第67話 闘技場の挑発
薄暗い通路の突き当たりで、轟音と咆哮が潮のように押し寄せた。アッシュとメリッサは冷たい鉄の仮面をつけたまま、重い鉄扉を押し開ける。眼前に広がった光景は、息を呑むほど苛烈だった。
そこは巨大な地下闘技場。環状の観客席が幾重にも積み重なり、満ちあふれた観衆が吠え、叫び、杯を振るう――商人は酒杯を振り回し、鉱山主は金貨の山を放り、面紗を被った貴婦までが声高に賭けを叫んでいる。空気には血と酒と灼けた魔力の匂いが混じり、胸を圧し潰すように重い。
アッシュの視線は一瞬で闘技場の中央を掃いた。石造りの土俵は焦げ跡と亀裂だらけ――幾度も繰り返された残酷な戦いの痕。縁には高い符文柱が何本も立ち、明滅する光が戦場を封じ込めている。
「ご来客の皆々様、ようこそ!」
油然とした誇張まじりの呼び声が場内に響き渡る。「今宵は最高の見世物をご用意いたしました!」
観客席が一斉に沸き、怒号と拍手が波のように押し寄せる。
メリッサは腰を下ろし、無造作に脚を手すりへ投げ出して、気怠げに囁いた。
「見える? これが闇市の愉しみ――血と金のゲーム。」
アッシュは応じない。手すりを強く握りしめたまま、視線だけを下へ釘付けにする。
堅牢な獣皮の肩掛けをまとった大柄な男が隣でふんと鼻を鳴らした。
「はっ、どこの余所者だ。無作法な。ここは誰でも座れる席じゃねぇんだよ。」
メリッサは片眉を上げ、にっこり笑って返す。
「まぁ怖いことを言うね? こっちは公爵家のご子息よ。挑むつもり?」
男は腹の底から笑い、酒臭い息を吹きかけた。
「公爵家? ここで身分は通用しねぇ! 俺と一勝負どうだ。勝ったら席を譲ってやる、負けたら大人しく失せな!」
周囲が途端に湧き、囃し立てる。「勝負! 勝負!」と机を叩く音。格好の余興だという熱。
アッシュの気配が刃のように尖る。仮面の奥の表情は隠れても、放つ圧は覆い隠せない。
メリッサは上機嫌で耳元にささやいた。
「ふふ、舞台に降りる前の肩慣らし、ってわけね。」
獣皮の男は肩掛けを床へ叩きつけ、分厚い胸板を晒した。面を剥ぎ、横肉の乗った顔で豪快に笑う。
「坊主、来いよ! ご子息とやらが、酒と肉だけじゃないってところ、見せてみろ!」
笑いの渦。男はさらに机を叩き、がなり立てる。
「今夜は当たりだぜ! 『白いリザード』に『歌う女』の出し物があるって話だ! 聞いただけで血が滾るぜ!」
笑いと噂が飛び交い、「本当に魔獣が静まるなら金貨十枚賭ける!」と声が上がる。
アッシュの指が手すりの上で、ほんの一瞬止まった。
男は得意げに振り返り、挑発する。
「それともよ、あんたらみたいな飾り貴族は、金か――女とペットでしか粋がれねぇのか?」
爆笑と口笛。
メリッサは細めた眼鏡の奥で光を弾き、くすりと笑う。
「やれやれ、地雷踏んだわね。」
男がさらに口を開くより早く、視界がぶれた。
――ゴン。
剣の柄が鳩尾にめり込む。呼気が潰れ、男は呻きとともに折れた。
続けざまに、頸へ手刀。
――ドサ。
白目を剥いた巨体が糸の切れた操り人形のように倒れる。
一瞬の静寂、そして喝采と嘲笑のどよめき。余興が一つ増えた、そんな熱。
アッシュは冷ややかに手を引き、何事もなかったかのように腰を下ろした。
メリッサは面白がって足先で男を小突き、鬱陶しげにどかしてから、その上に足を乗せてくつろぐ。
「ん――座り心地、最高。でしょ?」
「……悪くない。」アッシュは場の喧騒を切り捨てるように吐き、仮面の下の眼はなおも闘技場の中央を射抜いていた。
血と歓声は続く。新たな魔獣が二頭、檻から引き出され、観衆が悲鳴と喝采を上げる。
メリッサは子どものように手を叩き、賭け札まで握ってはしゃぐ。
「見て見て! そんな三流の暗器、まだ使う人がいるんだ! 最高!」
アッシュは、その浮つきに一瞬陰を落とした――彼女は本当に助力者か、それとも遊戯の延長か。
……だが、さきほどの男の言葉が耳に刺さったままだ。
「白いリザード」「歌う女」。
アッシュはすっと立ち上がる。
「どこへ?」メリッサが首を傾け、気の抜けた声で言う。「お手洗い? 早く戻って、いいところなんだから。」
アッシュは答えず、人波へ消えた。
冷ややかに人垣を割り、土俵の脇の暗い通路へ――だが、刺青だらけの男が二人、前に立ち塞がる。
「おい、お前だな? さっき客席でウチの奴をぶっ倒したの。」
「アイツ、今夜の出場予定だったんだよ。人数が足りねぇと、興行が立たねぇ。」
アッシュの眉間がわずかに寄る。声は鋼のように冷たい。
「俺には関係ない。目的は二つだけだ――白いリザードと、女。」
二人は顔を見合わせ、腹の底から笑った。
「聞いたか? 焦ってやがる。」
「だがよ……会わせてやれないこともないぜ。」にやりと片方が囁く。「――ただし、穴埋めしてもらう。出るはずだった枠、お前がやれ。」
短い沈黙。アッシュの指がゆっくりと柄にかかる。
やがて、鉄のような声音で言い切った。
「……いいだろう。出る。ただし、その前に二人の無事を確認させろ。でなければ交渉の余地はない。」
二人の笑みが一瞬ひきつり、すぐにまた意地の悪い笑みに戻る。
「慎重だな、小僧。まあいい、こっちだ。二つの上物に傷がついたら価値が落ちるからな。」
「ついて来い。逃げるなよ?」
「案内しろ。」
アッシュの声は氷の刃のように平坦だった。仮面の奥の眼は、闇の奥で炎のように冴えている。




