第68話 仮面の闘士、その名は......
通路は暗く、壁の魔導灯がちらちらと瞬いていた。
アッシュは無言のまま、二人の案内人に導かれ、鉄格子の奥へと進む。
黄ばむ灯の下、リゼリアは粗末な牢の中に鎖で繋がれていた。
傷こそ浅いが、その顔には明らかな疲労の色が滲んでいる。
リメアはさらに奥、厚い鎖に絡め取られ、低く唸りながらも必死に身をよじっていた。
アッシュの眼が、刃のように鋭く光る。
鞘鳴りとともに剣が抜かれ、切っ先が案内人の喉元に突きつけられた。
「放せ。……彼女たちは元々、俺の仲間だ。お前たちが連れ去っただけだ。」
案内人は冷や汗を垂らしながらも、震える声で言い返す。
「ま、待て! ここは闇市だ、掟がある!」
もう一人も慌てて頷く。
「そ、そうだ! ルール通りにすりゃいい。連れ出したきゃ、筋を通せば済む話だ。」
アッシュの瞳が細まり、殺気が場の空気を凍らせる。
「……条件を言え。」
男たちは顔を見合わせ、にやりと口角を吊り上げた。
「簡単な話さ。――今夜、あんたが出ろ。観客を満足させて、場を沸かせろ。
それで十分稼がせりゃ、女とリザードは解放してやる。派手にやりゃ、連中の興味も冷めるだろうよ。」
アッシュは短く息を吐き、剣を鞘へ戻すと背を向けた。
そして観覧席へ戻り、メリッサの手首を掴んで引き寄せ、低く言う。
「お前が見張れ。奴らが手を出さないように。」
メリッサは一瞬きょとんとした後、眉を上げ、珍しく真剣な表情を見せた。
「本気なのね?」
「当然だ。」
アッシュの声は低く、決意に満ちていた。
「わかった。」メリッサは片目を細め、口の端をわずかに上げる。
「……坊や、死んだらつまらないわよ。」
◇
鉄柵が軋む音とともに開かれ、闘技場中央の石門が上がる。
鎖の軋み、地を這うような咆哮――
そこに引き出されたのは、鉄甲ハイエナ。
鬣犬に似た巨獣だが、体高は馬よりも高く、背には鋸のような骨棘が並ぶ。
顎が開くだけで鉄を噛み砕く。
「おおおおっ!」
歓声が爆ぜる。
アッシュの視線は獣の肩と首筋を捉えた。
肉の奥に、紅く光る数本の符釘――血脈のように光が走るたび、獣の咆哮が凶暴さを増す。
「……符釘か。」
呟きに、案内人の一人が肩をすくめる。
「ああ? あれか? 買った時から刺さってたんだよ。ま、強けりゃ何でもいい。」
三人の挑戦者が場に出る。
斧、槍、魔導師――観客席からは笑い声と賭け金のやり取りが飛び交う。
「ルールは簡単だ。」槍の男が金色の砂時計を指差す。
「砂が落ち切るまで生き残れば一点。賞金が出る。二回目まで耐えたら倍だ。
――ま、誰も一回も耐えちゃいねぇがな。」
鉄甲ハイエナが咆哮し、地を割る勢いで跳ねた。
長槍の男が構えたが、その瞬間――
轟音とともに吹き飛び、護壁へ叩きつけられる。
「ズガァンッ!」
符文柱が雷光を走らせ、電撃が全身を焼く。
悲鳴が観客の狂喜に呑み込まれた。
メリッサの目が輝く。
「すごい! 自動雷撃型の魔導器! 獣の怒気に反応して出力が変化する……!」
興奮を隠せない彼女に、アッシュは冷たく言い放った。
「――悪くない。」
「は?」案内人が怪訝そうに首を傾げる。
アッシュは淡々と続けた。
「俺にも準備しろ。名は……弱そうなので構わん。」
「ははっ、いいねぇ!」男たちは顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべた。
「じゃあ決まりだ。『病弱貴公子』ってのはどうだ? 観客ウケ抜群だぜ。」
再び雷鳴。最後の挑戦者が喰いちぎられ、血飛沫が飛ぶ。
観客は立ち上がり、酒と金を振りかざして狂乱した。
「それでは――!」司会の声が高らかに響く。
「本日の特別試合! 特別挑戦者の登場だッ!」
どよめき。
「今夜の壓軸は終わったはずだろ?」
「臨時の出場者らしいぞ!」
「いいねぇ、血の追加公演だ!」
幕の裏で、アッシュは仮面の内で息を整えた。
背後の男たちがククッと笑う。
「心配すんな、『病弱貴公子』。観客はお前みたいなのが一番好きなんだ。」
鉄門が開く。
光と熱気が洪水のように押し寄せる。
アッシュは一歩、静かに踏み出した。
司会者が滑稽なまでに声を張り上げる。
「さあ諸君! 南方よりやってきた病弱貴公子の登場だあああ!」
笑いと嘲りが爆発する。
「貴族だってよ!」
「半分ももたねぇな!」
「秒殺! 秒殺だ!」
鉄甲ハイエナが咆哮し、爪が石を砕く。
金砂が落ち始め、場内がひとつの熱狂に包まれた。
アッシュは静かに剣を抜く。
銀の刃が、符文の火光を映す。
彼は誰の嘲笑にも反応せず、ただ胸の奥でひとつ呟いた。
――リゼリア。待っていろ。




