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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第八章:聖女エルセリア

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第84話 旅籠の夜、幼竜のことば

 夜風が宿の障子をふるりと鳴らした。

 アッシュは無言で扉を押し開け、重い足取りのまま部屋へ入る。

 リメアはぴたりと背を追い、小さな身をするりと室内へ滑り込ませる。


 道すがら、彼の横顔を何度も盗み見た。固い顎の線、寄せられた眉――空気まで張り詰めていく。

 剣を寝台脇に立て、背を向けたままマントを外そうとしたとき、リメアはついに小さく声を出した。

【……本当に、もうリゼと一緒は駄目?】


 アッシュの肩がわずかに揺れる。


【いっしょだと、楽しいんだ。】リメアは決心したように顔を上げる。【いっしょに食べて、歩いて……あたし、ああいうの大好き。】


 アッシュは目を上げ、暗い光を宿したまま、すぐには答えない。

 寝台に腰を下ろし、低く言った。


「俺も、そう思う。」

 だが疲れの色が滲む。「……だからこそ、一緒にはいられない。」


【どうして……?】

 彼は額のあたりを揉み、低く答える。


「一緒にいれば、互いを足手まといにする。」


【……アッシュは、リゼのこと、好きじゃないの?】

 その一言に、彼の動きが硬直した。胸の奥がきゅっと疼く。


 リメアは気づかない。真っ直ぐに続ける。

【あたし、リゼが大好き。やさしいし、いっしょだと嬉しくなる。】


【アッシュが助けに行けば、また三人で旅できるよ?】

 そう言って、額でそっと彼の腕にすり寄る。甘えるように、頼むように。


 アッシュは眉間を寄せ、押し殺すように言った。

「……旅? 馬鹿を言うな。俺たちは今、追われて逃げているだけだ。のんきな旅路なんてない。」


 リメアは瞬きをして、淡い銀に青の縁を宿した瞳でじっと見上げる。

【最初は、アッシュはリゼを殺すって言ってた……でも今は、そう思ってないよね?】

 さらに低く、さぐるように。【それって、好きってこと?】


 アッシュの表情がわずかに揺れる。呼吸が浅くなる。

 やがて、かすれた声で口を開いた。


「……最初は、そう思ってた。アエクセリオンの死――戦場に歌が響いて、あいつは制御を失った。俺はそれが彼女のせいだと疑った。殺してやりたいとさえ。」


 拳が固く結ばれ、節が白む。


「だが確かめようがなかった。彼女も決して認めない……知っていて、言わない。」


【じゃあ、今は?】リメアがそっと重ねる。


 アッシュは沈黙し、掌を見つめる。胸に鋭い痛みが走る。


「……一緒にいるうちに、違うかもしれないと思い始めた。」

 ほとんど聞き取れないほど低く。「いや――そうであってほしいと、望むようになった。」


 脳裏に、彼女の姿が次々と浮かぶ。

 まっすぐに射抜いてくる眼差し。

 魔獣のために声を上げる頑なさ。

 押し倒されても退かない、あの強情な言い回し。

 ――嫌悪どころか、惹かれている。

 できるなら、傍に置き、二度と傷つけさせたくない。


 だが、冷たく刺さる言葉が胸に残っている。


『あなたに会う前だって、私はそうやって生きてきた。』

『近くの魔獣に頼むわ。あなたの心配なんて、要らない。』


 ――俺がいなくても、あいつはやっていける。


 胸が締め付けられ、呼吸が重くなる。

 彼は低く呟いた。


「……アエクセリオンがいなければ、俺は何者でもない。」

 額に手を当て、掠れた声で続ける。

「英雄なんて呼ばれたのは、傍にあいつがいたからだ。いなければ、俺には何もできない。」


 押し黙る。空気ごと圧し潰されそうな沈黙。

 そのとき、リメアの尾がそっと彼の手首に巻きついた。おずおずと、でも決して離さない。


【ちがうよ。】青の瞳をまっすぐに向け、はっきりと言う。【アエクセリオンがアッシュを選んだのは、アッシュが必要だったから。】


 アッシュの胸がびくりと震える。


【あたしも同じ。】さらに強く、尾をきゅっと締める。【いっしょにいたいのは、英雄だからじゃない。アッシュだから。】


 彼は自嘲するように目を伏せた。

「……お前には選択肢がないだけだ。」


「あの夜、俺はお前の意志も聴かずに卵を持ち出した。生まれて最初に見たのが俺だった――だから俺しか見えない。本当は、もっといい選び方があったはずだ。」


 歯を食いしばり、落とす。

「王が選ぶべきは、玉座に座れる人間だ。逃げている俺なんかじゃない。」


 リメアは大きな目で見つめ、ゆっくり首を振る。


【竜が人を選ぶのは、身分や座る椅子のためじゃない。】

【……あたしがアッシュを選んだんだもの。アエクセリオンがアッシュを選んだ理由、ちょっと分かる。】


 銀藍の瞳を上げ、小さな声で、しかし確信を込める。

【それに……アッシュのごはん、いちばんおいしい。】


 アッシュは呆気にとられ、すぐに苦笑した。

 ばかげたくらい単純な理由なのに、胸の底にほのかな温かさが灯る。


 リメアは彼の笑みにぱっと目を輝かせ、慌てて言い添える。


【う、うまく言えないの。もしリゼがいたら、もっと上手に言ってくれるのに。】

 そう言って、さらにそっと身を寄せ、額で彼の腕を擦る。信じてほしくて、甘えるように。


【だから――アッシュだから、ずっとついていきたいの。】

 小さな声は、まっすぐで、まるごと本音だった。


 アッシュは黙って彼女を見下ろす。

 ――あの時、アエクセリオンも、迷っていた俺の肩に、確かに触れてくれた。言葉のない力を、くれた。


 今、その温度はリメアに受け継がれている。

 幼い仕草は拙いが、真っ直ぐで、威圧などどこにもない。それでも心を撃つ。


 しばしののち、彼は手を上げて、リメアの頭をくしゃりと撫でた。

 幼竜は気持ちよさそうに目を細め、身体を預けてくる。

 ……が、アッシュは手を離し、立ち上がる。寝台脇から剣と外套を取った。


【……いま出かけるの?】リメアが首を傾げる。


 彼は手際よく剣帯を締め、低く告げる。

「工房へ行く。」


 一拍置いて、彼女を見やり、冷たく付け加えた。

「ここで待て。勝手に動くな。」


 リメアは口を開きかけ、結局は小さく頷いた。

【……うん。】


 扉が閉まる。

 床に腹ばいになった幼竜は、ちいさく尾をぱしりと打った。


【……きっと、またあのこわいおばさんのところだ。】

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