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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第五章:王都セラウィン

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第58話 仮面の微笑、秘めた刃

 楽の音が巡り、殿は昼のごとく明るい。絃と笛が交錯し、フィリシアは北境の商人たちとの一巡を終えたところで、さらに数名の貴族使節に囲まれた。杯と盃のあいだで、話題は次第に私的な域へと滑っていく。


「殿下は近年、商政を巧みに治め、セラウィンは日に日に富み栄えておられる」

 北境商会の領袖が愛想よく微笑み、しかし声音には探りが混じる。

「盟約が盤石なのは両国の益。……ただ、幼少のみぎり、殿下が王国皇族と婚約を結ばれたという話が絶えません。事実で?」


 南部の侯爵が杯を持ち上げ、半ば冗談めかして乗せる。

「たしかに噂は賑やかですが、どの殿下かは、いつまでもはっきりしない。情勢の移ろいやすい今、早めに御定めいただければ、諸邦にとっても安定でありましょう」


 港湾の伯爵夫人も穏やかに、しかし鋭さを隠さずに言葉を添えた。

「ましてや、国王陛下は晩得の皇子。まだお幼いとか。将来の継承に揺らぎが生じぬとも限りません。……殿下のご構え、伺えればと」


 押し寄せる潮のように、層を重ねて迫る視線。

 場の空気が目に見えぬ網で絞られていく。


 フィリシアは淀みない微笑を保ち、杯を掲げて礼を返す。

 澄んだ声は一歩も踏み込み過ぎず、しかし退きもせず――


「婚約は両国の内政。公にする時ではありません。セラウィンの当面は、富国と民安が最優先。盟誼は変わりません。私事は……この大広間で語るべきことではなくてよ」


 諸使節は顔を見合わせ、失望と興味をないまぜにした表情を交わす。


 その時、若い竜騎士が声を潜めて同僚に囁いた。

「もし《《あの方》》なら……この約束、続けられるのか?」


 同僚が咳払いで制す。

 エミールの視線が静かに走り、低い威圧だけでざわめきが消えた。


 なおも話題は婚約の周りを渦のように回り、見えぬ糸が締まっていく。

 楽団の背後に立つエミールは、杯を持ちながらも口には運ばず、視線だけをフィリシアへ送った。彼女は変わらず微笑み、柔らかに、だが堅く、迫る矛先を一つずついなしていく。

 それでも、彼の胸は収まらない。


(幼き日の婚約――それは、殿下との)


 指先が強張り、杯の縁がかすかに震える。

 第七王子ノアディスの名は、いまや「反逆」に塗りつぶされた。

 それでも人々は婚約を穿つ。もしも誰かが古い誓いを掘り当てれば、何が起きる――?


 エミールは感情を押し沈め、傍らの若い騎士に低く囁く。

「余計な口は慎め。任につけ」


 騎士は叱責の厳しさに息を呑み、それ以上は何も言わなかった。


 ふと目を上げると、フィリシアの視線とぶつかった。

 彼女は杯をわずかに掲げ、平然と微笑む。

 だがエミールにはわかる。さきほどの「旧約は両国の内政」は、拒絶であると同時に――触れてはならぬ何かを守る言葉でもあった。


(……フィリシア殿下。やはり、あの約を守るつもりなのだな)


 胸が締め付けられる。喉元で言葉は酒に溶け、喧騒に消えた。


 北境商会の領袖はまだ諦めず、笑みを崩さずに言う。

「陛下はご壮健。小王子も、日増しにお健やかに。北ではもっぱらの評判でして――殿下、どうか噂に流されませぬよう」


 フィリシアは表情を変えず、涼やかに返す。

「国事には順があります。流言に心煩わす必要はないわ。散会後は偏殿にて――商談の草案を改めて。誠意をお見せするので、どうぞ期待して」


 軽やかな一言で場の圧を押し流し、話を実務へと転じる。

 しばしして侍従が酒を満たし、楽が再び高まると、張り詰めた空気はようやく緩み始めた。


 ――その時、大扉の方で騒ぎが起きた。

 ひとりの女が踏み入る。白銀の鎧が燭火を弾き、金茶の長髪は高く結われて烈風のように揺れる。

 刃のような眼差しと冷厳な気配に、周囲の客は思わず口を噤んだ。


 女は一直線に教国の使節へ進み、二、三言ささやく。

 次の瞬間、使節たちの顔色が変わり、厳粛な表情に固まる。


 人波の向こうで、エミールとフィリシアは同時にそれを見た。


「その鎧は……」

 近くの若い王国騎士が鼻で笑い、低く吐く。

「噂の女騎士ってやつか。女が何度、真剣を受けられる? どうせ教国の看板にすぎん」

 嘲りが骨の底から滲む。


 ただ一人、エミールの表情だけが瞬時に引き締まった。

(――「聖女騎士」。やはり来たか)

 胸に重い不安が芽吹く。


 ほどなく、教国の使節が一歩進み、フィリシアに深々と一礼した。

「恐れ入ります、フィリシア王女殿下。我が国に情報あり。叛教者が貴国領へ潜入の恐れ。事態を避けるため、直ちに拘束し本国へ護送の許可を」


「叛教者……?」

 フィリシアの心臓が跳ねる。脳裏にある名がよぎる。(まさか――ノアさま下ではないわね?)


 顔には出さず、端正に微笑み、落ち着いた声で返す。

「その叛教者とは、いかなる者?」


「ただの女です」

 使節は静かに、しかし含みを持って答える。

「殿下が過度に案じることはございません」


 胸の緊張は強まる。

 フィリシアはなおも優雅さを崩さず、微笑をたたえたまま告げる。

「ここは舞踏会の席。詳らかには相応しくありません。後ほど、然るべき場で」


 言い終えるより早く、白鎧の女が一歩踏み出した。

 澄んだ、刃のような声が落ちる。

「今すぐ動く。遅れれば魔女は逃げる――彼女が最も得意とするのは、退路を選ぶこと」


「……魔女?」

 フィリシアの瞳に驚きが走るのを、隠しきれなかった。


「セイフィナ!」

 教国の使節が低く叱る。

「教国に恥をかかせるな。他国の地では礼を弁えよ」


 セイフィナは直立不動のまま、鋼のような眼で短く応じる。

「はっ」


 緊張が張り詰める。

 やがてフィリシアが再び口を開く。

 笑みを保ちつつも芯のある声で。


「皆さま、どうかご静粛に。舞は始まったばかり。然るべき手順で、速やかに対処いたします」


 教国の使節は重い面持ちで小さく頷いたが、その焦りは隠しきれない。


 フィリシアは変わらぬ微笑で数言を交わし、話題はやがて貴族たちの社交辞令に紛れていった。

 だが、彼女の胸は少しも寛がない。


 ――魔女。


 先ほどのセイフィナの言葉が反芻され、胸の底に重さが沈む。

 指しているのは――リゼリア、なのか。


 視線をそっとずらし、大広間の向こうのエミールに目をやる。

 束ねた黒髪の青年の顔は硬く、憂慮が隠し切れていない。彼もまた、察している。


 だが今のエミールは、王城で殿下に会うことは叶わない。

 やれることは――自らが、道を作ることだけ。


 フィリシアは瞼を伏せ、侍女に小声で命じた。

「偏殿へ。気付かれないように伝えて。『今夜は動きがある。――気をつけて』と」


 侍女は一瞬驚き、すぐに頷いて足早に去っていった。

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