第9話 霧と追跡者
夜が明ける前、アッシュはすでに背負い袋を肩にかけていた。
宿の扉を押し開けると、下では宿主の中年男が昨夜の祭りの後片付けをしていた。
「もう出発かい? 二泊って聞いてたが?」
アッシュは薄く笑って答える。「予定が変わった。」
だが、その笑みに安らぎの色はなかった。
そもそも二泊するつもりなどなく、ただの偽装にすぎなかった。
この村での補給と休息を口実に、自分とリメアに一時の安堵を与えるつもりだった。
——だが、昨夜の霧と、あの目に見えない「視線」。
それは、どんな野営の夜よりも彼の神経を削った。
階段を下りてきたリメアが欠伸をしながら彼を見上げた。
【ねえ、疲れてるみたいだよ。大丈夫なの?】
「平気だ。」
アッシュはしゃがみこみ、リメアの小さなマントと革の留め具を手早く確認し、手綱を自然に手に収める。
自分のフードを深く被り、額の光を遮るように調整する。
「安全な場所に着いたら、休めばいい。」
宿を出た街では、祭りの後片付けをしている屋台がちらほら見える。
東の道を進んで村の入口に差しかかったとき、前方から鎧の擦れる音が聞こえてきた。
——国境の検問隊だ。
その手には数枚の巻かれた通達書があり、一枚には、粗雑に描かれた肖像とともにこう記されていた。
『アルヴェリオン第七王子 ノアディス』
粗く描かれたその顔は硬直しており、線も誇張されている。
——きっと戦場では兜を着けていたため、彼の素顔を知る者は少ないのだろう。絵師は断片的な情報から描くしかなかったに違いない。
検問隊の隊長がすれ違いざまにアッシュをちらと見た。
視線はすぐに彼の足元の「アルビノのロングスロートリザード」へと移る。
アッシュは無表情のまま身をわずかにひねり、マントで顔の半分を隠すようにした。
擦れ違い、鎧の音が遠ざかるまでじっとしていた。
やがてその音が消えたとき、彼はようやく息を吐いた。
彼は知っている。リメアを連れてこの地に入ることは、剣の刃の上を歩くことと同じだ。
◇
昼前、二人は国境の検問所へとたどり着いた。
遠くからでも見えるほど、石の壁の前には長蛇の列。
手荷物の一つ一つまで厳しく調べられ、魔導感応器で魔力を探られていた。
アッシュは建物の陰からしばらく様子を観察し、額に小さく皺を寄せた。
「……このままでは、無理だ。」
正面から突き進むなど、死を招く愚行に等しい。
彼はリメアに目を向けてから、そっと背を向けた。
「迂回する。」
検問所を避けて進む山道は、深く、湿り気を帯びた霧に包まれていた。
アッシュの歩みは速く、靴音すら落ち葉に吸われて音を立てない。
だが、突如その足が止まった。
——霧の奥に、銀白の影が揺らめく。
その輪郭は細く、毛並みは霜を纏ったように輝き、瞳は凍てつく月光を宿していた。
ヴァルフロスト。
一歩も動かず、ただ静かに見据えていた。まるで運命を待つかのように。
アッシュは喉の奥に不安を飲み込み、視線で周囲の地形を確認する。
接触は避けたい——ここは迂回するしかない。
彼はリメアの手綱を握り、別の山道へと足を向けた。
だが、林の出口に差しかかった瞬間、空に数頭の竜影が現れた。
鱗は陽光を反射し、翼が雲を裂き、巨大な影を地面に落としていく。
アッシュの瞳孔が収縮する。——あれは、野生竜ではない。
装甲をまとった「戦竜」だ。
胸の奥に、冷たい警鐘が鳴り響く。
彼はさらに道を変えようとしたが、空き地に出たところで、馬蹄と金属の響きが、四方から押し寄せてきた。
騎士団だ。
銀と深藍の鎧を身にまとった兵が林から現れ、彼を取り囲んだ。
その先頭——兜を外し、現れた顔。
アッシュの声が低く震える。「……ラッセル。」
懐かしさよりも、警戒と緊張の混じった眼差し。
ラッセルは疲れと勝利を混ぜた笑みを浮かべて言った。
「よく逃げおったな。三ヶ月追い続けたが、足跡すら掴めなかった。だがな、お前の性格を考えれば、“一番危険に見える道”を選ぶってわかってた。」
彼の手が剣の柄に触れ、目を細めた、
その目は鋭くアッシュを射抜き、言葉は鋼のように断定的だった。
「お前のことは、俺が一番よく知ってる。——騎士団で一緒に血を流した仲だからな。」
アッシュは何も言わない。
だが、すでに手は剣の柄に添えられ、もう片手では魔導銃を抜いていた。
ラッセルの口元が持ち上がる。
「……相変わらずの速さだ。だが、ひとりで騎士団精鋭を相手にできると思ってるのか?」
アッシュは黙ったまま、しかし心の中でリメアに念じる。
【隠れろ。でも、俺から離れすぎるな。伏兵がいる。】
リメアは一瞬耳膜を震わせ、戸惑ったが、すぐさま木陰に身を潜めた。
兵たちが剣を抜き、包囲網が狭まっていく。
——そして、アッシュが先に動いた。
剣が陽を切り裂き、魔導銃の符文が淡く光を放つ。
ラッセルの視線がアッシュの背後へと動き、冷たい笑みが深まる。
「——それが……竜王の残した卵か。」
その声は、獲物を追う獵人のように冷酷だった。
「ならば——俺が、回収する。」
アッシュはリメアの前に立ち、剣を構えた。
その声は氷のように低く、鋭かった。
「——やれると思うなら、試してみろ。」