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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第八章:聖女エルセリア

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第81話 聖堂の微光

 ふたりが石畳の小道を抜けると、

 澄んだ小川が陽光を弾き、銀の糸のように流れていた。

 水音がやわらかく響き、朝霧が淡く立ちのぼる。


「見て!」

 エルセリアが突然足を止め、子どものように前を指さした。

 返事を待つ間もなく、彼女はアッシュの手を取って駆け出す。


 草地には露が光り、足元がしっとりと冷たい。

 彼女は流れの縁で立ち止まり、しゃがみ込むと靴紐を解いた。

 白いブーツを石の上に揃え、裸足の踝が陽光を受けて透きとおるように輝く。


 アッシュの視線が硬くなる。

「……何をしている。」


 エルセリアは微笑み、答えの代わりに裾を少し摘んだ。

 スカートの端から、白い脚が朝の光を反射する。


 次の瞬間、彼女は流れに足を入れた。

 冷たい水に触れ、息を呑んだあと——すぐに笑い声が広がる。


「……冷たい!」

 彼女は空を仰ぎ、風に髪をなびかせる。頬に紅が差し、

 その姿は聖壇の上の聖女ではなく、ただ自由を求めるひとりの少女だった。


 彼女は振り返り、きらめく瞳で言った。

「ずっとやってみたかったの。でも、いつも許されなかった。」


 アッシュは岸辺に立ったまま、眉を寄せる。

「そんなことを——」


「——でも、今はできたの。」

 彼女が遮るように言い、両腕を広げる。

 スカートが風に舞い、彼女は景色を抱きしめるように笑った。


 やがてその笑みがやわらぎ、声が静かに落ちる。


「……子どものころ、小川で歌をうたったことがあるの。

 その日、あなたに出会った。」


 穏やかで、しかし確信に満ちた声音。

「覚えてる?」


 アッシュはわずかに目を細め、沈思した。

 記憶の底から、光の粒が浮かび上がる。

 朝の川、きらめく水面、そして低い歌声——

 けれど、そこにいたのは男の子だった。


「……俺はずっと、最初の出会いは北の地だと思ってた。

 それに、あの川辺にいたのは……男の子じゃなかったか?」


 エルセリアの瞳にかすかな光が揺れ、微笑が浮かぶ。


「エルセリア——エルって、男の子の名前みたいでしょう?

 私、小さい頃はずっと男として育てられていたの。」


 彼女は顔を上げる。濡れた髪が頬に貼りつき、

 朝日が水面とヴェールに反射して淡くきらめく。

 まるで詩画から抜け出したような光景。


 アッシュは喉がつまるのを感じ、視線を逸らした。

 ——あの時、確かに男の子だと思い込んで、

 ためらいもなく上着を脱いでいた。

 いま思い返すと、胸の奥が熱くなるほどの気恥ずかしさ。


「……あの時、名前は聞かなかった。」


「いいの。」

 彼女の声は静かで、どこか嬉しそうだった。


「あなたが覚えていなくても、私が覚えてるから。」

 そう言って、彼女は水をすくい上げる。

 笑みを浮かべながら、それを彼の頬へと散らした。


 冷たい滴が頬を滑り落ちる。

 アッシュが目を上げると、

 彼女の翡翠の瞳がまっすぐ自分を映していた。


 エルセリアは水の中でくるりと回る。

 裾が水を弾き、花のように波紋が広がった。


「危ない!」

 アッシュの低い声が響く。

 彼が一歩踏み出した瞬間——

 足を滑らせた彼女の身体が傾いだ。


 反射的に、腕が伸びる。

 彼女を抱き寄せた瞬間、冷たい水が跳ね上がる。

 二人の衣が濡れ、距離がなくなった。


 鼓動が触れ合うほどの近さ。

 エルセリアが顔を上げ、震える声で呟く。


「……もう二度と会えないと思ってたの。

 でも、北の地であなたを見たとき……本当に、嬉しかった。」


「今のあなたは笑わなくなった。

 それは、背負っているものが重いからでしょう?」


 彼女の瞳が光を宿し、祈りのように言葉を紡ぐ。


「でも、私にとっては——あなたは今も、

 あの川辺で私を救ってくれた人。

 世界を背負っても、逃げ出してもいい。

 私は、手を差し伸べてくれたあなたを覚えている。」


 指先が彼の頬をなぞる。

 驚くほどやさしい動き。


「だから、あなたが忘れてもいいの。

 私が覚えていれば、それで。

 この祈りを、あなたが檻から解き放たれる日まで続けるから。」


 小さなくしゃみが漏れる。

 彼女の肩が震え、濡れた布が肌に貼り付いていた。


 アッシュは眉を寄せ、

 濡れた衣越しに映る輪郭を見て、すぐに目を逸らした。


「……帰るぞ。」


「いいえ。」

 彼女は首を振る。濡れた髪が頬を撫で、

 その声は穏やかだった。

「すぐ近くに、小さな聖堂があるの。そこまででいいわ。」




 ふたりは並んで歩き、聖堂へ入った。


 長椅子には埃が積もり、祭壇の蝋燭は半ば溶けている。

 アッシュは指先に光を宿し、炎を灯した。

 温かな光が広がり、冷えた空気を追い払う。


 振り返った瞬間、息を呑む。


 祭壇の前に立つエルセリア——

 濡れた衣が身体に貼りつき、光に縁取られた輪郭は

 儚くも聖潔だった。

 彼女はその視線に気づき、唇の端を上げる。

 どこかいたずらっぽく、それでいて恥じらいを含む笑み。


 アッシュは慌ててマントを解き、彼女の肩にかけた。

「……動くな。そのまま着てろ。」


「だめよ。」

 彼女は小さく首を振り、真剣な眼差しで言う。

「濡れたままじゃ、かえって冷えるわ。」


 アッシュの呼吸が止まる。

 揺らめく火が、濡れた睫毛と紅潮した頬を照らす。

 空気が静まり、重たくなる。


「……自分でできるわ。」

 その声はほとんど囁き。

 しかし、そこにはまっすぐな勇気があった。


「あなたは、ここにいて。

 どこにも——行かないで。」

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