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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第六章:自由都市の影

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第68話 仮面の闘士、その名は......

 通路は暗く、壁の魔導灯がちらちらと瞬いていた。

 アッシュは無言のまま、二人の案内人に導かれ、鉄格子の奥へと進む。


 黄ばむ灯の下、リゼリアは粗末な牢の中に鎖で繋がれていた。

 傷こそ浅いが、その顔には明らかな疲労の色が滲んでいる。

 リメアはさらに奥、厚い鎖に絡め取られ、低く唸りながらも必死に身をよじっていた。


 アッシュの眼が、刃のように鋭く光る。

 鞘鳴りとともに剣が抜かれ、切っ先が案内人の喉元に突きつけられた。

 「放せ。……彼女たちは元々、俺の仲間だ。お前たちが連れ去っただけだ。」


 案内人は冷や汗を垂らしながらも、震える声で言い返す。

 「ま、待て! ここは闇市だ、掟がある!」


 もう一人も慌てて頷く。

 「そ、そうだ! ルール通りにすりゃいい。連れ出したきゃ、筋を通せば済む話だ。」


 アッシュの瞳が細まり、殺気が場の空気を凍らせる。

 「……条件を言え。」


 男たちは顔を見合わせ、にやりと口角を吊り上げた。

 「簡単な話さ。――今夜、あんたが出ろ。観客を満足させて、場を沸かせろ。

 それで十分稼がせりゃ、女とリザードは解放してやる。派手にやりゃ、連中の興味も冷めるだろうよ。」


 アッシュは短く息を吐き、剣を鞘へ戻すと背を向けた。

 そして観覧席へ戻り、メリッサの手首を掴んで引き寄せ、低く言う。

 「お前が見張れ。奴らが手を出さないように。」


 メリッサは一瞬きょとんとした後、眉を上げ、珍しく真剣な表情を見せた。

 「本気なのね?」


 「当然だ。」

 アッシュの声は低く、決意に満ちていた。


 「わかった。」メリッサは片目を細め、口の端をわずかに上げる。

 「……坊や、死んだらつまらないわよ。」



 鉄柵が軋む音とともに開かれ、闘技場中央の石門が上がる。

 鎖の軋み、地を這うような咆哮――

 そこに引き出されたのは、鉄甲ハイエナ。


 鬣犬に似た巨獣だが、体高は馬よりも高く、背には鋸のような骨棘が並ぶ。

 顎が開くだけで鉄を噛み砕く。


 「おおおおっ!」

 歓声が爆ぜる。


 アッシュの視線は獣の肩と首筋を捉えた。

 肉の奥に、紅く光る数本の符釘――血脈のように光が走るたび、獣の咆哮が凶暴さを増す。


 「……符釘か。」


 呟きに、案内人の一人が肩をすくめる。

 「ああ? あれか? 買った時から刺さってたんだよ。ま、強けりゃ何でもいい。」


 三人の挑戦者が場に出る。

 斧、槍、魔導師――観客席からは笑い声と賭け金のやり取りが飛び交う。


 「ルールは簡単だ。」槍の男が金色の砂時計を指差す。

 「砂が落ち切るまで生き残れば一点。賞金が出る。二回目まで耐えたら倍だ。

 ――ま、誰も一回も耐えちゃいねぇがな。」


 鉄甲ハイエナが咆哮し、地を割る勢いで跳ねた。

 長槍の男が構えたが、その瞬間――

 轟音とともに吹き飛び、護壁へ叩きつけられる。


 「ズガァンッ!」


 符文柱が雷光を走らせ、電撃が全身を焼く。

 悲鳴が観客の狂喜に呑み込まれた。


 メリッサの目が輝く。

 「すごい! 自動雷撃型の魔導器! 獣の怒気に反応して出力が変化する……!」


 興奮を隠せない彼女に、アッシュは冷たく言い放った。

 「――悪くない。」


 「は?」案内人が怪訝そうに首を傾げる。


 アッシュは淡々と続けた。

 「俺にも準備しろ。名は……弱そうなので構わん。」


 「ははっ、いいねぇ!」男たちは顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべた。

 「じゃあ決まりだ。『病弱貴公子』ってのはどうだ? 観客ウケ抜群だぜ。」


 再び雷鳴。最後の挑戦者が喰いちぎられ、血飛沫が飛ぶ。

 観客は立ち上がり、酒と金を振りかざして狂乱した。


 「それでは――!」司会の声が高らかに響く。

 「本日の特別試合! 特別挑戦者の登場だッ!」


 どよめき。


 「今夜の壓軸は終わったはずだろ?」

 「臨時の出場者らしいぞ!」

 「いいねぇ、血の追加公演だ!」


 幕の裏で、アッシュは仮面の内で息を整えた。

 背後の男たちがククッと笑う。

 「心配すんな、『病弱貴公子』。観客はお前みたいなのが一番好きなんだ。」


 鉄門が開く。

 光と熱気が洪水のように押し寄せる。

 アッシュは一歩、静かに踏み出した。


 司会者が滑稽なまでに声を張り上げる。

 「さあ諸君! 南方よりやってきた病弱貴公子の登場だあああ!」


 笑いと嘲りが爆発する。


 「貴族だってよ!」

 「半分ももたねぇな!」

 「秒殺! 秒殺だ!」


 鉄甲ハイエナが咆哮し、爪が石を砕く。

 金砂が落ち始め、場内がひとつの熱狂に包まれた。


 アッシュは静かに剣を抜く。

 銀の刃が、符文の火光を映す。

 彼は誰の嘲笑にも反応せず、ただ胸の奥でひとつ呟いた。


 ――リゼリア。待っていろ。

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