第82話 聖女の祈り、眠りの灯
荒れ果てた聖堂の中、蝋燭の炎がかすかに揺れ、ひび割れた壁に斑の影を落とす。
割れたステンドグラスの隙間から冷たい風が吹き込み、夜の名残を運んできた。
エルセリアは濡れた聖衣を外し、薄衣一枚のままアッシュのマントを身に巻いた。
布にはまだ彼の体温が残っており、火と影の境で彼女を半ば包み込む。
彼女は古びた長椅子に腰を下ろし、マントの端を指先で握りながら、
静かに微笑んで言った。
「……座って。」
アッシュは一瞬迷ったが、やがて無言で隣に腰を下ろした。
二人のあいだには言葉もなく、ただ焔のはぜる音だけが響く。
やがて、エルセリアの肩がかすかに震えた。
彼女は少し身を寄せ、白い吐息をこぼす。
「……まだ、寒いの。」
湖のような瞳が彼を見上げる。
「少しだけ……近くにいても、いい?」
アッシュの呼吸が止まる。
——彼女のこうした衝動を見るのは、これが初めてではなかった。
脳裏に浮かぶのは北の雪夜。
あのときも彼女は、侍従と衛兵の「檻」から抜け出し、
自由を求めるように彼へ歩み寄ってきた。
……運命、なのかもしれない。
そう思いながら、彼はわずかに視線を落とした。
エルセリアは穏やかに微笑み、首を傾げる。
「何か、悩んでるでしょう? ……話してくれない?」
柔らかな声なのに、拒むことを許さない確かさがある。
「少しだけ、分けて。」
アッシュは沈黙したまま床を見つめる。
炎の反射が瞳に揺れるが、その奥の影は照らせない。
やがてエルセリアが手を伸ばし、彼の手に自分の手を重ねた。
冷たい指先なのに、その握りは確かな温もりを持っていた。
アッシュは一瞬息を詰めた。
振りほどこうとしたが、彼女の指がさらに強く絡む。
エルセリアの瞳がまっすぐに彼を射抜く。
「……私を聖女だと思わないで。」
唇に淡い笑みを浮かべながら、しかし言葉には真摯な熱が宿る。
「ただのひとりの女として——見てくれない?」
炎に照らされたその顔は近く、息が触れ合うほどだった。
アッシュは言葉を失い、胸の奥に小さな波紋が広がる。
沈黙。
それでも彼女は退かず、さらに身を寄せる。
濡れた前髪が頬をかすめ、囁きが落ちる。
「……話して。ほんの一言でも。」
火が揺れ、壁に影が踊る。
マントに包まれた彼女の吐息が近く、ふたりの呼吸が重なる。
「——あの時、聞いたの。」
エルセリアの声が静かに満ちる。
「竜王が落ちたという知らせ。瞬く間に、大陸中に広がった。」
彼女のまつげが震え、膝の上の布をきつく握る。
「教国では、竜を憎むように教えられてきた。
でも私は……悲しかった。」
アッシュの眉がかすかに動く。
彼女は続けた。
「竜は罪じゃない。
ただ生きていただけ。
罪を与えたのは——人間。」
そう言って、静かに彼を見上げた。
「……違う?」
アッシュは沈黙したまま、目を伏せる。
「だから分かるの。」
エルセリアは小さく息をつき、微笑を落とした。
「あなたが竜の卵を連れて行った理由も。
次の命を、同じ運命に閉じ込めたくなかったんでしょう?」
アッシュの手がぴくりと震える。
炎がその横顔を照らし、わずかな陰りを揺らす。
エルセリアはその手を包み込むように握り、
囁くように言った。
「国を裏切ることが罪だとしても——
私には、それが守るために見えるの。」
アッシュの瞳が上がる。鋭い光を宿していたが、
彼女のまっすぐな眼差しに、次第に揺らぎが生じた。
エルセリアは穏やかに微笑み、言葉を重ねる。
「……間違ってなんていないわ。」
その横顔は炎の中に浮かび、
まるで祈りの像のように静かだった。
「——目的地はどこ?」
その問いは淡々としていながら、
彼の心の奥を見透かすようだった。
アッシュは長く沈黙し、焔を見つめる。
「……東だ。」
エルセリアの瞳がわずかに光を帯びる。
「東……ね。」
唇に浮かぶ笑みは、秘密を抱くように静かだ。
「そこには『龍の聖域』があると聞いたわ。『古の龍』が降り立った故郷——」
アッシュの肩が強ばる。
胸の奥の、封じていた想いが目を覚ます。
——アエクセリオンは、あの場所へ導こうとしていたのか?
エルセリアは彼の変化を見つめ、
柔らかな声で言った。
「そう……あなたは幼竜を、真に帰るべき場所へ連れて行くのね。」
「……そこが、本当に竜の故郷なのか?」
アッシュの問いに、彼女はゆるやかに首を振る。
「聖典にそう書かれているだけ。
真実を知る者は、もう誰もいない。
確かめられるのは——あなたたちだけ。」
言葉が消えると、聖堂には蝋の滴る音だけが残った。
アッシュはそっと目を閉じ、息を整える。
胸の奥の重みが少しだけ軽くなる。
霧の中に、ようやくひと筋の道が見えた気がした。
その瞬間、静かな疲労が押し寄せる。
肩が落ち、息が深く沈む。
傍らから、微かな香が漂った。
蝋と煙と——彼女の気配。
頬に冷たい指先が触れる。
エルセリアがそっと髪を撫で、彼を抱き寄せた。
「……疲れたでしょう。」
耳もとで、風のような声。
アッシュの指がわずかに震えたが、抵抗はしなかった。
抗う意志と倦怠が、胸の中で静かに溶け合っていく。
そして——歌が流れ出す。
聖堂の賛歌ではない。
耳元でささやくような、やさしい子守唄。
清らかで、温かい旋律。
その音が彼を包み込み、意識がゆっくりと霞んでいく。
蝋燭の光が揺らめき、輪郭がぼやける。
アッシュは目を閉じ、
彼女の腕の中へと身を委ねた。
——あの北の夜と同じ。
檻を抜けた一瞬の自由。
けれど今、彼を包むのは自由だけではない。
言葉にならない、安らぎだった。




