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第7話 白い魔獣

 アッシュの足取りは、小屋を離れてから、目に見えて急ぎ足となっていた。


【どうして、止めなかったの?】

 リメアが追いつき、彼の背中に問いを投げかけた。

【あの魔物たち……すごく、悲しそうだったの。】


 アッシュの声は、まるで刃物のように冷たく、まっすぐだった。

「深入りするつもりはない。お前を東へ連れて行く、それが今の目的だ。」


【でも……アッシュって、昔は“英雄”だったのよね?】

 リメアは躊躇いながらも、問いを続けた。


【昔は弱い人を助けて、黙って見て見ぬふりなんて、しなかったんじゃないの?】

 そして、ぽつりと、もっと深く突くような言葉を口にした。

【……それとも、私がアエクセリオンに敵わないから?】


 その瞬間、アッシュの足が止まった。

 彼は振り返り、怒気を押し殺した目で彼女を見据える。


「……俺が、そんなことを口にしたか?」

 その声は、水面に石を投げ込んだような重みをもっていた。


 リメアは一歩退き、無意識に尻尾を巻き込む。

 すると、アッシュの表情が少しだけ緩む。


「……考えすぎだ。お前を誰かと比べたりしない。」


 視線を逸らしながら、彼は静かに言った。

「“英雄”だったのは昔の話だ。今さら振り返るつもりもない。」


 その刹那だった。

 遠く、森の奥から――あの龍語の旋律が、再び漂ってきた。


 呪歌のように、静かに響き合う。


 アッシュの顔色が一変し、瞳に鋭い光が宿った。

 すぐさま踵を返し、駆け出した。


「ついてくるな!」


 魔導銃を引き抜き、掌の中で符文が冷たく輝いた。

 彼は音の方角へと駆け抜けた。


 林を抜けた瞬間、視界に飛び込んできたのは――

 あの男の倒れた姿。そして、純白の魔獣。

 それは、雪霜で形作られた幻のような存在だった。


 戦馬よりも高く、筋肉の線は鋭くも流麗で、まるで氷雪を纏った幻獣のようだった。

 その鬣は氷晶の糸のように光を帯び、吐く息すら霜の華に変わる。


 静かな双眸は、月のように深く澄んでいて、アッシュの姿を映しながらも敵意を示さなかった。

 だが、アッシュはすぐに名を口にする。


「……ヴァルフロスト。」


 伝説の高位魔獣。一世代に一体しか生まれないという、幻雪の獣。

 龍語と古代魔力に対して、極めて鋭敏な反応を示す存在。

 アッシュは銃を構え、引き金を引く。


「――ッ!」


 銃声と共に、弾丸は獣の鬣をかすめた。

 だがヴァルフロストは、それすらも面倒そうに避けた。


 まるで、氷風を一振りで払ったかのように。

 さらにもう一発撃とうとするが、魔力供給が急激に下がる。

 符核がもう限界だった。


 アッシュは銃を収め、剣を抜いて踏み込もうとした――その瞬間、

 ヴァルフロストはしなやかに跳び、深い林の中へと消えていった。

 歌声もそれに伴い、次第に遠のいていく。

 アッシュは数歩追ったが、力の消耗が激しく、やむなく足を止めた。


 男の身体はすでに冷たくなっていた。

 傷は浅いが、低温の魔力によって焼かれたような痕が残っていた。


「ヴァルフロストが……奴の行いを、看過せなかったのか?」


 アッシュは呟きながらも、考えを深めていた。

 そこへ、リメアの声が頭に響いた。

【アッシュ。】


 アッシュは振り返り、目を細める。

「ここに来るなと言ったはずだ。」


【……でも、嫌な気配を感じたの。だから、来た。】


 しばらく無言のまま見つめた後、アッシュは力を抜き、肩を落とす。

「……もういい。ここに長居しても意味はない。」


【でも、ねえ、お腹すいたよ!】

 リメアがくいっと尻尾を揺らす。


 アッシュは空を見上げて、ため息を吐く。

 今日はもう予定よりずっと遅れていた。


 彼は最後に男の遺体へと視線を落とし、静かに言った。

「行こう。森を出て、湖のそばで休もう。」



 湖の水面は、森を抜ける風に小さく揺れていた。


 アッシュは荷を下ろし、枝と麻縄で作った釣竿を取り出し、石の上に腰を下ろした。

 リメアはすぐさま水辺へ行き、爪で水をぱしゃぱしゃと叩く。

 魚影を見つけると、勢いよく飛びかかったが――


【また逃げた!】

 ぬれた前足を振りながら、不満げに呟く。


「動きが急すぎる。」

 アッシュは魚影を静かに追い、数分後、ぴたりと竿を引き上げた。

 跳ねる魚を岸に放ると、リメアが飛びついて押さえ込む。


【見てよ! 私が捕まえたんだから!】

「……そうだな、お前のだ。」


 アッシュはそう言って魚をさばき、火にかける。

 焼き魚の香りが湖辺の清気に漂い、リメアの鼻先がそっと震えた。


 焼き上がった魚を手渡すと、リメアは無言で食べ始めたが、

 その耳膜は微かに開き、まだどこか遠くの音を探していた。


 あの紫の気配。差し出された手。あの微笑み――

〈……彼女、だったの?〉

 けれど、それは口には出さない。

 彼女と交わした、「私たちだけの秘密」だから。


 焚き火のそば、リメアは魚を抱えながら、ちらりとアッシュの顔を見る。

 今日は、彼の感情が溢れる瞬間を確かに見た。


 抑えられた怒り。奥深くで疼く傷。


 あの破殻の瞬間――アッシュの顔は、本当に嬉しそうだった。

 けれど、それ以降、そんな表情は一度も見ていない。


 まるで命令を遂行するかのように、彼は東を目指して進んでいる。

 地図と地平線ばかりを見て、自分のことはほとんど語らない。


 リメアは、これから記憶を取り戻していく。

 母の記憶、古き竜たちの記憶――その断片が、少しずつ戻ってくるだろう。


 彼の本当の名。彼と母の関係。そして――彼がこの国の人間ではないこと。

 でも今の彼女には、まだ人間のルールがよくわからない。


 なぜ、聞いてはいけないことがあるのか。

 なぜ、黙っていなきゃいけないことがあるのか。


 アッシュは日常のことをたくさん教えてくれる。

 毒の実の見分け方、水の見つけ方、人の多い町では隠れていること。


 だけど――

 なぜ彼女の存在が、そこまで“危険”扱いされるのか、

 彼女には、まだ理解できなかった。


 魚をもう一口かじり、思う。

 今はまだ、聞かないでおこう。


 彼の過去は、鱗の下の傷のように見えるから。

 不用意に触れると、彼はまた、遠くへ行ってしまう気がした。


「……食べ終わったら、寝ろ。」

 アッシュの声が、火を隔てた向こうから届く。


【……うん。】

 残った魚を口に放り込み、リメアはもぐもぐと飲み込んだ。


 風の中に、見知らぬ冷気が混じる。

 それは、雪原の奥にあるような、深くて静かな匂いだった。


 アッシュの目は、湖を越え、見えない闇の中を見つめていた。

 ヴァルフロストの白い影。あの、長い歌声。

 それらが心の奥に交差し、消えずに残り続けている。


 彼は小さく息を吐き、小刀をブーツの鞘へと戻す。

「寝ろ。」


 リメアは火のそばで身を丸め、そっと耳膜を開いた。

 だが夜風の中に、あの旋律はなかった。


 それでも――

 その静けさを、彼女は夢の中へと持ち込んだ。

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