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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第七章:触れられない真実

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第75話 獣に帰路を

 内陳の一角。昨夜の二人組が、溢れた酒杯を片手に卓にもたれていた。

 アッシュが踏み入ると、二人は同時に目を剥き、すぐさま下卑た笑い声を上げる。


「おっと! 昨夜の貴族坊ちゃんじゃねえか。よく戻って来れたな?」

「派手にやらかしたからよ、てっきり外で野垂れ死んだと思ってたぜ」


 視線がアッシュの後ろ、フードを深く下ろしたリゼリアに流れる。

「……昨夜の女か? 値段でも吹っかけに戻って来たのかよ?」


 リゼリアは胸の奥で緊張を噛み殺し、表情は崩さず淡々と返す。


「この格好、無駄だったみたいね」

 そして調子を変え、さらりと問う。

「昨夜の鉄甲ハイエナは?」


「ありゃあな」一人が頭を掻き、気の抜けた声を落とす。「奥で繋いでる。昨夜お前が場を壊したあと、魂抜かれたみてえにぼんやりしちまってよ。もう戦う気もねえ。さて、どうしたもんか」


 もう一人は呵々と笑い、大口で酒をあおった。

「ま、いいじゃねえか。昨夜でがっぽり儲けたしな。今夜は骨休めだ。ほら、座れや」


 どすん、と卓に置かれた杯が、縁から酒をはねる。

 一人が声を潜め、得意げに囁いた。


「昨夜の鉄甲ハイエナな、北境から回って来た品だ。最近は荷が多いらしくてよ。気性も荒ぇし、見世物にはうってつけだ」

 相棒が妙に含みを持たせて付け足す。

「荒いだけじゃねえ。なんか実験されてるって噂だ。噂だがな?」


 アッシュの眼差しが冷たく沈む。指が杯の縁を軽く叩き、低く圧を載せて問う。

「そういう魔獣……いつ頃から出回り始めた」


 二人は顔を見合わせ、先の男が思い出すように言う。


「前から似たのはいたが……昔のは刻印で、長持ちしねえ。二度三度で壊れた。だがよ——五ヶ月ほど前からだ、符釘って代物が出回り始めて、ちっとは保つようになった」


「五ヶ月……」アッシュの眉間がわずかに寄る。


「まだ試作段階だな」もう一人が口を挟む。「おとなしくさせたい魂胆なんだろうが、今んとこ見りゃ噛みつくばかりで制御不能よ。金になるから置いとくが、そうじゃなきゃ誰が飼うかっての」


 アッシュは沈黙で見据え、心中で情報の浅さを切り捨てる。

 そこで、リゼリアがふっと笑みをのせ、杯を取り上げてゆるやかに言った。


「あなたたち、魔獣に詳しいのね。——興味があるの。よかったら仲介人を紹介してくれない?」


 二人は一瞬ためらったが、酒が舌を軽くしていく。やがて観念したように吐いた。

猟犬ハウンド亭に行ってみな。あそこによく現れる情報屋がいる。見りゃわかる」


「猟犬亭……」リゼリアが低く繰り返す。

 さらに何気なく話題を滑らせる。

「それと、最近魔導材料の荷もあるって?」


 二人は目を丸くし、すぐに大笑いして手を振った。


「材料だぁ? そんなもんにゃ興味ねえよ! あれは単眼鏡かけた学者どもが唾つけるブツだ」

「だが——欲しきゃ南東区の倉庫街だな。金さえ積めば、通す奴が出てくる」


 これ以上は出ないと判断したアッシュが席を立つ。

「行くぞ」


「待って」リゼリアの視線が隅の鉄籠で止まる。

 そこには、昨夜の鉄甲ハイエナがうずくまり、虚ろな目で灯りを映していた。


「その子、どうするつもり?」


 二人はちらりと見て、唇を歪める。

「どうもこうも、転がすしかねえ。戦意が飛んだ獣なんざ買い手がつかねえ。置いときゃ厄介だ」


「なら、私が買うわ」リゼリアは静かに告げた。


「……あんたが?」二人は間の抜けた声を揃え、すぐまた笑いに変える。

「何に使う。ペットか? いつ暴れるかわかんねえぞ」


「昨夜で十分に儲かったんでしょう? 不要なら、私に回しても損はないはず」


 あまりにもぶれない口調に、二人は顔を見合わせ、酒気に流されて頷いた。

「へいへい。持ってけ。銀貨でいい」


 リゼリアは袋を取り出し、ぽんと卓に置いた。その眼差しの芯の硬さに、アッシュは横目で一瞬だけ彼女を見た。


 二人と別れ、彼らは籠の前に立つ。鉄甲ハイエナは重い呼吸をし、まだ血を滲ませている。金属めいた鱗板はくすみ、獰猛さは影も形もない。

 リゼリアは膝をつき、そっと呼びかける。


「……もう大丈夫」

 獣はゆっくり顔を上げ、濁った瞳に彼女の姿を映した。唸りはない。ただ、見ている。


「アッシュ、檻を開けて」彼女は振り返り、はっきりと言う。


 アッシュの眉が険しくなる。


「本気か。いつ暴れるかわからんぞ」

 リゼリアは首を振り、柔らかく、しかし確信に満ちて。

「暴れない。——帰りたいだけよ」


 しばし沈黙。やがてアッシュは錠を乱暴に引きちぎる。軋む音が空気を押し潰した。


 鉄甲ハイエナはよろよろと外へ出る。アッシュが無意識に剣をわずかに構えた瞬間——獣はただ、重い頭骨をリゼリアの脇にそっと擦りつけた。名残と、慈しみと、別れの仕草。

 リゼリアは血滲む甲片に掌を重ね、顔を上げる。

「アッシュ……少しでいい、治してあげて」


 アッシュは一瞬目を見張り、低く呟く。

「……魔獣に、俺の魔力を使えってのか」


「お願い」まっすぐな声音。


 短い息。アッシュは頷いた。

「止血までだ。期待はするな」


 掌に小さな光が集まり、傷に落ちる。血はゆるく止まり、傷痕はそのままに、滲みだけが収まっていく。


 リゼリアは彼の手の甲にそっと触れ、柔らかく押さえた。

「……ありがとう」


 アッシュは一拍遅れて瞬きをし、無言で光を収める。



 夜の外れ、彼らは獣を連れて城外へ出た。闇市の喧噪が遠のき、草叢に虫の声が満ちる。檻から解かれた魔獣は、よろめきながら草を踏み、やがて闇の中へ溶けた。


 アッシュは頭巾と面を外し、その背を無言で見送る。

「逃がしても……長くはもたん。北境まで戻れるか」


 リゼリアはその影を目で追い、穏やかだが退かぬ声音で言う。

「それでも、見捨てられないでしょ?」


 アッシュは彼女に横目を寄越し、低く言った。

「……魔獣に寄るお前だから、教国が魔女と呼ぶ。道理だ」


 リゼリアはふっと微笑み、何も弁じず、闇へ還る影から静かに視線を戻した。

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