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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第五章:王都セラウィン

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第53話 灰燼と沈黙の灯

 夜は更けていた。

 偏殿の外には風の音だけが残り、雲が月を覆い隠している。

 揺らめく燭火が壁に影を落とし、その形を長く短く変えていく。

 リメアは隅で身を丸め、穏やかな寝息を立てていた。


 アッシュの声が途切れた。

 語り終えた過去の重さが空気に残り、部屋は長い沈黙に包まれる。


 リゼリアは頬杖をつき、いつものような軽い笑みもなく、ただ静かに彼を見つめていた。

「……つまり、あなたが王城から生きて出られたのは、そのセドリックという男のおかげ、ってことね。」


 アッシュは短く「そうだ」と答える。その声音には感情の影もなく、まるで他人の物語を語るようだった。


「ふうん……でも、あの時の彼の口ぶりにしては、ずいぶんまともな人に聞こえる。」

 リゼリアの瞳がわずかに光る。何かを見抜くような視線だった。


 アッシュはしばし黙し、視線を逸らす。

「彼は王宮魔導顧問だ。あの地位に立てる人間は、魔力だけじゃない。……才もいる。」

 そう言いながら、無意識に腰の魔導銃へと手をやる。


 リゼリアはかすかに笑った。その声は微かで、今にも消えそうだった。

「才能、ね。……私には、あなたを使うための意図のほうが強く感じられたけど。」


 アッシュは眉をひそめたが、否定はしなかった。

 ただ彼女をじっと見つめ、低く問う。


「……聞いて、俺が間違っていると思ったか?」


 リゼリアは一瞬言葉を失い、やがて小さく笑った。

「何を、間違ったっていうの?」


 アッシュは目を伏せた。

「……セドリックの言うとおり、あの牢で『ノアディス王子』として死ぬべきだったかもしれない、ってことだ。」


 リゼリアはため息をつき、彼の手の甲を軽く叩いた。

「ばかね。リメアを連れてここまで生き延びたことが、どうして間違いなの?」


 アッシュの喉が小さく動いたが、何も言わず、ただ彼女を見つめ返した。

 その瞳は夜の闇のように深かったが、一瞬だけ、そこに小さな光が宿る。


 リゼリアは首を傾げ、今度は笑みを浮かべず、低く呟く。

「どうして急にそんな話をするの? ……忘れたの? 私は魔女。あなたは、アエクセリオンの死が私のせいだと思ってるんでしょ。」


 短い沈黙。

 やがて、アッシュは小さく笑った。


「そうだ。だから――もし俺がいなくなったら、リメアを頼む。」


 彼は顔を横に向け、静かに続ける。

「お前が言っただろ。『リメアのために手を貸す』って。」


 リゼリアは目を瞬かせ、そしてわずかに笑みを浮かべた。

 反論しかけて、結局ただ小さく頷く。


「……ええ、もちろん。」


 隅で眠るリメアが寝返りを打ち、尾を軽く振った。

 再び静寂が戻り、燭火の明滅だけが、二人の間の距離を照らしていた。


 ◇


 翌朝。

 偏殿の扉が開き、フィリシアが足を踏み入れた。

 その目の下には明らかな疲労の色がある。


 アッシュは眉を寄せた。

「……眠ってないのか? セラウィン王と意見が合わなかったのか。」


 フィリシアは深く息を吐き、抑えきれぬ怒りをにじませる。

「……あの愚王、何を言っても聞こうとしない。」


 途中で言葉を切り、冷ややかに続けた。

「でも、説得は続けるつもり。……ただし、この件はまだ公にはできない。極秘に進める。」


 リゼリアが窓辺に寄り、微笑みながら小声で言う。

「自分の父親を『愚王』なんて呼ぶ人、初めて見たわ。」


「……」

 フィリシアの表情が一瞬固まり、気まずそうに視線を逸らす。


 やがて真剣な声で告げた。

「竜騎士隊は、まだ数日王城に滞在する予定。……目立たぬよう、あなたたちはこの部屋に留まってほしい。エミールも頻繁には来られない。監視の目を避けるために。」


 リゼリアが肩をすくめる。

「それって、軟禁じゃないの?」


 フィリシアは息を呑み、わずかに顔を曇らせる。

「……否定はできないわね。でも、そんなつもりじゃないの。……ごめんなさい。」


 アッシュは彼女の疲弊した横顔を見つめ、低く、しかし真摯な声で言った。

「……ご苦労だったな。」


 フィリシアは少し驚いたように目を見開き、何も言わず彼の隣に腰を下ろした。

 しばしの沈黙。


 やがてアッシュが口を開く。

「昨日、エミールと話した件だが――あの箱の中、竜王の血で染まった符釘が入っているらしい。……心当たりは?」


「符釘?」

 フィリシアは指先で机を軽く叩きながら思案するように言った。

「魔獣に打ち込み、命令を従わせるためのものね。……でも血で染まったとなると、何か別の意味があるはず。」


 アッシュは眉をひそめたまま黙り込む。

 その推測は氷の刃のように冷たく、誰も確信を持てない。


 長い沈黙ののち、リゼリアがゆっくりと口を開いた。


「私は……あの魔獣たちが苦しむのを、もう見たくない。

 どんな目的で使うにしても、あの符釘も、実験も――終わらせたい。」

 灯の炎が彼女の瞳に映り、そこに確かな意志が揺らめいた。


 フィリシアはその光を見つめ、わずかに目を伏せた。

 その言葉がどれほど理想的か理解していながら、胸の奥で何かが震える。


 ――自分も、言えなかった願いを彼女は口にした。


 アッシュは目を細め、低く問う。

「どうやって? また無謀に飛び込むつもりか。……前みたいに。」


 リゼリアは息を詰まらせ、すぐに笑みを浮かべた。

「……あれは偶然よ。」


「偶然?」

 アッシュの声には冷たさよりも、押さえきれない焦りが滲んでいた。

「お前はいつもそう言う。だが、本当に巻き込まれた時の代償を――わかってるのか?」


 リゼリアは答えず、ただじっと彼を見つめ返す。


 琥珀の瞳に、薄紅の光がかすかに差した。

 けれどその奥は、やはり霧のように掴めなかった。

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