第66話 闇市の仮面
意識の底で、暗闇がゆらゆらと波打っていた。
アッシュは、はっと目を見開く。
まぶしい光が視界を刺し、思わず身を起こそうとする――が、肩と腕が包帯で固く縛られ、体中に麻痺の残滓が残っていた。
「やっと目を覚ましたか。」
耳元で、気だるげな女の声が響く。
顔を向けると、単眼鏡の奥でこちらを観察する瞳。
メリッサ・ブラウニングが、血の滲んだ注射器を指先でくるくると回していた。
「……お前か。」
掠れた声で問うと、彼女は肩をすくめて笑った。
「運がよかったね。あなたらが今朝ここを出たって通報があってね。半死のあなたを拾ってきたのは私だよ。」
その言葉を聞くや否や、アッシュはベッドを蹴って起き上がろうとした。
「リゼリアとリメアが――連れ去られた!」
「こら、動くな!」
メリッサが眉をひそめるが、彼はすでに立ち上がりかけ――足元が崩れ、膝をついた。
薬の効果はまだ完全には抜けていない。
メリッサはため息をつき、両手を広げる。
「まったく……頭は回るみたいだね。そう、確かに、道中で何人か半殺しにしてたわ。血の跡をたどって現場を確認した。今、部下に追わせてる。」
アッシュは荒い息をつきながら、低く唸る。
「……何者だ。」
「暫定的な判断?」
彼女は眼鏡を押し上げ、唇に皮肉な笑みを浮かべた。
「人身売買だろうさ。この街の闇市、今に始まったことじゃない。」
アッシュの拳がわずかに震える。
「……なぜ彼女たちを狙う?」
メリッサは椅子の背にもたれ、顎に指を当てていたずらっぽく目を細める。
「気づいてないの? 昨日の音楽祭。彼女、ほんの数節の古歌を口ずさんだだけで、広場全体が静まり返ったのよ。
鳥も、犬も、人も――まるで息を止めたみたいに。」
彼女はちらりとアッシュを見て、くすっと笑った。
「特別だと思ってるのは、あなただけじゃない。」
アッシュは黙ったまま、拳を握る。
「それに――あのちび竜。」
メリッサは部屋の隅の壁を見やり、そこに刻まれた鎖の痕を指さす。
「アルビノのリザード、ってだけでも珍品。もし竜と知られたら、そりゃあ高く売れる。」
アッシュの瞳が鋭く光る。
「……こんなことが、常態化してるのか。この都市で?」
「ふふ、ここは自由都市よ。」
メリッサは肩をすくめ、何の感情もなく言い放つ。
「金を出せば、何だって手に入る。」
沈黙。
アッシュは立ち上がり、まだ覚束ない足で一歩を踏み出した。
だが、その眼光はすでにいつもの冷たさを取り戻していた。
「……案内しろ。闇市へ。」
メリッサは片眉を上げ、口角をわずかに持ち上げる。
「ずいぶん立ち直りが早いわね。でも――いいわ。そこまで言うなら、付き合ってあげる。」
立ち上がりながら、手のひらでコートの埃を払う。
「ただし、警告しておく。闇市の掟は王国の戦場よりもずっと複雑。しくじれば、この都市ごと吹き飛ぶかもよ。」
アッシュの声は低く、硬かった。
「構わない。」
夕闇が街を包み、魔導灯とネオンが通りを照らす。
華やかな表通りから数本外れただけで、光は薄れ、湿った石畳と霉の臭いが立ち込める。
メリッサが壁に刻まれた古い魔導紋を指先でなぞると、それが淡く光り――
石壁が波打ち、水面のように歪んだ。
「ようこそ、リュミエラの本当の顔へ。」
彼女は口元だけで笑った。
その先には、喧噪と灯火が渦巻く地下広場。
闇市――。
商人が檻の中の魔獣を売り叫び、
錆びた武器を「古戦場の遺物だ」と宣伝し、
隅では奴隷の籠が並んでいる。
血と香辛料の混ざった匂いが、胸を焼くように重い。
アッシュの手が無意識に剣の柄へ伸びた。
メリッサはそんな彼を横目に見て、あくびを一つ。
「剣を抜くな。ここじゃ命より金が法律よ。払えば、王族の首だって並ぶ。」
アッシュは無言で、周囲を鋭く見渡す。
リゼリアとリメアの痕跡を、目の奥で探す。
その時、髭面の情報屋が近寄ってきた。
「お客さん、探し物? 人? それとも品かい?」
メリッサは無造作に銀貨を投げた。
「新しい荷が入ったと聞いたわ。女ひとりと、珍しい白いリザード。案内してもらおうかしら。」
情報屋の目が一瞬ぎらりと光る。
だが、アッシュの冷たい視線を浴び、背筋を震わせた。
「そ、そんな話は知らねえが……今夜は闘技場が盛り上がってる。珍しい見世物があるらしい。
見るなら賭けなきゃ入れねえけどな。」
アッシュの眉がわずかに動く。
殺気が滲む。
メリッサは一歩前に出て、わざとらしく囁いた。
「この人ね、某国の公爵家のご子息なの。
表向きは旅人ってことになってるけど、あまり詮索しないほうがいいわよ。」
その視線がアッシュを横目に示す。
意図を悟ったアッシュは短く息を吐き、顎を上げて言った。
「……時間を無駄にするな。」
その声音には、完璧な貴族の傲慢があった。
情報屋はびくりと肩を揺らし、顔を引きつらせて笑う。
「へ、へい! お貴族様とは知らず、失礼しました! こ、これをお使いください!」
懐から取り出されたのは、鉄製の仮面が二つ。
「闇市の匿名貴族ルールでございます。身分を隠し、好きに遊ぶ――お楽しみを。」
メリッサは片手で仮面を受け取り、もう片方をアッシュへ差し出した。
単眼鏡の奥の瞳が、光を弾いて笑う。
「安心して。タダで助けてるわけじゃない。
私もね、普段はこのエリアに入れないのよ。せっかくだから、利用させてもらうわ。」
アッシュは無言でそれを受け取り、冷たく息を吐いた。
鉄の仮面が顔に触れた瞬間、その瞳はさらに鋭く光を帯びる。
――リゼリア。リメア。
必ず、取り戻す。




