第53話 灰燼と沈黙の灯
夜は更けていた。
偏殿の外には風の音だけが残り、雲が月を覆い隠している。
揺らめく燭火が壁に影を落とし、その形を長く短く変えていく。
リメアは隅で身を丸め、穏やかな寝息を立てていた。
アッシュの声が途切れた。
語り終えた過去の重さが空気に残り、部屋は長い沈黙に包まれる。
リゼリアは頬杖をつき、いつものような軽い笑みもなく、ただ静かに彼を見つめていた。
「……つまり、あなたが王城から生きて出られたのは、そのセドリックという男のおかげ、ってことね。」
アッシュは短く「そうだ」と答える。その声音には感情の影もなく、まるで他人の物語を語るようだった。
「ふうん……でも、あの時の彼の口ぶりにしては、ずいぶんまともな人に聞こえる。」
リゼリアの瞳がわずかに光る。何かを見抜くような視線だった。
アッシュはしばし黙し、視線を逸らす。
「彼は王宮魔導顧問だ。あの地位に立てる人間は、魔力だけじゃない。……才もいる。」
そう言いながら、無意識に腰の魔導銃へと手をやる。
リゼリアはかすかに笑った。その声は微かで、今にも消えそうだった。
「才能、ね。……私には、あなたを使うための意図のほうが強く感じられたけど。」
アッシュは眉をひそめたが、否定はしなかった。
ただ彼女をじっと見つめ、低く問う。
「……聞いて、俺が間違っていると思ったか?」
リゼリアは一瞬言葉を失い、やがて小さく笑った。
「何を、間違ったっていうの?」
アッシュは目を伏せた。
「……セドリックの言うとおり、あの牢で『ノアディス王子』として死ぬべきだったかもしれない、ってことだ。」
リゼリアはため息をつき、彼の手の甲を軽く叩いた。
「ばかね。リメアを連れてここまで生き延びたことが、どうして間違いなの?」
アッシュの喉が小さく動いたが、何も言わず、ただ彼女を見つめ返した。
その瞳は夜の闇のように深かったが、一瞬だけ、そこに小さな光が宿る。
リゼリアは首を傾げ、今度は笑みを浮かべず、低く呟く。
「どうして急にそんな話をするの? ……忘れたの? 私は魔女。あなたは、アエクセリオンの死が私のせいだと思ってるんでしょ。」
短い沈黙。
やがて、アッシュは小さく笑った。
「そうだ。だから――もし俺がいなくなったら、リメアを頼む。」
彼は顔を横に向け、静かに続ける。
「お前が言っただろ。『リメアのために手を貸す』って。」
リゼリアは目を瞬かせ、そしてわずかに笑みを浮かべた。
反論しかけて、結局ただ小さく頷く。
「……ええ、もちろん。」
隅で眠るリメアが寝返りを打ち、尾を軽く振った。
再び静寂が戻り、燭火の明滅だけが、二人の間の距離を照らしていた。
◇
翌朝。
偏殿の扉が開き、フィリシアが足を踏み入れた。
その目の下には明らかな疲労の色がある。
アッシュは眉を寄せた。
「……眠ってないのか? セラウィン王と意見が合わなかったのか。」
フィリシアは深く息を吐き、抑えきれぬ怒りをにじませる。
「……あの愚王、何を言っても聞こうとしない。」
途中で言葉を切り、冷ややかに続けた。
「でも、説得は続けるつもり。……ただし、この件はまだ公にはできない。極秘に進める。」
リゼリアが窓辺に寄り、微笑みながら小声で言う。
「自分の父親を『愚王』なんて呼ぶ人、初めて見たわ。」
「……」
フィリシアの表情が一瞬固まり、気まずそうに視線を逸らす。
やがて真剣な声で告げた。
「竜騎士隊は、まだ数日王城に滞在する予定。……目立たぬよう、あなたたちはこの部屋に留まってほしい。エミールも頻繁には来られない。監視の目を避けるために。」
リゼリアが肩をすくめる。
「それって、軟禁じゃないの?」
フィリシアは息を呑み、わずかに顔を曇らせる。
「……否定はできないわね。でも、そんなつもりじゃないの。……ごめんなさい。」
アッシュは彼女の疲弊した横顔を見つめ、低く、しかし真摯な声で言った。
「……ご苦労だったな。」
フィリシアは少し驚いたように目を見開き、何も言わず彼の隣に腰を下ろした。
しばしの沈黙。
やがてアッシュが口を開く。
「昨日、エミールと話した件だが――あの箱の中、竜王の血で染まった符釘が入っているらしい。……心当たりは?」
「符釘?」
フィリシアは指先で机を軽く叩きながら思案するように言った。
「魔獣に打ち込み、命令を従わせるためのものね。……でも血で染まったとなると、何か別の意味があるはず。」
アッシュは眉をひそめたまま黙り込む。
その推測は氷の刃のように冷たく、誰も確信を持てない。
長い沈黙ののち、リゼリアがゆっくりと口を開いた。
「私は……あの魔獣たちが苦しむのを、もう見たくない。
どんな目的で使うにしても、あの符釘も、実験も――終わらせたい。」
灯の炎が彼女の瞳に映り、そこに確かな意志が揺らめいた。
フィリシアはその光を見つめ、わずかに目を伏せた。
その言葉がどれほど理想的か理解していながら、胸の奥で何かが震える。
――自分も、言えなかった願いを彼女は口にした。
アッシュは目を細め、低く問う。
「どうやって? また無謀に飛び込むつもりか。……前みたいに。」
リゼリアは息を詰まらせ、すぐに笑みを浮かべた。
「……あれは偶然よ。」
「偶然?」
アッシュの声には冷たさよりも、押さえきれない焦りが滲んでいた。
「お前はいつもそう言う。だが、本当に巻き込まれた時の代償を――わかってるのか?」
リゼリアは答えず、ただじっと彼を見つめ返す。
琥珀の瞳に、薄紅の光がかすかに差した。
けれどその奥は、やはり霧のように掴めなかった。




