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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第六章:自由都市の影

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第63話 魔導工房の扉が開くとき

 広場にはまだ拍手と笑いが渦巻いていた。

 だがアッシュの背後で、感情の温度を欠いた低い女声が落ちる。


「……ずいぶん、無防備だこと。」


 心臓がひとつ強く打つ。アッシュは即座に身を翻し、リゼリアの肩を自分の側へと引き寄せた。

 人波の向こう、ひとりの女が静かに立っていた。


 茶の大きなウェーブを後ろで束ね、単眼鏡の奥の眼差しは冷ややかに鋭い。金のチェーンが灯に揺れ、よく仕立てられたマントは乱れがない。腰には短い杖と重たげな記録帳――旅人というより、学舎の講壇からそのまま抜け出た魔導師。


 喧噪に迎合しない気配は、逆に周囲のざわめきを自然と沈めた。

 彼女の視線がアッシュの胸元で一瞬止まり、唇の端がわずかに上がる。


「お久しぶり――ノアディス殿下。」

 本名が、刃のような平板さで空気を裂いた。


 アッシュの顔から血の気が引き、手が自然と柄に落ちる。

「メリッサ・ブラウニング。」


 リゼリアが息を呑む。

「王国の人……? こんな所で……」


「そんな顔をするな。」

 メリッサは単眼鏡を押し上げ、澄んだ調子で言い放つ。

「ここで長話をする気はない。――来なさい。街角で扱うような話じゃない。」


 踵を返し、顎で合図する。二歩進んだところで、ふと俯いてリメアを覗き込み、片眉を上げて妙な変顔をした。

 小さな竜はびくりと首を縮め、尾を震わせ、アッシュの脚に身を擦りつけてからようやく落ち着く。


 アッシュは目を細めたが、何も言わなかった。本名を切られた以上、ついて行かぬ理由はない。


 道すがら、リゼリアが小声で問う。

「彼女、誰?」


「メリッサ・ブラウニング。王国の魔導顧問だ。セドリックとは双璧――王国で最も腕が立つ二人の、もう一人。」

 そこまで言うアッシュの声音に、珍しく敬意が滲む。


 リゼリアは一瞬目を見張る。――この男が、こんな顔をするのを見るのは初めてだ。

 だからこそ、胸の緊張が少しほどける。アッシュにこの表情をさせる相手なら、少なくとも今は敵には回らないだろう、と。


 メリッサは横目で冷ややかに言い捨てる。

「私を『あの笑顔の狐』と一緒にしないことね。」


 アッシュは予想していたかのように、短く息を吐く。

「……二人は、仲が悪い。」


 リゼリアは唇を噛み、さらに声を落とした。

「性格、どっちも良くはなさそうね。」


 アッシュは面食らい、思わず小さく笑った。夜気の中で妙に真っ直ぐに響く笑いだった。


 メリッサの歩は速く、淀みがない。単眼鏡に灯が反射し、マントの裾が夜風にかすかに揺れる。

 喧噪の広場を抜け、石畳の広い大路に折れると、やがて音が退いていく。


 そして目の前に、それは現れた。

 白石と金属が交錯する大きな楼。外壁には複雑な魔導刻印が這い、楼頂には光を瞬かせる魔晶球が幾つも浮遊する。夜空はそこだけ昼のように明るい。

 重厚な鉄扉には、歯車と魔眼の重なり――リュミエラ魔導工房の紋が刻まれていた。


「魔導工房……」

 リゼリアが息を漏らす。


 王国の軍備と秩序とは別の匂い――ここは実験者の楽園だ。狂気と自由、制御し難い力の気配。


 メリッサは足を止め、こちらを一瞥する。

「入るわよ。あなたが抱えているそれは――いずれ、もっと厄介なものを呼ぶ。」


 アッシュは眉間をわずかに寄せる。狙いが箱であることは分かっていた。

 リゼリアが短く彼を見る。その瞳は複雑だ。


 鉄扉が開き、歯車と鎖の低い唸りがこだまする。

 奥は大きな中庭。塔のように聳える魔導装置が中心に据えられ、水晶球と導管が星河のように光を流す。

 長衣の学士と職工が記録板と試験管を手に歩を急がせ、絶え間ない研究と実験が進行していた。


 リメアは首をすくめ、そろりとアッシュに寄り添う。ここに満ちる匂いは、彼女にとって心地よくはない。

 視線を集めることも意に介さず、メリッサは奥へ。


「ここまで来たら、芝居は不要。」

 横顔の単眼鏡が光る。

「見せなさい――あなたのその『封印』を。」


 アッシュは掌ほどの箱を取り出す。表には緻密な銀の符文、中央には淡い光を脈打たせる魔導封鎖。紋は生き物のように僅かに流れ、空気に歪んだ圧をつくる。


 メリッサの眼が鋭く細まる。

「箱……ね。――この封印、凡百の手口じゃない。」


 アッシュが目を動かす。

「お前の仕事じゃないのか。」


 メリッサは眉を上げ、即座に返す。

「誰がそう言ったの?」


 アッシュの指先がわずかに強張る。脳裏に、セドリックの声が蘇る。


 ――『あれは――ある人の特注品だからね。オレ様でも解くには時間がかかる』

 ……「ある人か」。それは、彼女ではない?


 メリッサは彼の逡巡を待たず、眼鏡を押し上げて続けた。

「『逆相式封印』。設計者の意図は明快――解こうとした者から先に魔力を吸い上げ、干上がらせる。」


 アッシュの心臓が鈍く跳ね、唇が固く結ばれる。


「面白いわ。」

 彼女は視線を戻し、その声色にだけ重さが差した。

「問題は――誰があなたに『私の仕業』と吹き込んだか。」


 アッシュは答えない。


「……セドリック、でしょ。」

 顔色の機微だけを読み取り、メリッサは薄く笑う。

「ふん。あの男の言葉は、丸呑みにしないことね。」


 リゼリアは二人の言葉の刃を見つめ、胸の奥がわずかに強ばる。

 王国の魔導顧問――一筋縄ではいかない。だがアッシュは盲信せず、見極めようとし、譲らない。その事実だけが、彼女の不安を少し和らげた。


「開けられるか。」

 アッシュの問いに、メリッサは眼鏡のブリッジを指で整え、短く答える。


「――研究に値する。」

 そして、ほんの一拍置いてから、アッシュの顔に視線を止める。

「心配なら、ここに泊まってもいい。客室はある。」


「……遠慮する。」

 アッシュはきっぱり首を振る。

「今夜は宿だ。箱は俺が持つ。明日、持ってくる。」


 メリッサは肩を竦めてみせる。無頓着を装う仕草の裏で、単眼鏡の奥の瞳は箱に張り付いて離れない。光が瞬き、ほとんど狂気にも似た熱が宿る。リゼリアの背筋に冷たいものが走る。


「いいわ。」

 押し殺した期待が滲む平板な声。

「明朝、またそれを持ってきて。」


 自らの熱を悟ったのか、メリッサは小さく顔を背ける。

 ――が、すぐにリメアへ視線を戻し、唐突に奇妙な顔を作ってみせた。


「……っ!」

 リメアは小さく悲鳴を漏らして縮こまり、あわててアッシュの胸に頭を押しつける。


 【アッシュ……このおばさん、こわい。】

 アッシュは片腕でリメアを包み、もう片手で箱を懐へ戻す。


 その仕草を見届け、メリッサは最後に眼鏡を押し上げて言う。

「――忘れないで。明日。」

 マントの裾が弧を描き、灯と影のあわいに消えていく。


 扉の隙間から夜風が吹き込み、薬剤と金属の匂いを薄めた。

 広い中庭に、アッシュとリゼリア、リメアだけが取り残される。短い沈黙。


「……行くぞ。」

 アッシュが口を開く。三人は踵を返し、背に重い鉄扉の閉まる音を受けて、工房の圧と未知をいったん外へと閉め出した。

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