第73話 符釘の正体
短い沈黙。
次いで、セドリックがふいに調子を変え、何気なく放り投げる。
「そういえば——リュミエラ。少し前に魔導素材が闇市へ流れたとか? その小さな箱より、むしろ——そちらのほうが、君にとって、あるいは君たちにとって厄介なんじゃないか?」
メリッサの目がわずかに光り、冷たく返す。
「その件なら……昨夜見たわ。符釘を打たれた魔獣」
「ほう?」セドリックの声音に愉悦が滲む。「やれやれ、もうそちらへ回っているか。では——考えたことはある? その符釘の原材料が何かを」
リゼリアが堪え切れず、立ち上がって通信器を睨む。震える声で、しかしはっきりと。
「あなたの言うそれって……魔獣の血肉、なの?」
対岸は一瞬沈黙し、やがて愉しげな低笑を引き延ばす。
「ふふ……口達者なお嬢さん、とうとう我慢できなくなった?」
声は低く絡みつき、毒蛇が身を巻くようにささやく。
「魔獣の血肉、か? あるいは——骨、かもしれないね」
リゼリアは息を呑み、心臓が跳ねる。
隣で、ふっと力がかかった。
アッシュが彼女の腕に軽く手を置き、その場に留める。
リゼリアははっと顔を向け、夜の底のように深い彼の眼差しとぶつかった。
アッシュの声は極めて小さく、しかし鉄の冷たさを帯びていた。
「……魔獣じゃない」
空気が凍りつく。
リゼリアは口を開きかけて、言葉を失う。
次の瞬間、通信器の向こうでセドリックの笑いが滲み出た。長く、低く、石を擦る鱗のように背筋を粟立たせる笑い。
やがて笑いは収まり、柔らかだが胸を圧す声が落ちる。
「……殿下。やはり逃れられない。君がどこへ隠れようと、そのものは結局、君を追って戻ってくる」
言葉とともに、通信器の光がぐっと翳り、音が断ち切られた。
工房に凝固した沈黙。
リゼリアの手は、まだアッシュに握られて冷たい。彼女が見上げると、アッシュの横顔は鋼のように硬く、消えゆく光を宿した通信器を射抜いている。
メリッサもまた単眼鏡の奥の視線を細め、指先で卓を、とん、とん、と鳴らすが、何も言わなかった。
アッシュの握り拳がゆっくりとほどけ、掌は真白にこわばっていた。彼は目を上げ、低く吐く。
「……やつは、最初から知っていた」
抑え込んだものがこぼれるような、しかし自分に言い聞かせる響き。
リゼリアは唇を震わせ、なおも問う。
「アッシュ……さっきの、つまり——あなたは符釘の材料を……」
彼は短く沈黙し、ようやく絞り出した。
「……竜——」
喉の奥で言葉が重く滞り、さらに重い名が押し潰される。だが、その一音だけで、空気は打ち据えられたように止まった。
メリッサの嘲笑は消え、単眼鏡の底に異様な光が揺れる。顎に手を添え、かすかに吐息。
「なるほど。道理で——」
からかいは退き、冷ややかな興味が残る。
「闇市に素材が溢れるわけだ。竜が絡むなら、群がるのも当然」
アッシュは応じず、視線を卓上の木箱へ落とす。
掌に収まる箱。銀の符が静かに脈打ち、開封の刻を待つように光を潜ませている。
——中身は「竜王の血で染めた符釘」。
セドリックはそう言った。
だが今、アッシュの胸裏に、氷の直感がせり上がる。
——違う。
無意識に指が胸元へ。衣の下にある二枚の冷たい鱗に触れる。
心臓の上で、鱗は呼吸とともに微かに脈を打った。
——アエクセリオン。
名が喉に満ち、千鈞の重しに押さえ込まれる。
リゼリアの瞳孔が収縮する。彼女はそれが何かを知っていた——アエクセリオンの遺した鱗。胸の奥が急に締めつけられ、アッシュの飲み込んだ言葉が、線となって繋がる。
押し潰された沈黙を、幼い心声が破った。
【竜……? でも、どうして竜を釘にするの?】
無垢な問いが、死んだ湖面に石を投げる。
アッシュは目を閉じ、答えない。
——その答えは、口にしたくない。
重さがしばし漂い、メリッサがぱちん、と通信器を畳む。目の光を隠し、平常の軽さに戻した声で、しかし芯は固い。
「——この箱、しばらくは開けないほうがいい」
眼鏡を押し上げ、口角を上げて、努めて何気ない調子を添える。
「でもね。もし開ける日が来るなら、私に言いなさい。こういう研究、他人に横取りはさせない」
アッシュは目を伏せ、返事をせず、箱を掌に深く押し込む。
メリッサは伸びをして、にっこり笑いを作る。
「さて、殿下。次はどうする? 闇市に戻る? まだ拾える糸はあるはず」
「行く」アッシュは低く答え、すぐ継いだ。「——ただし、今度はリゼリアとリメアは連れて行かない」
【えっ?】リメアが瞬きをし、不満げに声を上げる。
【どうして!?】
アッシュは彼女を見据え、冷厳に言う。
「危険だからだ。昨日のことを、もう忘れたのか」
リゼリアは短く目を伏せ、やがてまっすぐ彼を見る。
「アッシュ」思いのほか強い声だった。「交渉は、あなたより私のほうが向いてる。あなたは衝動的で、容赦しない。だけど闇市は、言葉で渡る場所」
アッシュの眉が寄り、箱を握る手に力が入る。
「……お前を、危険にはさせない」
「でも、あなたには私が必要」リゼリアは退かない。瞳に火を宿す。
二人の視線がぶつかり、空気がはち切れそうに張る。
リメアはぴんと耳を立て、〈リゼ、あたしも行く!〉と龍語で叫ぶ。
アッシュはようやく低く言った。重しを抱えた声で。
「……お前は連れてく」
リゼリアの胸がふるえ、言葉を継ごうとしたとき、彼は続ける。
「——だが、リメアは置いていく」
【ええっ!?】リメアが頭を跳ね上げ、尾で床をぱたぱた叩く。
【どうして! いっしょがいい!】
「危険すぎる」アッシュの目は厳しく、微塵も揺れない。「次に連れ去られたら——今度は間に合わないかもしれない」




