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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第五章:王都セラウィン

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第60話 夜明け前の出立

 フィリシアが飛び込んできたとき、わずかに荒い息が胸を震わせていた。

 彼女の視線がアッシュとリゼリアの間で一瞬止まり、眉がかすかに寄る。何かの気配を嗅ぎ取ったかのように。


「……一つだけ問うわ。教国が探している《《魔女》》――それは、あなた?」


 視線はリゼリアへ。圧はあるが、敵意はない。

 アッシュはすぐには応えず、険しい顔のまま。

 代わりにリゼリアが唇を弧にし、半ば冗談めかして言った。


「あなたにも、もう知られちゃったのね?」


 フィリシアは短く沈黙し、ため息を落とす。

「やはり……」


 卓のそばに腰を下ろし、額に指を当てる。

「王宮の中は、今のところ私が押さえている。すぐにここを洗われることはないはず。でも――父上との合意はまだ。教国の圧は強まる一方よ。このまま留まれば、いつ事が起きてもおかしくない」


 リゼリアは眉をひそめるが、慌てた様子はない。

「それで?」


 フィリシアは深く息を吸い込んだ。

「あなた一人をリュミエラ都市同盟へ先に逃がす手筈はつけられる。向こうで、しばらくやり過ごして」


 そこで視線をアッシュへ移し、続ける。

「ノアさまとリメアは、むしろここにいたほうが安全。エミールと竜騎士は明日には帰国する。彼らが去れば、あなた方への圧は自然と緩む」


 偏殿に静けさが戻る。

 リゼリアは目を伏せ、指先で衣の縁を撫でる。思案の仕草。


 アッシュが口を開いた。低く、揺るぎなく。

「……駄目だ」


 フィリシアは一瞬、目を見開く。

「なぜ――」


「リゼリアは、俺の側に置く」

 言葉は彼女の言葉を遮り、まっすぐに射抜く。

「彼女の『歌』は魔獣を制する。ひとりでリュミエラに行かせて安全と言い切れない」


 短い間。彼の瞳に、ほとんど頑なとも言える色が灯る。

「行くなら、一緒に行く」


 リゼリアはふっと笑い、含みのある瞳でからかう。

「どうしたの、『魔女の騎士』にでもなるつもり?」


 アッシュは口角だけで笑い、低く返す。

「……何とでも呼べ」


 彼は卓上の箱へ視線を落とし、声音を沈めた。

「だが、これは置いていかない。俺が持っていく」


「でも、それは本来エミールに託して王国へ――」

 フィリシアが驚いた色で眉を寄せる。


「王国には、まだ情報が足りない」

 アッシュは首を振る。冷たく、しかし抑制の効いた口調で。

「用途も不明なまま、渡すわけにはいかない」


 そして、ごく低く付け加える。

「それに――セドリックが言っていた。『こっち、ちょっと状況が悪くてね』と。」


「セドリック……?」

 フィリシアの瞳が瞬く。

「それが、暗号……?」


 アッシュは頷いた。

「――だから軽挙は禁物だ」


 燭火が揺らぎ、沈黙が落ちる。

 フィリシアは彼をまっすぐ見つめ、やがて小さく頷いた。

「……わかった。手配する」




 夜がさらに深まったころ、偏殿の扉はそっと開いた。

 フィリシアの密かな手引きで、アッシュ、リゼリア、リメアは外縁の厩へ向かう。

 三頭の馬がすでに繋がれており、その一頭には重い荷が括られていた。


「これは?」

 アッシュが低く問う。


 フィリシアは手際よく腹帯を締めながら、平板に答える。

「乾糧、薬草、すこしの銀貨。驛で泊まれるなら良し、駄目でも三、四夜は野営がきく」


 アッシュは短く頷き返す。言葉少なに視線を交わすだけで、互いの意図は足りた。


 リメアは隊列の脇を歩く。尾を軽く振り、蹄よりも確かな足取りで。

 幼竜でありながら、走る姿に生来の威が滲む。


 冷たい夜風が、王城の最後の匂いを運ぶ。

 リゼリアは一度だけ振り返った。

 高い城壁、遠い灯。無数の目に見張られているようで、胸がわずかに強張る。

 そこへ、アッシュの押さえた声が届いた。


「――行くぞ」

 リゼリアは何も言わず、マントをきゅっと掻き合わせた。

 蹄の音が石道に響き、やがて野へ溶ける。




 東の空が灰白にほどけ始める。

 三頭の馬は息を荒げ、鼻先から白い霧を吐く。


「もう少し行って、休もう」

 アッシュは歩調を落とし、空を仰いだ。


 リゼリアは静かに頷く。指先は冷えて痺れ、マントの裾は夜露で湿っている。

 この夜走りは、まだ身体が慣れない。それでも、歯を食いしばって文句は飲み込んだ。


 リメアは一行の横を変わらず駆ける。幼い爪が土を裂き、呼吸は馬よりも乱れない。

 時折、空気を嗅いでは、見知らぬ匂いがないか確かめているようだった。


 やがて、陽が地平を越える。

 前方に川が現れ、朝の色を受けて淡い金に揺れる。

 岸には背の低いポプラが群れている。


「ここだ」

 アッシュは馬から降り、手綱を根に括る。


 リゼリアは地に下りるとき、足がわずかにもつれた。

 アッシュが腕を支え、平板な声で言う。


「無理はするな。水を」


 彼女は目を上げ、複雑な色を宿しつつも、小さく「……ありがとう」と返した。


 荷から水袋と乾糧を出し、川縁に腰を落とす。

 リメアはそのまま流れに吻を差し入れ、気持ちよさそうに喉を鳴らして飲む。

 顔を上げれば、額の鱗が朝陽を弾き、どこか幼く無害に見えた。


 水の音と、馬の呼気だけが続く。

 王城の影と対照的な、短い安らぎ。


 流れは緩やかに、薄金の揺片を運ぶ。

 リゼリアはしゃがみ、リメアの口元の水滴を拭った。

 耳もとで、幼い響きの龍語が鳴る。


〈いっしょに走るの、いちばん好き。……城よりずっといい〉


 リゼリアは微笑み、低く答える。

「そうね。私も、そのほうがずっと楽」


 一方、アッシュは箱を膝にのせ、留め具を確かめていた。

 そのとき、澄んだ声が彼の頭の中に広がる。


【アッシュもでしょ? あたし、アッシュとリゼリアと――ずっと、こうして進みたい】


 指が箱の縁で止まる。

 胸の奥を、何か柔らかいものでそっと叩かれたようだった。

 真っすぐな依存――否、信頼。その温度に、強張りがわずかに解ける。

 口元に、ごく薄い笑みがかかった。


 顔を上げると、ちょうどリゼリアの視線とぶつかった。

 彼女は一瞬だけ目を見開き、眉根を寄せる。

「……何、笑ってるの?」


 アッシュは首を傾け、いつもの冷ややかな調子で返す。

「何でもない」


 リメアの頭に手を置く。

 掌の下の温もりが、確かに寄り添っている。

 ――もしかすると、こんなふうに誰かと家族のように並ぶのは、初めてかもしれない。


 リゼリアは、その刹那、彼の表情に宿った柔らかさを見た。

 胸がかすかに震える。

 冷たい戦士ではなく――まだ、笑える人間。

 彼女は口を開かず、心のうちでそっと呟く。


(……そんな顔も、できるのね)

 ほのかな温かさが広がる。自分でも直視しがたい種類の感情が。


 リメアは首を傾げ、二人の沈黙を眺めながら尾で地面をぴんと叩く。

 少し不思議、でも――悪くない。


 水音と朝風が重なり合い、三人の想いをそれぞれに隔てながら、かろうじて一本の線で結び留めていた。

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