第8話 火祭りの村
数日間の急ぎ足の旅が続いた。朝の山道には、まだ薄く霜が降りている。
アッシュのブーツが凍った土を踏むたびに、『ギシッ』と清冽な音が朝霧に響いた。
遠く谷の方からは、太鼓と人々の声が交差するように聞こえてくる。
林の出口を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
そこには、東の境界近くの小さな村が、谷間にひっそりと佇んでいた。
屋根はほとんどが青灰色の瓦で覆われ、窓枠や壁の隅々は赤や青に塗られており、明らかにヴァステリア連邦の文化が色濃く残っている。
今日、村の広場はひときわ賑やかだった。
数十人の村人たちが円を作り、手拍子や木の棒で太鼓を叩いていた。
その中心には、木材と藁で作られた巨大な竜の形の人形が立てられていた。
大きく開いた口からは鋭い牙が突き出ており、尾には紙や布の帯が多数結びつけられていた。
子どもたちは竜人形の下を駆け回り、女たちは『竜の血』を象徴する赤い塗料をその体に塗りつけた。
そして、数人の屈強な男たちが松明を手にして、竜人形を火の中へと押し込んだ。
火の粉が舞い上がり、歓声が沸き起こる。炎の赤が、人々の顔を赤く照らしていた。
アッシュは足を止めることなく、ただ手綱を少し強く握った。
白い小さな竜が彼を見上げ、鼓膜をかすかに震わせる。
まるで、周囲から向けられる敵意に気づいたかのように。
人混みを通り抜ける時、酔った村人の何人かが、彼の足元を歩く白鱗の小さな存在に目を止めた。
「……トカゲか?」
誰かがぼそりと呟く。
アッシュは冷たく返した。
「ロングスロートリザードのアルビノだ。」
その口調には、質問を受け付けない明確な拒絶の色があった。
疑いの目を向けられながらも、男たちは肩をすくめ、再び火の方へと視線を戻した。
広場の端にある宿屋には、鉄枠に嵌められた連邦風の油燈が掲げられていた。
宿の主人はがっしりとした体格の中年男で、まずアッシュの剣と荷物に目をやり、それからリメアへと視線を移した。
「珍しいな、白化種とは。ここは一応王国の領土だけど、見ての通りだ——外で勝手に動き回らせない方がいい。誤解されかねないぞ。」
アッシュは黙って頷くと、荷から狩った獣の皮を数枚取り出してカウンターに置いた。
「二泊分の宿と食事に。」
主人は皮を手に取り、満足そうに笑う。
「二階の奥の部屋、窓際だ。旅疲れが顔に出てるな。夕食は部屋まで届けるよ。」
部屋に荷を置いた後、アッシュは膝をついてリメアと目を合わせた。
「少し出かける。日が沈む前には戻る。窓に近づくな。外の音にも反応するな。」
【……うん。】
不満げではあったが、リメアはおとなしく毛布の端に身を縮めた。
アッシュはようやく階段を下り、扉を押して広場へ戻る。
太鼓の音はまだ耳に響いていたが、彼の注意はすでに火の方には向いていなかった。
村の主道を歩くと、両側には赤い布や紙の灯籠が飾られていた。
灯籠には、牙を剥き、鎖に縛られ、足元に炎や血を描かれた竜の絵がいくつも並んでいた。
『竜の牙のお守り』や『竜骨の粉』といった品が並び、邪気を払い、身体を強めると喧伝されていた。
若者たちは酒を片手に、竜狩りの儀を真似て、狂騒に興じていた。
だがアッシュは一目で見抜いた——
それらの牙はただの獣の牙を削ったもので、骨粉は石灰や雑物を混ぜただけの安物だ。
この村の人々は、真贋には興味がない。
竜に対する敵意を表す材料であれば、それで十分なのだ。
時に子らが彼をじっと見つめるが、大人がひそひそと戒め、すぐさま引き離した。
アッシュは何も言わずに雑貨屋に入ると、残っていた獣の皮を乾燥食糧と薬草に交換した。
店主は痩せた背の高い男で、計量しながらこう話しかけてきた。
「王都の方から来たのか? 近年、連邦は竜対策にずいぶん力を入れてるらしいな。火縄銃、弩砲、魔導兵器……聞くところによれば、竜王ですら撃ち落とせるらしいぞ。」
その語り口には、どこか誇らしげな冷たさがあった。
「ここは国境に近いからな。祭りってのは、単なる伝統じゃない——『竜は脅威、仲間じゃない』って、忘れないための儀式さ。」
アッシュは黙ってその話を聞きながら、内心で状況を整理していた。
ここは名目上、アルヴェリオン王国の領土だ。
しかし、ヴァステリア連邦の文化と政策の影響が色濃く染み込み、反竜感情は彼の想像以上に強い。
連邦にとって竜とは、敬うべき存在ではない。
滅ぼすべき敵。
その先に待ち受けるものが、どんな危険であるか——
想像するまでもなかった。
彼は知っている。
リメアを連れてこの地に入ることは、剣の刃の上を歩くことと同じだ。
だが西南は戦場、北は教会の裁きの地。
そして東こそが、連邦の影に包まれながらも、唯一戦火に直接触れていない中立の回廊。
遠回りすれば安全だ。
だが、それでは数ヶ月の時間を無駄にする。
彼の目的地は、ヴァステリア連邦よりも遥か遠くにある。
追っ手に追いつかれぬためにも、他の道はない。
補給を終えた彼は、店を出ると無意識に村の外、霧に覆われた境界へ視線を向けた。
——あの先が、自分たちが踏み入れるべき道。
そして、もう戻れぬ道だった。
夜が更けるにつれて、祭りの太鼓と掛け声はますます激しくなり、火の光は村の半分を赤く染めていた。
アッシュは部屋の扉を閉め、窓の掛け金を確認してから、机に座り地図を広げる。
リメアはベッド脇の毛布に丸まり、耳膜をわずかに開いて、外の騒がしさに興味を示しつつも、どこか落ち着かない様子だった。
「外を見るな。音を聞くな。」
アッシュは静かに言った。
リメアは目をぱちりと瞬かせ、頭をそっと縮め、言われた通りに耳膜を閉じた。
深夜、太鼓の音は遠く消え、火も鎮まり、冷気が窓の隙間から忍び寄る。
そのとき、アッシュは突然目を見開いた——あの気配が、再び迫っていた。
音でも、匂いでもない。
重く、凍てつく視線が、霧の向こうから彼を貫く。
まるで、古の天敵がこの地を静かに見据えているかのようだった。
彼は静かに立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
指先でそっとカーテンをずらし、外を覗く。
——村の外れ、霧は異様に濃く、まるで白い壁のように広がっていた。
その中に、ひときわ大きな輪郭がぼんやりと佇んでいる。
高く、細身で、霜を纏ったような銀白の毛皮。
その瞳は、凍てつく月光を宿していた。
ヴァルフロスト——
伝説に語られる高位魔獣。
雪原を百年歩き続け、龍語と古代魔力に強く反応する存在。
それは一歩も動かず、音も立てず、ただ霧の向こうから宿の方向をじっと見つめていた。
その目には、獲物を狙うような貪欲さはなかった。
ただ、測っている。あるいは、待っているような視線だった。
アッシュは息を呑み、手を剣の柄へとかける。
そのとき、ヴァルフロストがわずかに首を傾けた。
まるで、何かに気づいたかのように——
アッシュはそれが自分ではないと直感した。
その視線は、自分の背後へと流れていく。
彼は即座に振り返った。
——リメアは半身を起こし、耳膜をそっと広げ、
まるで遠い呼び声に応えるように瞳を輝かせた。
アッシュは即座に駆け寄り、彼女を抱き寄せるようにして声を低く抑えた。
「外を見るな。」
その視線が交差したのは、ほんの数秒だった。
ヴァルフロストはそれ以上何もせず、ゆっくりと霧の中へ後退していった。
その姿は、まるで最初から存在しなかったかのように、静かに霧へと溶けていった。
アッシュは窓のカーテンをきちんと閉め、部屋が再び闇に包まれてから、ようやく手を離した。
「……寝ろ。」
その声は低く、押し殺されたようだった。
【うん、わかったよ。】
リメアは再び毛布にくるまり、眠る姿勢に戻ったが、尾の先は小さく震えていた。
それは恐怖ではなく——何か得体の知れない“引力”のようなものだった。
彼女が目を閉じたあとも、アッシュはしばらくベッドに入らなかった。
彼にはわかっていた。
あれは偶然などではない。
——ヴァルフロストは、確実に彼らを“追っている”。