第60話 夜明け前の出立
フィリシアが飛び込んできたとき、わずかに荒い息が胸を震わせていた。
彼女の視線がアッシュとリゼリアの間で一瞬止まり、眉がかすかに寄る。何かの気配を嗅ぎ取ったかのように。
「……一つだけ問うわ。教国が探している《《魔女》》――それは、あなた?」
視線はリゼリアへ。圧はあるが、敵意はない。
アッシュはすぐには応えず、険しい顔のまま。
代わりにリゼリアが唇を弧にし、半ば冗談めかして言った。
「あなたにも、もう知られちゃったのね?」
フィリシアは短く沈黙し、ため息を落とす。
「やはり……」
卓のそばに腰を下ろし、額に指を当てる。
「王宮の中は、今のところ私が押さえている。すぐにここを洗われることはないはず。でも――父上との合意はまだ。教国の圧は強まる一方よ。このまま留まれば、いつ事が起きてもおかしくない」
リゼリアは眉をひそめるが、慌てた様子はない。
「それで?」
フィリシアは深く息を吸い込んだ。
「あなた一人をリュミエラ都市同盟へ先に逃がす手筈はつけられる。向こうで、しばらくやり過ごして」
そこで視線をアッシュへ移し、続ける。
「ノアさまとリメアは、むしろここにいたほうが安全。エミールと竜騎士は明日には帰国する。彼らが去れば、あなた方への圧は自然と緩む」
偏殿に静けさが戻る。
リゼリアは目を伏せ、指先で衣の縁を撫でる。思案の仕草。
アッシュが口を開いた。低く、揺るぎなく。
「……駄目だ」
フィリシアは一瞬、目を見開く。
「なぜ――」
「リゼリアは、俺の側に置く」
言葉は彼女の言葉を遮り、まっすぐに射抜く。
「彼女の『歌』は魔獣を制する。ひとりでリュミエラに行かせて安全と言い切れない」
短い間。彼の瞳に、ほとんど頑なとも言える色が灯る。
「行くなら、一緒に行く」
リゼリアはふっと笑い、含みのある瞳でからかう。
「どうしたの、『魔女の騎士』にでもなるつもり?」
アッシュは口角だけで笑い、低く返す。
「……何とでも呼べ」
彼は卓上の箱へ視線を落とし、声音を沈めた。
「だが、これは置いていかない。俺が持っていく」
「でも、それは本来エミールに託して王国へ――」
フィリシアが驚いた色で眉を寄せる。
「王国には、まだ情報が足りない」
アッシュは首を振る。冷たく、しかし抑制の効いた口調で。
「用途も不明なまま、渡すわけにはいかない」
そして、ごく低く付け加える。
「それに――セドリックが言っていた。『こっち、ちょっと状況が悪くてね』と。」
「セドリック……?」
フィリシアの瞳が瞬く。
「それが、暗号……?」
アッシュは頷いた。
「――だから軽挙は禁物だ」
燭火が揺らぎ、沈黙が落ちる。
フィリシアは彼をまっすぐ見つめ、やがて小さく頷いた。
「……わかった。手配する」
夜がさらに深まったころ、偏殿の扉はそっと開いた。
フィリシアの密かな手引きで、アッシュ、リゼリア、リメアは外縁の厩へ向かう。
三頭の馬がすでに繋がれており、その一頭には重い荷が括られていた。
「これは?」
アッシュが低く問う。
フィリシアは手際よく腹帯を締めながら、平板に答える。
「乾糧、薬草、すこしの銀貨。驛で泊まれるなら良し、駄目でも三、四夜は野営がきく」
アッシュは短く頷き返す。言葉少なに視線を交わすだけで、互いの意図は足りた。
リメアは隊列の脇を歩く。尾を軽く振り、蹄よりも確かな足取りで。
幼竜でありながら、走る姿に生来の威が滲む。
冷たい夜風が、王城の最後の匂いを運ぶ。
リゼリアは一度だけ振り返った。
高い城壁、遠い灯。無数の目に見張られているようで、胸がわずかに強張る。
そこへ、アッシュの押さえた声が届いた。
「――行くぞ」
リゼリアは何も言わず、マントをきゅっと掻き合わせた。
蹄の音が石道に響き、やがて野へ溶ける。
東の空が灰白にほどけ始める。
三頭の馬は息を荒げ、鼻先から白い霧を吐く。
「もう少し行って、休もう」
アッシュは歩調を落とし、空を仰いだ。
リゼリアは静かに頷く。指先は冷えて痺れ、マントの裾は夜露で湿っている。
この夜走りは、まだ身体が慣れない。それでも、歯を食いしばって文句は飲み込んだ。
リメアは一行の横を変わらず駆ける。幼い爪が土を裂き、呼吸は馬よりも乱れない。
時折、空気を嗅いでは、見知らぬ匂いがないか確かめているようだった。
やがて、陽が地平を越える。
前方に川が現れ、朝の色を受けて淡い金に揺れる。
岸には背の低いポプラが群れている。
「ここだ」
アッシュは馬から降り、手綱を根に括る。
リゼリアは地に下りるとき、足がわずかにもつれた。
アッシュが腕を支え、平板な声で言う。
「無理はするな。水を」
彼女は目を上げ、複雑な色を宿しつつも、小さく「……ありがとう」と返した。
荷から水袋と乾糧を出し、川縁に腰を落とす。
リメアはそのまま流れに吻を差し入れ、気持ちよさそうに喉を鳴らして飲む。
顔を上げれば、額の鱗が朝陽を弾き、どこか幼く無害に見えた。
水の音と、馬の呼気だけが続く。
王城の影と対照的な、短い安らぎ。
流れは緩やかに、薄金の揺片を運ぶ。
リゼリアはしゃがみ、リメアの口元の水滴を拭った。
耳もとで、幼い響きの龍語が鳴る。
〈いっしょに走るの、いちばん好き。……城よりずっといい〉
リゼリアは微笑み、低く答える。
「そうね。私も、そのほうがずっと楽」
一方、アッシュは箱を膝にのせ、留め具を確かめていた。
そのとき、澄んだ声が彼の頭の中に広がる。
【アッシュもでしょ? あたし、アッシュとリゼリアと――ずっと、こうして進みたい】
指が箱の縁で止まる。
胸の奥を、何か柔らかいものでそっと叩かれたようだった。
真っすぐな依存――否、信頼。その温度に、強張りがわずかに解ける。
口元に、ごく薄い笑みがかかった。
顔を上げると、ちょうどリゼリアの視線とぶつかった。
彼女は一瞬だけ目を見開き、眉根を寄せる。
「……何、笑ってるの?」
アッシュは首を傾け、いつもの冷ややかな調子で返す。
「何でもない」
リメアの頭に手を置く。
掌の下の温もりが、確かに寄り添っている。
――もしかすると、こんなふうに誰かと家族のように並ぶのは、初めてかもしれない。
リゼリアは、その刹那、彼の表情に宿った柔らかさを見た。
胸がかすかに震える。
冷たい戦士ではなく――まだ、笑える人間。
彼女は口を開かず、心のうちでそっと呟く。
(……そんな顔も、できるのね)
ほのかな温かさが広がる。自分でも直視しがたい種類の感情が。
リメアは首を傾げ、二人の沈黙を眺めながら尾で地面をぴんと叩く。
少し不思議、でも――悪くない。
水音と朝風が重なり合い、三人の想いをそれぞれに隔てながら、かろうじて一本の線で結び留めていた。




