第6話 魔物使いの小屋
林を渡る風の音がしんと静まり、あの歌声も、今は遠く消え去っていた。
だが、アッシュの胸はなおざわめいていた。
こんな辺境で――あの「魔女」と相対するとは。
それは、運命か、呪いか。
彼女を巡る伝聞は尽きることがない。
「竜を跪かせる旋律」――
「戦場で人の理性を奪う呪いの歌」――
だが、アッシュがこの耳で聞いたあの旋律は、
ただ一つの意味を持っていた。
過去の傷を裂き開く音。
追いたい気持ちと、逃げたい本能。
その間で心が揺れる。
今は何よりも、リメアがそばにいる。
まだ未成熟で、精神も不安定な小さな竜――
あの旋律が竜に与える影響を、彼は誰よりもよく知っている。
だからこそ、怒りよりも、まず警戒が先に立つのだった。
◇
林道の地面は湿っており、ぬかるみには新しい足跡が残っていた。
泥水が乾ききっておらず、誰かがつい最近通った証拠だ。
アッシュの手が自然と剣の柄へと伸びる。
同時に、もう片方の手でリメアの背を軽く叩いた。
【……離れるな。】
リメアは目をぱちりと瞬かせ、素直に半歩寄った。
さらに進むと、道の脇に奇妙な焦げ跡が現れた。
土の表面だけが黒く焼けているのに、中央の泥は無傷のまま。
【ねえ、これ、なに? なんかキラキラしてるよ!】
リメアが首を伸ばす。
「結界の痕だ。」
アッシュは空中に半円を描きながら説明する。
「これは、魔物使いが好んで使う防護の結界だ。地面に魔力を巡らせ、領域を閉ざす術だ。」
【昨日の夜、アッシュが使ってたのと似てる?】
「原理は同じだが、構造が違う。……ほら、描いてやるよ。」
彼は枝を拾い、地面に簡略化した結界図を描いた。
いくつかの符号を強調しながら、刻むように指でなぞる。
「この印を覚えておけ。
壊れた結界を見つけたとき、応急で補修すれば、逃げる時間くらいは稼げる。」
リメアはじっと見つめながら、しっぽを地面にぱたぱた叩く。
【これ、アエクセリオンに教わったの?】
彼女の尾が一瞬ピンと立ち、好奇心に輝いた。
アッシュの指が止まる。
そして、少し間を置いてから、小さく「……ああ」とだけ答えた。
その目に、一瞬だけ柔らかな色が宿った。
◇
結界の痕を追って森を進んでいくと、やがて一軒の小屋が姿を現した。
原木と石で粗く組まれた造り。屋外には干した獣皮が吊るされ、軒下には苔むした木箱が乱雑に積まれていた。
薬草と血の焦臭が、湿った空気に漂っていた。
「人が住んでるな……」
アッシュは声を落とし、視線を屋根の影に走らせる。
すると、近くの木の幹に刻まれた魔物制御の符を見つけ、目を細めた。
この家の主は、間違いなく「印付きの魔物」と関係がある。
そのとき――
扉が「ぎい」と音を立てて開き、痩せた男が顔を出した。
警戒心むき出しの目で周囲を見渡し、地面の結界痕に気づくと眉をひそめ、小屋の外へと足を踏み出そうとする――
だが、その目線が上がった瞬間。
視線の先に、アッシュの剣があった。
男は本能的に後ずさる。「な、何者だ、おまえ……!」
アッシュは内心で驚く。
魔女じゃない……?
「動くな。」
冷たい声で命じた。
男は逃げようとしたが、次の瞬間、彼の視線はアッシュの後ろへと逸れた。
リメアを見て、瞳孔が大きく開く。
「……竜!? おまえ、それ……!」
手を上げた瞬間、掌に召喚の符が灯る。
しかし――
アッシュの方が早かった。
一歩踏み込み、剣が男の手元をかすめる。
未形成だった魔力が弾け、男の呪式は中断される。
そのまま立柱に押しつけ、剣先を喉元に突きつける。
「……何をしている。」
男は息を荒げながら、アッシュの銀髪を見て目を泳がせる。
「お、お前……王国の騎士団か?」
薄ら笑いを浮かべて続ける。
「こんな辺境にまで来るなんて、物好きだな。
オレはただ術を試していただけだ。誰にも害は与えておらん……信じんか?」
アッシュは答えず、ただ静かに睨みつける。
男は再びリメアを見て、目を輝かせた。
「それにしても、あれは本物の竜だよな……?
騎士団の竜って、王城とか前線基地にしかいないはずなのに。まさか、こんな場所で会えるとはな……」
次の瞬間、顔を引きつらせて言う。
「……いやいや、ただの白いノドトカゲ、だよな? うん、そうに違いない。」
アッシュは剣をほんのわずか前に押した。
その刃の冷たさが、男の好奇心を押し殺す。
「俺はお前の実験に興味はない。探している女がいる。
このあたりで、見かけたことは?」
男は訝しげに眉をひそめる。
「女……? いや、このあたりには俺しかいない。誰も来てない。」
アッシュはその目をじっと見つめる。
嘘を見抜くために。
だが、男の表情に不自然さはなく、剣先を少し引いた。
「……ふざけるなよ。」
そう言って、男の服の襟から手を離す。
男は唖然とした顔で、一歩後ずさる。
「……放すのか?」
「俺はただの旅人だ。」
アッシュはくるりと背を向ける。
「ただ――忠告はしておく。
『研究』するなら、旅人を巻き込むな。次は、黙って見過ごさない。」
男は口を開きかけたが、何も言わずに彼らの背中を見送るだけだった。