第76話 猟犬亭の口利き
猟犬亭の前は相変わらずの喧騒だった。黄ばんだ灯りに酒と汗の匂い、下卑た笑いと小競り合いの音が、扉の隙間から漏れてくる。
アッシュは足を止め、隣のリゼリアを冷ややかに横目で見る。
「入る前に、もう一度言っておく。俺の傍を離れるな。勝手に動くな」
リゼリアはわざとらしく目を翻し、うんざりした調子で返す。
「しつこいわね。前はそんなこと言わなかったくせに」
アッシュの視線がわずかに沈み、低く落ちる。
「その頃は、まだ知らなかった。お前に何が降りかかるかを」
そして、闇の奥でひと筋の冷光が走るように、押し殺すような声音が続く。
「忘れるな……アエクセリオンの死について、まだお前からの答えを聞いていない」
リゼリアの足が止まり、表情がこわばる。しばしして、ふっと長い息を吐き、睫毛を伏せた。
「……はいはい、わかってる。入りましょう」
扉を押し開けると、熱気と濁った空気が同時にぶつかってくる。店内は怒号と笑いが渦巻き、賽子の転がる音、荒っぽく卓を叩く音、烈酒と煙草の辛い匂いが満ちていた。
粗布と外套に身を包んだとはいえ、二人が入るや否や、いくつかの視線が吸い寄せられる。賭場の客が値踏みするようになめ回し、くすくすと笑う。
アッシュは表情ひとつ変えず、リゼリアの手首を掴んで人波を割る。引かれるままの彼女は小声で不満をもらす。
「そんなにしなくても。すぐ迷子になる子どもじゃないのに……」
「大人しくしろ」アッシュは冷たく一言だけ置く。
カウンターでは、無精髭の主人が布で木杯を磨いていた。こちらを見る眉がわずかに動き、すぐ無関心を装って問う。
「何にする」
アッシュは答えず、懐から符釘をちらりと見せ、銀貨を滑らせる。主人は即座に合点し、店の隅の卓を顎で示した。
ほどなく、濃い色のフードを目深にかぶった男がふらりと現れ、二人の向かいに腰を下ろす。どすん、と木樽杯が三つ、乱暴に置かれ、麦の香りの酒が縁から跳ねる。
男はフードの端を指で押し上げ、半ば影に沈む顔を見せた。通った鼻梁はどこか歪み、口元には常に薄い嘲笑、左耳には黒曜石の耳飾り。全身に「不埒な気安さ」が纏わりつく。
「へえ……昨夜の病弱貴公子じゃないか」掠れた低音に、気の抜けた間延びが乗る。長い指は古傷でざらつき、杯を一つ押しやる。
「ここじゃカルロスって呼ばれてる。で? 薬でも探しに来たか。……いや、そっちの薬か? 男の」
リゼリアの顔がぴくりと動く。アッシュは無表情のまま卓に手を置き、氷のように言い捨てた。
「戯言はいい。知りたいのは——魔獣の荷の出所だ」
カルロスは目を細め、木樽杯を指でとんとん叩いて拍子を取る。
「魔獣の出所ねえ……」わざと引き伸ばし、笑い混じりで核心には触れない。
「こういう話は、誰にでも教えるもんじゃない。とくに——」芝居がかった間。視線が二人を行き来する。
「昨夜、闘技場をひっくり返した病弱坊ちゃんと小娘にはさ」
リゼリアが眉をひそめるより早く、アッシュは黙って睨みつける。
カルロスの笑みが一瞬こわばり、すぐ蛇のようにぬめる。
「慌てんなよ。こっちも興味があってさ。商売か? それとも——仇討ち?」
杯を揺らす手の奥で、利に聡い光が走る。
「後者なら、やめとけ。北境の荷に手を出せる連中なんざ限られてる。お前どころか——王国だって本気じゃ触れねえ」
「やはり王国の連中が噛んでるってわけか」
アッシュは冷たく核心へ踏み込む。「あの刺青の——元・龍輔士だろ」
「グロインね」リゼリアが続ける。声音は静かだが鋭い。
アッシュが横目で彼女を見て、わずかな驚きと感心がよぎる。
カルロスは低く「ふっ」と笑い、面白い獲物を嗅ぎ当てた顔をした。
「思ったよりネタを持ってるじゃないか」
一口あおり、わざとらしくリゼリアを見やる。
「で——強壮剤は本当にいらねえのか?」
リゼリアがきゅっと喉を鳴らす。
アッシュの冷気がすぐさま落ちる。
「俺がそんな顔に見えるか」
カルロスは一瞬呆け、腹の底から笑い出した。酒が卓に跳ねる。
「ははは! 言うねえ。昨夜あれだけ保つだけある!」
笑いが引くと、声が低くなる。
「グロインなら——連邦に捕まった。惜しいが、所詮は小物だ。流通には影響なし」
アッシュの眉間が深く刻まれる。
「北境以外にも拠点があるのか」
「グロインの手下、二人いたわね?」リゼリアが淡々と畳みかける。「男と女。セイラとモラス」
カルロスの目がきらりと光り、口笛を吹く。
「へえ、物知り。そう、あの二人は一時潜ってたが、風が変わるとすぐ顔を出した。——こういう無法地帯が一番居心地いい連中だからな。わかるだろ?」
アッシュの目がさらに沈む。
「……材料を運び込んだのか」
カルロスは即答せず、アッシュの面をまじまじと眺める。見透かそうとする視線。
「その顔……どっかで見た気がすんだよな」
「どこにでもいる凡庸な顔だ」アッシュは平然と返す。
数拍ののち、カルロスは含み笑いを漏らし、危うい愉快さを滲ませて立ち上がった。
「……いいね。じゃあ坊ちゃん——」
空の杯を「コトン」と伏せて、区切りを打つ。
「薬が欲しくなったら、また来な」
そう言い残し、人混みに紛れて消えた。残るのは、卓上の酒気と、鼻先に残る疑いの尾。
去っていく背を見送りながら、リゼリアは眉間を寄せ、小さく呟く。
「……あなたのこと、覚えているみたい」
アッシュは説明を省き、短く「ふん」と鼻を鳴らし、続ける。
「だが、同時に釘も刺した。——これ以上、俺たちとは関わらないってことだ」
リゼリアが瞬く。「……どういう意味?」
「そのままだ。薬を買う時だけ来い——そう言った」
一拍遅れて意味が落ち、リゼリアの頬がかすかに熱を帯びる。じろりと睨む。
「……わざわざ口に出さないで」
アッシュは意に介さず、すでに席を立っていた。
「行くぞ。工房へ戻って、リメアを拾う」
そう言って、振り向きもせず片手を差し出す。
リゼリアは一瞬だけ息を呑み、反射的にその手に自分の手を重ねた。
掌が包まれた瞬間、心の中で渦巻いていた疑念や不安が、理屈もなく少しだけほどける。
脳裏を、幼い日の渓流がよぎった——笑いながら魚を追い、必死に自分を笑わせようとしてくれた少年。
今の彼は冷たく、抑え、寡黙だ。——それでも、要所で差し出す手は、あの頃と何も変わらない。
頼もしさが、胸の底を微かに震わせる。
アッシュはその手をぐっと握り、彼女を引いて歩き出す。
二人の背は薄暗い灯りの海に溶け、酒気と不穏だけが店に取り残された。




