第49話 名もなき照れ隠し
宿駅の広間には長い食卓が設けられ、旅人たちが食事を取りながら休憩できるようになっていた。
夜が深まるにつれ、暖炉の火がぱちぱちと音を立て、木のテーブルに置かれた乾パンやスープの影が揺れた。
リゼリアは固いパンを二口かじった後、ふと目を上げる。瞳にはどこかいたずらめいた光が宿っていた。
「ちょっと、外を歩いてくるわ」
アッシュは顔も上げず、淡々と答える。
「……魔獣たちと挨拶でもしに行くつもりだろ」
リゼリアは唇を引き結んで笑い、否定はしなかった。立ち上がって、軽く服の裾をはたく。
フィリシアは眉をひそめ、口を開く。
「リゼリアさん、まだ本調子ではないでしょう。夜の外出は危険です。一人では――」
だが、その言葉を遮るようにアッシュが冷たく言い放った。
「放っておけ。行くなら行かせればいい」
リゼリアは肩をすくめると、手をひらひらと振って広間の出口から姿を消した。
一瞬、沈黙が落ちる。
フィリシアはアッシュへと視線を移し、どこか納得できない表情で問いかける。
「……ノアさま。あなたは、なぜリゼリアさんに対してそんなに矛盾した態度を取るのですか? 普段は食事や体調まで気にかけているのに、今は何も引き止めない……」
アッシュはようやく顔を上げ、深い瞳で彼女を見据えながら、平坦に言う。
「それが気遣いだと思うか?」
少し間を置いて、彼は続けた。
「俺は……ただ、彼女のせいで行程が遅れるのが嫌なだけだ」
その冷たく切り捨てるような言葉に、フィリシアは一瞬言葉を失った。
――確かに、彼らしい口ぶりだった。感情を排した合理主義。
だが、頭の中には別の情景が浮かぶ。
食卓で、何も言わずにリゼリアにパンを渡したこと。彼女がふらついた時、自然に支えた腕。
それらは計算ではなく、ただ滲み出るような反応だった。
――あれが「気遣い」でないのなら、いったい何をそう呼ぶのか。
リゼリアは小さな袋を肩に背負って、遠くへ歩いていく。
リメアは首を傾けてその背中を見送ったが、護衛に止められてついていけず、不満げに鼻を鳴らした。
沈黙の後、フィリシアが口を開いた。
「彼女、よくこうやって勝手に出歩くんですか?」
「まあな。大抵は、近くの魔獣と挨拶だ。野営中もいつもそうだ」
アッシュは淡々と返す。
フィリシアは眉をひそめ、さらに何か言おうとしたが、アッシュがふと思い出したように言葉を足した。
「俺と彼女が初めて出会ったのも……ヴァルフロストに助けられた時だった。あいつが頼んだらしい。そうでなければ、あの時、俺はラッセルに捕まっていただろう。」
「ヴァルフロスト……? あの伝説級の高位魔獣……?」
フィリシアは思わず声を上げ、驚きに目を見張る。
間を置いてから、さらに問い詰めるように続けた。
「それ、本当なのですか? どうしてそんなことを?」
アッシュは目を伏せ、静かに答える。
「――たぶん、償いのつもりだ。彼女……アエクセリオンの死に、何か関わってるみたいだ」
「じゃあ、どうして……真相を聞き出さないの?」
フィリシアの声には困惑と焦りが混じっていた。
「聞いたさ」
アッシュの声音は、石のように重かった。
「でも彼女は、死んでも言わない。だから……俺は待つしかない」
「それでも、そばに置いているのは、そのため?」
アッシュは首を振り、視線を遠くへ向けた。
「俺は、彼女に無理強いしたことはない。ただ……リメアのために、彼女は一緒に来ると決めただけだ」
フィリシアは小さく息をつく。
「……あなたたち、なんだか奇妙ですね」
アッシュは反応せず、淡々と続けた。
「彼女の力が明るみに出たら、各勢力が放っておかないだろう。俺のそばにいる方が、まだ安全だ」
フィリシアはじっと彼を見つめ、複雑な感情を瞳に浮かべた。
そして、ぽつりと漏らす。
「なるほど……それで、あなたの態度がいつも掴めないのですね」
アッシュは眉をひそめたが、声の調子は変わらなかった。
「俺には、そんなつもりはない」
フィリシアはしばし彼を見つめたまま、やがてその言葉を胸の奥へ沈めたように目を伏せ、静かに言った。
「……わかりました」
指先で湯飲みの縁をなぞり、ふと顔を上げて、遠くの道を見つめながら言葉を続ける。
「でも……ラッセルは、そんなに簡単に手を引く相手ではありません。ここは南部ですから、今はまだ安全ですが……」
その時、軽やかな足音が近づいてきた。
リゼリアが両手に野花を抱えて戻ってきた。顔色もすっかり良くなり、まるで体調不良などなかったかのように晴れやかな表情をしている。
「近くの魔獣たち、とっても優しかったよ」
そう言って、彼女はリメアの背の鱗の間に花を差し込んだ。
「これ、プレゼントしてくれたの」
リメアは背を震わせ、花びらを少し落としたが、逃げることなく頭を彼女の手に擦りつけた。
アッシュはちらりと彼女を見て、静かに言った。
「勝手に出歩いて、いつか痛い目見るぞ」
「大丈夫、大丈夫。なんたって私は魔女だもの」
リゼリアは肩をすくめて明るく笑いながら、ふとアッシュに目を向ける。
その瞳には、言葉の続きを待っているような光があった。
だが、アッシュはそれに応えず、水筒を彼女に差し出した。
リゼリアは一瞬驚き、すぐに口元を緩めて小さく笑い、水を受け取って静かに口に含んだ。
フィリシアはその光景を黙って見つめていた。
そして、ようやく理解する――
「気遣い」とは、時に言葉ではなく、ただ自然に現れるものなのだと。




