は告げる。
だが直感はさらに強く囁く。
今、姿を見せれば、自分も露わになり、さらにややこしくなるだけ。
――「お互い様」だと言ったのなら、もう口を挟むべきじゃない。
息を落とし、闇に紛れ、別の路へ。
ただひとつ、胸の底だけが重く痛んだ。
アッシュは二筋の路地を素早く横切り、暗い小路を巡る。足音と心拍が重なり、やがて追手の気配は途絶えた。
崩れた石壁に背を凭れ、動きを止める。
吐息が白く散る。汗が額を伝っても、胸の重みは晴れない。
――工房へは、行けない。
セイフィナが潜んでいるかもしれない。リゼリアを巻き込みたくない。
――宿にも、戻れない。
あそこにはリメアがいる。あの子まで巻いたら――考えたくもない。
選んだのは第三の道。
人が寄りつかぬ、ひび割れた壁と壊れた木箱と、枯れ草だけの袋小路。
破れた瓦の隙間から月が斜めに差し、朽ちた影を縁取る。
アッシュは黙って腰を下ろし、壁に背を預け、掌を剣柄へ。そこにあることを、何度でも確かめる。
風が遠い喧噪を運んでくる。
この静かな穴蔵で、思考だけが暗い潮のようにうねる。
――エルセリア。
――リゼリア。
――リメア。
名だけが交差し、何ひとつ指針をくれない。
瞼を落とし、闇に身を沈める。
あの頃に戻ったみたいだ――たった一人で、「王国の英雄」と呼ばれる道に押し上げられた、あの感覚。
ただひとつ違うのは、今の自分には、もう――
アエクセリオンの背すら、掴めないということだった。




