第83話 夜更けの工房、裂け目
夜はさらに深み、工房の灯りだけがなお燃えていた。
リゼリアは長机に向かい、開いた書巻を一頁も進められずにいた。炉のぱちぱちという音、窓の外の喧噪と犬の遠吠え――この都市の夜が決して静まらないことを思い出させる。
出て行くとき、アッシュは「少し歩いてくる」とだけ言った。氷のような声で、近づくなと壁を作る言い方で。
追いかけなかった。彼には独りで冷やす時間が要ると分かっていたから。
それでも、蝋が一本燃え尽きても戻らない。
「……遅いわね。」
独り言ち、指先で机をとんとんと叩く。胸の底は重く沈むばかりだ。
炉のそばで、リメアがもそもそとおやつを齧っている。胸前の胴紐には、あの箱がきちんと括り付けられていた。――アッシュは当分、彼女に預けるつもりなのだ。
リゼリアの眉間はさらに寄る。扉脇のマントに手を伸ばしては、ためらって引っ込める。
――探しに行く? 夜のリュミエラは昼より厄介。それに、どちらへ向かえばいいというの。
でも、本当に何かがあったら……。
「……アッシュ。」唇が震え、胸がざわめく。
リメアが顔を上げた。口元にはビスケットの粉。
「……心配じゃないの?」とリゼリアが思わず問う。
リメアは当然のように答える。
<アッシュはよく一人で出ていくよ。心配すること?>
リゼリアは虚を突かれ、息がつまる。
――そうね。彼がリメアを放って消えるはずがない。
その時、内室で布擦れ。メリッサが額を押さえながら出てきた。寝起きの顔で、二人がまだ居残っているのを見ると眉を上げる。
「まだここ? どうして宿に戻ってないのよ。」
視線が一周し、ふと探るように問う。
「……殿下、まだ?」
リゼリアは唇を噛み、ついに認める。
「……少し、心配で。」
メリッサはじっと見つめ、やがて小さく笑って肩をすくめた。
「どう見ても、殿下は独断で無茶な捜査に走るタイプじゃない。そんなに張り詰めなくていいわ。何より、彼は普通じゃないし。」
だがリゼリアの緊迫は解けない。目を伏せ、スカートの裾を強く握る。
――直感が告げている。危険が怖いのではない。
別の、なにか。
火明かりの中、リメアは満足げに齧り続ける。その無邪気な咀嚼音が、かえって孤独を際立たせた。
扉が開いたのは、蝋が最後の一節に達した頃だった。
夜風の冷えを纏い、アッシュの影が敷居に現れる。
「……やっと。」リゼリアの胸の張りがすこし下りる。
アッシュは淡々とうなずき、彼女から視線を滑らせて、リメアの胴紐の箱に落とす。
「支度しろ。宿へ戻る。」
そして一拍、低く静かに告げた。
「明日、東へ出る。」
「明日?」リゼリアの眉が寄る。「どうして急に?」
「『龍の聖域』が東にある。辿り着ければ――リメアは本当に安全になる。」
リゼリアは目を見開き、追いすがる。
「『龍の聖域』……? 誰がそんなことを?」
アッシュは短く沈黙し、口を開いた。
「聖女だ。聖典に記述があると。」
空気がぴんと張る。
リゼリアの胸がぎゅっと縮む。声が尖る。
「……じゃあ、こんな時間まで戻らなかったのは、聖女と一緒だったから?」
微細に震える声。「あなたと彼女、どういう関係?」
アッシュの眉がひそむ。氷の調子で切る。
「お前には関係ない。」
「関係ない?」リゼリアは歯を噛みしめ、胸の上に見えない重しが落ちる。
「東に聖域があるなんて伝説よ。誰も確かめてない!」
アッシュは即座に刃の目で返す。
「なら、お前は何を根拠に否定する。」
リゼリアは息を詰めたが、すぐに視線をぶつけ返す。
「……魔獣たちが、そう言ったから。」
震えを孕みながら、しかし澄んだ声。
アッシュの目がさらに冷える。
「なら俺が行って、俺の手で確かめる。」
「じゃあ、私はもう一緒に行かない。」リゼリアは即答した。瞳の奥は微かに揺れる。
「符釘の出所は掴んだ。先にそれを断つ。魔獣たちを救う。」
「お前に敵う相手じゃない。」低い拒絶。
「あなたに会う前だって、私はそうやって生きてきた。」リゼリアは真っ直ぐ見返す。
「できるから、ここにいるの。近くの魔獣たちに頼むわ。あなたの心配なんて、要らない。」
アッシュの脳裏に、エルセリアの穏やかで宥める気配が一瞬過ぎる。――どうしてだ。
どうしてお前は、いつも手綱を渡さない。
苛立ちを押し殺し、低く吐く。
「好きにしろ。もうお前の面倒は見ない。」
その時、リメアが顔を上げ、稀に見る真剣な色で言った。
【あたし、リゼと一緒に行ける。戦えなくても、守れる。】
アッシュの顔色が変わり、鋭い圧で叩きつける。
「――駄目だ。」
【でも、魔獣たちを助けたい!】リメアは声を上ずらせる。【それに……竜の仲間だって危ないかもしれない。何もしないなんて、いや!】
空気が凍りつく。
メリッサが堪えかねて、ひやりと割って入る。
「昨日までベタベタしてたと思えば、今日は取っ組み合い? それに、ここは私の工房よ。あなたたちの戦場じゃないの。」
両手を広げ、少しだけ声を落とす。
「意見が割れたなら、頭を冷やしなさい。」
しばしの膠着。リゼリアが先に息を整え、背を向けた。
「……足は引っぱらない。」背は固く、声はわずかに震える。
「リメア、あなたはアッシュのそばに。私のことは気にしないで。」
言い終え、振り返らない。
アッシュはその背中を見つめ、陰を宿したまま低く言った。
「……聖女が来ている。自分の身は自分で見ろ。」
そう言い、リメアのリードを取り、連れて行こうとする。
リメアは従順に繋がれるが、歩は自然と遅くなる。ちらりとアッシュの横顔を盗み見る。冷えた輪郭、押し殺した眉間。
胸がきゅっと痛む。もう一度だけ振り返る。
蝋の灯りの下、リゼリアはまだ机の前で背を向けて立ち尽くし、意地だけを肩に載せているように見えた。
リメアは口を結び、目に迷いと名残を滲ませる。
アッシュと一緒にいたい。けれど、リゼリアを置いていくのもいや。
答えの出ないまま、小さく俯いて、引かれるままに工房を後にした。




