第84話 旅籠の夜、幼竜のことば
夜風が宿の障子をふるりと鳴らした。
アッシュは無言で扉を押し開け、重い足取りのまま部屋へ入る。
リメアはぴたりと背を追い、小さな身をするりと室内へ滑り込ませる。
道すがら、彼の横顔を何度も盗み見た。固い顎の線、寄せられた眉――空気まで張り詰めていく。
剣を寝台脇に立て、背を向けたままマントを外そうとしたとき、リメアはついに小さく声を出した。
【……本当に、もうリゼと一緒は駄目?】
アッシュの肩がわずかに揺れる。
【いっしょだと、楽しいんだ。】リメアは決心したように顔を上げる。【いっしょに食べて、歩いて……あたし、ああいうの大好き。】
アッシュは目を上げ、暗い光を宿したまま、すぐには答えない。
寝台に腰を下ろし、低く言った。
「俺も、そう思う。」
だが疲れの色が滲む。「……だからこそ、一緒にはいられない。」
【どうして……?】
彼は額のあたりを揉み、低く答える。
「一緒にいれば、互いを足手まといにする。」
【……アッシュは、リゼのこと、好きじゃないの?】
その一言に、彼の動きが硬直した。胸の奥がきゅっと疼く。
リメアは気づかない。真っ直ぐに続ける。
【あたし、リゼが大好き。やさしいし、いっしょだと嬉しくなる。】
【アッシュが助けに行けば、また三人で旅できるよ?】
そう言って、額でそっと彼の腕にすり寄る。甘えるように、頼むように。
アッシュは眉間を寄せ、押し殺すように言った。
「……旅? 馬鹿を言うな。俺たちは今、追われて逃げているだけだ。のんきな旅路なんてない。」
リメアは瞬きをして、淡い銀に青の縁を宿した瞳でじっと見上げる。
【最初は、アッシュはリゼを殺すって言ってた……でも今は、そう思ってないよね?】
さらに低く、さぐるように。【それって、好きってこと?】
アッシュの表情がわずかに揺れる。呼吸が浅くなる。
やがて、かすれた声で口を開いた。
「……最初は、そう思ってた。アエクセリオンの死――戦場に歌が響いて、あいつは制御を失った。俺はそれが彼女のせいだと疑った。殺してやりたいとさえ。」
拳が固く結ばれ、節が白む。
「だが確かめようがなかった。彼女も決して認めない……知っていて、言わない。」
【じゃあ、今は?】リメアがそっと重ねる。
アッシュは沈黙し、掌を見つめる。胸に鋭い痛みが走る。
「……一緒にいるうちに、違うかもしれないと思い始めた。」
ほとんど聞き取れないほど低く。「いや――そうであってほしいと、望むようになった。」
脳裏に、彼女の姿が次々と浮かぶ。
まっすぐに射抜いてくる眼差し。
魔獣のために声を上げる頑なさ。
押し倒されても退かない、あの強情な言い回し。
――嫌悪どころか、惹かれている。
できるなら、傍に置き、二度と傷つけさせたくない。
だが、冷たく刺さる言葉が胸に残っている。
『あなたに会う前だって、私はそうやって生きてきた。』
『近くの魔獣に頼むわ。あなたの心配なんて、要らない。』
――俺がいなくても、あいつはやっていける。
胸が締め付けられ、呼吸が重くなる。
彼は低く呟いた。
「……アエクセリオンがいなければ、俺は何者でもない。」
額に手を当て、掠れた声で続ける。
「英雄なんて呼ばれたのは、傍にあいつがいたからだ。いなければ、俺には何もできない。」
押し黙る。空気ごと圧し潰されそうな沈黙。
そのとき、リメアの尾がそっと彼の手首に巻きついた。おずおずと、でも決して離さない。
【ちがうよ。】青の瞳をまっすぐに向け、はっきりと言う。【アエクセリオンがアッシュを選んだのは、アッシュが必要だったから。】
アッシュの胸がびくりと震える。
【あたしも同じ。】さらに強く、尾をきゅっと締める。【いっしょにいたいのは、英雄だからじゃない。アッシュだから。】
彼は自嘲するように目を伏せた。
「……お前には選択肢がないだけだ。」
「あの夜、俺はお前の意志も聴かずに卵を持ち出した。生まれて最初に見たのが俺だった――だから俺しか見えない。本当は、もっといい選び方があったはずだ。」
歯を食いしばり、落とす。
「王が選ぶべきは、玉座に座れる人間だ。逃げている俺なんかじゃない。」
リメアは大きな目で見つめ、ゆっくり首を振る。
【竜が人を選ぶのは、身分や座る椅子のためじゃない。】
【……あたしがアッシュを選んだんだもの。アエクセリオンがアッシュを選んだ理由、ちょっと分かる。】
銀藍の瞳を上げ、小さな声で、しかし確信を込める。
【それに……アッシュのごはん、いちばんおいしい。】
アッシュは呆気にとられ、すぐに苦笑した。
ばかげたくらい単純な理由なのに、胸の底にほのかな温かさが灯る。
リメアは彼の笑みにぱっと目を輝かせ、慌てて言い添える。
【う、うまく言えないの。もしリゼがいたら、もっと上手に言ってくれるのに。】
そう言って、さらにそっと身を寄せ、額で彼の腕を擦る。信じてほしくて、甘えるように。
【だから――アッシュだから、ずっとついていきたいの。】
小さな声は、まっすぐで、まるごと本音だった。
アッシュは黙って彼女を見下ろす。
――あの時、アエクセリオンも、迷っていた俺の肩に、確かに触れてくれた。言葉のない力を、くれた。
今、その温度はリメアに受け継がれている。
幼い仕草は拙いが、真っ直ぐで、威圧などどこにもない。それでも心を撃つ。
しばしののち、彼は手を上げて、リメアの頭をくしゃりと撫でた。
幼竜は気持ちよさそうに目を細め、身体を預けてくる。
……が、アッシュは手を離し、立ち上がる。寝台脇から剣と外套を取った。
【……いま出かけるの?】リメアが首を傾げる。
彼は手際よく剣帯を締め、低く告げる。
「工房へ行く。」
一拍置いて、彼女を見やり、冷たく付け加えた。
「ここで待て。勝手に動くな。」
リメアは口を開きかけ、結局は小さく頷いた。
【……うん。】
扉が閉まる。
床に腹ばいになった幼竜は、ちいさく尾をぱしりと打った。
【……きっと、またあのこわいおばさんのところだ。】




