第48話 揺れる馬車と、不器用な距離
朝霧がまだ晴れぬ中、石畳を馬蹄の音が叩く。
馬車隊はゆっくりと進み、アッシュは隊列の後方で静かに護衛と馬車の後を追っていた。
二人の護衛が先頭を行き、他の者は馬車の両側に配置されている。
しかし、車内の空気は外の清々しさとは程遠かった。
道の揺れに合わせて、リゼリアの顔は次第に青ざめ、額には薄く汗が滲み、両手はドレスの裾をぎゅっと握りしめていた。
リメアは初めての馬車に興奮し、最初は窓から外を覗いていたが、すぐに彼女の異変に気付き、低く鳴きながら不安げに腕に顔を擦り寄せてきた。
それに気づいたフィリシアが、身体を少し傾ける。
「リゼリアさん……お加減が悪いのでは?」
「……大丈夫よ、こんな揺れくらい……」
リゼリアは無理に笑みを作ったが、その声には明らかに力がなかった。
そう言った矢先、彼女の体がふらりと揺れた。
フィリシアはすぐに馬車の壁を叩いて停車を命じる。
馬車が止まると、リゼリアは扉を開けて飛び出し、道端の木に手をついて、乾いた吐息を吐き始めた。
隊列は一時中断され、護衛たちは緊張の色を浮かべる。
リメアは顔を窓から出し、彼女の背中に鼻を近づけ、心配そうに低く鳴いた。
フィリシアは眉をひそめ、少し早口になる。
「このままでは、今夜中に宿駅まで辿り着けないかもしれません……」
その言葉が終わるより先に、馬の蹄の音が近づいてきた。
アッシュが馬から降り、リゼリアの元へと歩み寄る。
彼は落ち着いた声で、だが拒否を許さぬ口調で告げた。
「このまま馬車に乗っていても、もっと辛くなるだけだ」
リゼリアは顔を上げた。目尻にはまだ涙が滲んでいたが、無理に口角を上げて笑う。
「だから何? まさか背負って行くつもり?」
アッシュは答えず、黙って彼女の前に屈み――そのまま抱き上げた。
「ちょっ……!?」
彼女は驚いて暴れようとするが、彼の腕の力は揺るがなかった。
「放してよ!」
「動くな」
低い声が静かに響く。
アッシュはそのまま彼女を馬に乗せ、自身も後ろからまたがり、手綱を片手に、もう一方の手を彼女の腰に添えて身体を支えた。
「文句は後にしろ。今は黙って座ってろ」
リゼリアは顔を赤らめ、歯を食いしばりながら小さく言い返す。
「……誰があなたに世話されたいってのよ」
そう言いながらも、胸の中の不快感は少しずつ晴れていく。
馬車よりも、彼の背中の温もりがずっと心地よかった。
フィリシアは車内からその様子を見ていた。
瞳にほんのわずかな影を落としたが、表情には出さず、護衛に命じる。
「進みなさい」
隊列は再び動き出した。
アッシュは隊の後方で馬を進める。その腕の中、リゼリアは次第に呼吸を整え、静かに目を閉じた。
前方の馬車では、リメアが再び顔を出し、興味津々でこちらを見つめている。
リゼリアは手を挙げて軽く振った。
「引っ込んで。危ないから」
アッシュが低く注意する。
リメアは渋々顔を引っ込めたものの、どうしても気になるのか、鼻先だけを窓から覗かせ、きらきらとした青の瞳でじっと二人を見守っていた。
アッシュは腕の中のリゼリアを見下ろし、少しだけ口を開いた。
「……軽すぎる。魔女って、皆こんなもんか?」
リゼリアは反論しようと身を起こしかけたが――
その瞬間、彼の手が腰を押さえつけた。
「動くな」
仕方なく彼女は口で反撃する。
「……あなた、痩せてるくせに妙に力あるのね」
「お前が虚弱すぎるだけだ」
アッシュの声は相変わらず淡々としていた。
前方の馬車の中で、フィリシアが微かに頭を傾けた。
なにか聞こえたようだったが、結局振り返らず、代わりに簾を上げて冷たい風を車内に入れ、胸の奥のわだかまりを静かに押し込んだ。
◇
馬車はがたがたと揺れながら夕暮れ時に差しかかり、空は淡い紅色に染まり始めていた。
犬の吠える声と車輪の音が遠くから聞こえ、石道の果てにようやく一つの宿駅が現れた。
青瓦と木の壁の建物が道端に立ち、扉の上には油灯が下がっており、黄昏の中で揺れていた。
一行が中庭に入ると、従者たちが馬を引き、荷を運び始めた。
護衛隊長はすぐに宿の管理人と交渉に向かい、部屋と馬の世話を手配した。
アッシュは馬から降り、まだ体調が万全でないリゼリアを優しく下ろす。
だが彼女は地に足をつけるなり、彼の手を振り払って仰ぎ見る。
「私は、そんなにヤワじゃないの」
アッシュは「……ああ」とだけ答え、それ以上は何も言わなかった。
リメアはすでに馬車から飛び降り、院内を嬉しそうに見回していた。
尻尾で石を跳ね飛ばし、数頭の馬を驚かせて鼻を鳴らさせる。
「リメア、走り回らないで」
リゼリアが慌てて呼び止めると、リメアは彼女のもとへ戻り、頭を彼女の腕に軽く押し付けて、無事を確かめるような仕草をした。
最後に馬車から降りたフィリシアは、表情こそ整っていたが、眉間にはまだ心配の色が残っていた。
彼女はリゼリアを一瞥し、何か言いかけたが――結局、口をつぐみ、従者に指示を出した。
「部屋を用意して」
従者は深く一礼し、一行を館内へと案内する。
宿駅の中は暖かな灯に照らされ、炭火と麦湯の香りが漂い、昼間の寒さを優しく拭い去ってくれた。




