第52話 符釘と竜の血
側殿の応接室にはすでに灯りがともり、古木の梁に吊るされた水晶のシャンデリアが、柔らかい光を落としていた。
長机の前には、深い藍のローブを纏った男が静かに座っていた。彼はゆっくりと顔を上げ、その瞳には人の内側を見透かすような鋭さがあった。
その姿は痩身ながらも長年の鍛錬を思わせる凛とした佇まい。
剣士のような筋骨隆々さはないが、むしろそれが冷厳さと知性を際立たせていた。
彫刻のような整った顔立ち。黒髪は後ろで銀の留め具に束ねられ、額の前髪が微かに光を受けて揺れていた。高い鼻梁に引き締まった唇――全身から「無駄口を叩かぬ者」の空気が滲んでいた。
胸元には王国騎士団の紋章。腰には記録官特有の巻物筒と短剣を携え、戦士ではなく、理性と記録を担う者としての静かな威圧感をまとっていた。
「……ノアディス様」
落ち着いた声が部屋に響く。
「ようやくお会いできました」
男はエミール――王国騎士団の記録官。ゆっくりと立ち上がり、アッシュに向かって一礼した。
アッシュは眉をひそめ、冷たく遮るように言った。
「ここではその呼び名を使うな。俺は今、アッシュだ。冒険者の身だ。そして……彼女はリゼリア。こっちは……アルビノのロングスロートリザードだ」
その口調は淡々としていたが、隣に立つ者たちをしっかりと紹介していた。
エミールは一瞬だけ目を見張ったが、すぐに口元に微かな笑みを浮かべた。
その瞳には、どこか懐かしさと安堵が滲んでいる。
「失礼しました……あまりにお会いできて嬉しくて」
声は低く、まるで何かを恐れているかのように小さかった。
「最後にお別れしてから、もう半年が経ちます……ノアディス様が、こうして無事に――目の前にいらっしゃるのが、信じられないくらいです」
その視線はアッシュの全身を確認するように注がれ、まるで幻ではないと確かめているようだった。
そのまなざしには、尊敬と、抑えきれないほどの感慨が入り混じっていた。
アッシュはその目を避けるように、眉間を押さえながら低く呟いた。
「だから、そう呼ぶなって言ってるだろ」
「……承知しました」
エミールは表情を引き締め、静かに席へ戻った。空気は再び沈静したが、どこかに熱が残っていた。
そのやり取りを見ていたリゼリアは、ふと首を傾げ、茶化すように言った。
「ふふ、思ったよりも仲がいいのね?」
エミールは彼女に視線を移し、相変わらず冷静な声で、だがその語調には固い信念が宿っていた。
「私は王国騎士団記録官として、すべての戦いの記録と真実を残す責任があります。それは決して歪められてはならないものです」
「私にとって殿下――今のお名前がどうであれ――あなたは追随すべき騎士そのものです」
その言葉に、室内の空気がわずかに凍った。
アッシュは答えず、ただ眉間を揉みながら、沈黙したままだった。
そんな様子を見つめながら、リゼリアの心には、名状しがたい感情がよぎる。
条件もなく、疑いなく尊敬されるその姿。
彼に向けられるまっすぐな信頼。
それに比べて自分は――何も語らず、ただ隣にいるだけの存在。
どこか、その存在の軽さに、胸の奥が静かに疼いた。
エミールはリゼリアの表情の変化に気づいたようだったが、あえて何も聞かず、代わりに表情を引き締めて口を開いた。
「今回、私が竜騎士を伴って南下したのは、王国と同盟諸国との外交交流を記録・調査するという公式な任務によるものです。しかし、実際には――」
彼は声を落とし、アッシュをまっすぐ見据える。
「我々は、フィリシア様と共に、アエクセリオン様の死の真相を探っています。そして、王国第七王子ノアディス様に掛けられた反逆の疑いを晴らすためでもあります」
アッシュの目が鋭く光る。
「……我々?お前以外に誰が?」
エミールは頷き、懐から鈍い光沢を放つ魔導通信器を取り出しながら答えた。
「私一人の力では、到底及びません。ですが、王国の中には、今なお殿下を信じる者たちがいます。その者たちを、今、我々は集めつつあるのです――セドリック・ローン様を中心に」
「……セドリック?」
アッシュの表情が一瞬で引き締まり、声は思ったより低く沈んだ。
通信器のクリスタルが光を帯び始めた瞬間、軽薄で陽気な声が部屋中に響く。
「んん、テステス、聞こえる? こちらアルヴィリオン王国、セド様だよ〜ん?」
エミールが少し頭を下げる。
「セドリック様、こちら聞こえております」
「よかった〜。長距離通信って魔力消耗するから、さっさと要点に行こうね」
そう言いつつも、その声はまるで緊迫感がなかった。
アッシュはじっと通信器を見つめ、低く名を呼ぶ。
「……セドリック」
すかさず返ってきたのは、軽く笑う声だった。
「おおっと、これはこれは。灰燼王子じゃないか。亡命生活は楽しいかい?」
リゼリアが思わず眉をひそめて、小声で囁く。
「……誰なの、この軽薄な男?」
アッシュが答える前に、通信器からまたもや茶化すような声が飛び込んでくる。
「おやおや、その声……なんてキュートな響き。これは美女に違いない! 初めまして、お嬢さん。オレ様はアルヴィリオン王国の魔導顧問、セドリック・ローンと申します。愛を込めて『セド様♡』って呼んでいいよ?」
リゼリアは目を細め、冷たく言い放つ。
「さっき通信は魔力がかかるって自分で言ったでしょ。なら、くだらない冗談を言う時間なんてないはず」
「う〜ん、その辛辣さもまた魅力的だねぇ」
セドリックは笑いながらも、妙に嬉しそうに応じた。
アッシュは苛立ちを抑えながら低く切り込む。
「……本題に入れ」
「はいはい、味気ないねぇ」
セドリックの声が少し真面目になった。
「で、その箱……今、君の手元にあるんだろ?」
アッシュは目を細め、真剣な口調で答える。
「ああ。だが、中身はわからない。開けようにも、開かない」
「そりゃそうだよ。あれは――ある人の特注品だからね。オレ様でも解くには時間がかかる」
アッシュは歯を食いしばりながら低く問い返す。
「中身は……何だ?」
そして、セドリックの声が、今までにない冷たさを帯びて告げた。
「――竜王の血を染み込ませた符釘だよ」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
「なに……っ?」
リゼリアが息を呑み、目を見開く。
アッシュの心臓が一瞬止まったかのように締めつけられる。
「いやー、まずいまずい。魔力が尽きそうだわ〜」
セドリックの語尾が軽くなる。
「待て、ちゃんと説明しろ」
アッシュは必死に通信器に叫ぶ。
水晶は明滅を繰り返し、今にも光が消えそうだ。
するとセドリックの声が、急に硬く変わった。
「……こっち、ちょっと状況が悪くてね。続きはまた後で」
その言葉を最後に、通信器の光が一気に消え、低いノイズだけが残った。
沈黙が訪れる。
アッシュは拳を握りしめ、黙したまま天井を見上げた。
リゼリアがそっと唇を引き結び、恐る恐る尋ねる。
「……竜王の血が染みた符釘って、どういう意味……?」
アッシュは答えない。口をつぐんだまま、暗い影を落とした目を閉じていた。
エミールは静かに通信器をしまい、言葉を選びながら口を開く。
「この件は……想像以上に深い闇が絡んでいます。セドリック様が軽口を叩く時でさえ、ああまで真剣な口調になるのは……」
彼は少し呼吸を整え、アッシュを正面から見据えた。
「殿下――」
低く、そして強く続ける。
「たとえ、今のあなたがその名を否定していようと……王国には、あなたの決断を待っている人々が、まだいます」
アッシュの眉間に、さらに深い影が落ちる。
その瞳は冷たく伏せられ、短く一言だけ返した。
「……俺は、王国に戻らない」
リゼリアはそんな彼を見つめながら、胸の奥に言葉にできないざわめきを感じていた。
彼の言葉は明確だった――しかし、先ほどの一瞬見えた揺らぎは、確かに存在していた。
その一瞬に、自分も――巻き込まれていくような気がした。




