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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第五章:王都セラウィン

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第57話 光の仮面、影の舞台

 宮鐘が長く鳴り、音は王城の石壁と穹頂に重々しく反響した。

 夜はすでに落ちている。だが大広間は白昼のごとく眩い。

 幾百の蝋燭が水晶の燭台に灯り、その光は絹と金器、宝石に砕け、殿堂を揺らめく海のようにきらめかせていた。


 絃と笛の調べが流れ、侍従が人波を縫って行き交う。

 盆の上では赤い酒と金の盃が絶え間なく入れ替わる。

 各地の使節と貴族は華やかに装い、囁き、笑い、探り合う――これは舞会であると同時に、同盟と敵対、数多の思惑が渦巻く駆け引きの場でもあった。


「――セラウィン国の至高なる王女、フィリシア・セラウィン殿下、ご入場」


 侍従の高い声が響く。

 ざわめきがわずかにやみ、幾つもの視線が一斉に向けられた。


 青銀の旗が高く掲げられ、少女が灯の下へと歩み出る。

 彼女は精緻に仕立てられた青のローブドレスをまとい、胸には海鳥の紋章。国の栄光と並び立つように煌めいていた。

 その表情は冷ややかに引き結ばれ、微笑ひとつない。歩みは確かで、刃を携える剣士さながらであった。


 大広間の隅には数名の竜騎士が控える。第四分隊の影だ。

 青銅色の軍服と鋼の綬章は光を弾き、寡黙なまま周囲に目を光らせている。


 彼らと対をなすように、深い藍のローブの男が人波の真ん中に立っていた。

 エミールである。記録簿を手に、峻厳な顔つきで、目の前のあらゆる出来事を文字へと封じていく裁定者のように――主人でも客でもないのに、その存在は多くの者の笑みを自然と浅くさせた。


 さらに奥、白の神官衣をまとい、胸に聖徽を佩いた男が杯を掲げて微笑する。周囲にはセラフィア教国の随員が従っていた。

 神聖の外衣を纏ったその視線は、しかし鋭い刃のように、まっすぐフィリシアへと落ちる。


 彼女は胸中で冷笑しつつも、手を上げて淀みなく礼を返し、そのまま人々の間へと踏み入った。光と影の舞踏が始まる。


 絃の調べが柔らかく続く中、白衣の使節が金杯を手に進み出る。

 仕草は優雅、口元にはよくできた微笑。胸の聖徽が燭火に瞬き、不可侵の威光を誇示するかのようだった。


「殿下。聖女様は常に盟国の民を案じておられます。私どもはご伝言を携えて参りました。――聖光の加護が、あなたとご国へあらんことを」


 フィリシアは表情を変えず、王族の礼法そのままに軽く頭を垂れる。

「ご厚意に感謝いたします。海鳥の翼もまた、貴国へ順風を。……聖女様はお健やかで?」


 男は杯を揺らし、淡々と答える。

「エルセリア様は諸国巡礼の途上にあり、苦しむ人々を癒やし、神意を宣べ伝えておられます」


 フィリシアは唇に薄い笑みを浮かべ、声音にほんの刃を仕込む。

「あら、まるで巡業のお芝居のようですわね」


 空気がひやりと止まる。周囲の者が息を呑む。


 白衣の男は笑みを保ったまま、しかしその底に冷気が宿った。

「聖女様のお力は紛れもない奇跡。凡俗が疑うべきものではありません」


 彼は低く笑い、杯の縁で目許を隠して続ける。

「ご国が今なお屹立していることは、まこと敬服に値します。――ただ……」


 ひと拍置き、風のように軽いのに、広間の耳に届く声で。

「異端に親しみすぎれば、不要な影が差すやもしれません」


「承知しております」

 フィリシアの声は穏やかだが、碧眼は剣の稜のごとく鋭い。


「歴史は明瞭に記しております――『聖女と竜王が並び立ったからこそ』、世界は続いたのです。

 もしそれを忘れた者がいるなら――道を外れているのは、いったいどちらかしら」


 男の眉がわずかに動く。だが衆目の中、彼は再び杯を掲げるしかなかった。

「さすが、名高き王女殿下」


 その時、背後で鎧の触れ合う微かな音。

 エミールが第四分隊の竜騎士数名を伴い、歩を進めてきた。青銅の軍装と綬章が光を返す。


 白衣の男はちらりと視線を向け、あからさまな嫌悪を宿して小さく言い捨てる――だが周囲に聞こえる程度の声量で。


「聖光に、穢れは近づくべきではない」


 エミールの眉間に皺が寄る。半歩、出る――反駁の言葉が喉まで上がった、その刹那。


 フィリシアの指先がごく小さく動いた。

 ――それだけで充分だった。冷静に、という明確な意志が伝わる。


 エミールは目を伏せ、怒気を飲み込むと、静かに列へ戻る。

 白衣の男は表情を整え、随員を連れて去っていった。


 空気が途端にぎこちなくなる。

 竜騎士の一人が冷笑し、抑えた声で刺す。


「記録官殿――王国の人間なら、なぜ何も言わない?」


 別の者が鼻を鳴らす。

「白い法衣の連中ごとき、我ら竜騎士が怯む理由があるか」


 エミールはすぐには返さなかった。彼は彼らを見据え、静かに一歩進み出ると、フィリシアに深く礼を取った。


「殿下。先日の非礼について、改めてお詫び申し上げます」

 声は平穏で、しかし厳粛だった。

「これをもって、王国よりセラウィンへの誠意と善意を示すものであります」


 言葉は重々しく、竜騎士たちの顔はさらに強ばる。

 互いに目を交わし、不満と軽蔑の色を宿しながらも、誰も声には出さず、ばらばらに散っていった。


 短い静寂。

 人の波が途切れたのを見計らい、エミールは長く息を吐いた。胸の底の澱を押し下げるように。


 彼は低く独り言のように漏らす。フィリシアにだけ届く声量で。


「……王国は、殻に閉じこもっている。竜に選ばれたというだけで若い者は奢り、

 だが今の情勢は、もはや好き勝手を許さない」


 フィリシアは横顔で彼を見やり、ほんの僅か、安堵に似た光を宿す。

 この記録官は、寡黙で堅い。しかし、情勢は見えている――盲目的な若い竜騎士たちとは違う。


 エミールは視線に気づいたのか、沈黙ののち小さく尋ねた。


「……殿下の、お加減は」

 その「殿下」は、ほとんど囁きに近かった。


 フィリシアは表情を変えず、淡く答える。

「城下町へ、少し息抜きに行かせたわ」


 その瞬間、エミールの顔色が変わる。

「城下町……? あそこは雑多で、しかも――」


 彼は言葉を切り、憂色を帯びる。

「噂では、聖女騎士が教国の使節に随行している。舞踏会に姿がないということは――下町へ」


 フィリシアは一瞬だけ目を瞬かせた。言葉を発するより早く、彼は続ける。


「一年前、北方戦線で。聖女が巡礼に帯同され、殿下もご臨席でした。

 その折、聖女と、その侍る聖女騎士が我々と会談を――彼女は目が利く。人の底を覗く。

 もし下町で殿下と出くわせば……」


 フィリシアは眉をわずかに上げ、しかし平静な声で返す。

「聖女は巡回の途上。聖女騎士が側にいるのは当然。――地方の舞踏会など、わざわざお出ましになる必要はないわ」


 軽い調子――だが、隠した諧謔が滲む。


 エミールはしばし思案し、ようやく息を抜いた。表情はなお重いが、言葉を受け入れた気配。


「出立の前に……」

 彼はさらに声を落とす。

「もう一度、殿下に拝謁したい。――取り次ぎを」


 フィリシアは彼を見つめ、ややあって静かに頷いた。

「善処するわ」

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